第34話
壁際に叩きつけられた暁人の腕の中で、凪が小さく、だが酷く重い咳き込みの音を立てた。
「……クソ、クソクソクソ」
吐血混じりの悪態。しかし、暁人を見上げる彼女の瞳からは、先ほどまでの死を待つような諦観は完全に消え失せていた。
凪は血に濡れた手で壁を掴み、震える両脚に無理やり力を込める。ボロボロになった身体のどこにそんな力が残っているのか。彼女は暁人の制止を振りほどくようにして、再びその両足で泥濘む大地に立ち上がった。
「霧島、動いたら……」
「勘違いするな。死にぞこないに庇われるほど、私達の制服は軽く作られちゃいない……!」
凪は腰のホルスターから、生き残っていた予備の対鬼用アサルトダガーを引き抜いた。スイッチを入れると、刀身が青白い火花を散らして甲高く鳴動する。
満身創痍。立っていることすら奇跡のような状態でありながら、その構えにはプロフェッショナルとしての苛烈な殺気と、一片の隙もない死地での集中力が宿っていた。
「素晴らしい。その命の瞬き、実に美しいですよ。壊れかけの玩具の方が、愛着が湧くというものです」
ヴェスパーが優雅に腕を広げ、嗤った。
再び、化け物の姿が視界から消失する。
(来る……ッ!)
暁人の内なる本能が絶叫する。
だが、暁人よりも早く、死線を潜り抜けてきた凪の戦闘勘が反応した。
「右ッ!!」
凪の叫びと同時。暁人のすぐ右側面の空間から、大気を切り裂いて漆黒の爪が迫る。
凪は暁人を蹴り飛ばしながら、一歩前に踏み込み、迫り来る爪の連撃を高周波ダガーで迎え撃った。
ガガガガァァンッ!!
金属と硬質な爪が衝突し、凄まじい火花が夜の暗闇に散る。
圧倒的な力の差。凪の細い腕の骨が悲鳴を上げ、ダガーの刃が徐々に削り取られていく。しかし彼女は歯を食いしばり、致命傷となる軌道だけをミリ単位で逸らし続けていた。
(すげえ……あの速度に、反応してる……!)
蹴り飛ばされ、泥水の中を転がった暁人は、凪の決死の防衛戦に目を見張った。だが、長くは持たない。血が流れすぎている、ただでさえ人間と鬼とでは埋めようのない絶望的な壁がある。
(見ているだけじゃダメだ。俺も、戦うんだ……ッ!)
暁人は強く歯を噛み締め、皮膚の裏側で蠢く鬼の力を、さらに一段階引き出す。
理性が黒い泥に沈みかけ、視界が赤く染まる。激痛に似た全能感が全身の筋肉をパンパンに膨れ上がらせた。
「オオォォォォッ!!」
暁人は獣のような咆哮を上げ、足元のひしゃげた車のドアを両手で掴み取った。普通の人間の腕力ではビクともしないはずの鉄の塊が、嫌な音を立てて車体から引きちぎられる。
暁人はそれを、ヴェスパーの無防備な背中へ向けて全力で投げつけた。
砲弾のような速度で飛来する鉄の塊。
「……目障りな」
ヴェスパーは凪へ攻撃を加えた姿勢のまま、振り返りもせずに背中の骨翼を振るった。
バキィィンッ! という轟音と共に、車のドアが空中で木端微塵に粉砕される。
だが、その一瞬の意識の分散。
凪が待ち望んでいた隙だった。
「気を逸らしてる余裕が、お前にあるのかよッ!」
凪は後退を止め、自ら強引に前へ踏み込んだ。ヴェスパーの爪が彼女の肩口を深く抉るが、意に介さない。肉を切らせ、骨を断つ。懐へ潜り込んだ凪の高周波ダガーが、ヴェスパーの無防備な胸元を真下から斬り上げた。
「チィッ……!」
青白い閃光が走り、ヴェスパーの豪奢な衣服が裂け、青白い肌からどす黒い血が空中に舞う。
初めて化け物が苦痛に顔を歪め、後方へ跳躍して距離を取ろうとした。
しかし、その着地点には、常軌を逸した速度で先回りしていた暁人の姿があった。
「逃がすかよォォッ!!」
暁人の手には、瓦礫の山から引き抜かれた、先端の尖った太い鉄筋が握られていた。
人間の限界を超えた膂力と、怒り、そして恐怖。そのすべてを乗せた渾身の刺突が、体勢を崩したヴェスパーの背中へ、死角から一直線に突き刺さる。
ガァァァンッ!!
鉄筋が肉を貫く鈍い音。
「ガ、ァ……ッ!?」
ヴェスパーの口から、初めて驚愕と苦悶の声が漏れた。
暁人の突き立てた鉄筋は、ヴェスパーの左肩の裏側を深々と貫き、化け物の身体を地面へと縫い留めていた。
「やった……!」
息を呑む暁人。凪もまた、荒い息を吐きながらダガーを構え直す。
人間という圧倒的な弱者が、絶対的な捕食者の牙を躱し、見事な連携で反撃の刃を届かせた瞬間だった。
背中を貫いた鉄筋と、胸元を斬り裂いた高周波ダガー。
人間の必死の足掻きが、確かに絶対的な捕食者の肉体を捉えた。
だが――降りしきる雨の中、訪れたのは凄まじい歓喜ではなく、凍りつくような静寂だった。
「……驚きました。まさか、這い回るだけの虫が、私の服を汚すとは」
ヴェスパーの声から、先ほどまでの気の抜けていた声色がが完全に消え失せていた。
今までとは違う冷酷さが、路地裏の空気を支配する。彼は背中から深く突き刺さった太い鉄筋を無造作に掴むと、まるでゼリーに刺さった爪楊枝でも抜くかのように、腹部から引き抜いた。
「なっ……!?」
暁人が息を呑む。
引き抜かれた傷口からは黒い蒸気が立ち上り、グチュグチュと悍ましい音を立てて肉が瞬く間に塞がっていく。凪が決死の覚悟で切り裂いた胸元の傷も同様だ。人間であれば間違いなく致命傷となる一撃を、化け物は文字通り、数秒で無かったことになった。
圧倒的な再生能力。鬼が強者として君臨できる所以。
自分たちの命を削った決死の連携すら、この怪物にとっては少し痛いだけの泥遊びに過ぎなかったのだ。
「遊戯は終わりです。私を殺せたと勘違いでもしましたか?人間の知能の低さには、心底……反吐が出ますね」
ヴェスパーの瞳が、侮蔑と不快感に細められた。
直後、彼の背後の骨翼が、先ほどとは比べ物にならない次元の速度で薙ぎ払われる。
「しまっ――」
反応すら許されない。暴風のような一撃が凪の身体を直撃し、彼女はボロ布のように吹き飛ばされ、数十メートル先の瓦礫の山に激突して完全に動かなくなった。
「凪ッ!!」
暁人が叫んだ瞬間、首に万力を思わせる冷たい手が食い込んだ。
「ガ、ァ……ッ!?」
そのまま片手で軽々と空中に吊るし上げられる。視界の先には、氷のように冷たいヴェスパーの真紅の双眸があった。
「あなたもですよ、出来損ない。中途半端に同胞の匂いを漂わせておいて、その程度の力とは。……ひどく不愉快だ」
ギリ、ギリと首を締める力が強まる。
頸動脈が押し潰され、酸素が絶たれ、暁人の視界が明滅を始める。必死にヴェスパーの腕を両手で掴み、引き剥がそうと爪を立てるが、まるで冷たい鋼の柱を掴んでいるかのようにビクともしない。
(息が……ッ、が、ァ……!)
人間としての脆弱な肉体が、ミシミシと悲鳴を上げて崩壊していく。
体内に潜む鬼の部分ですら、眼前の圧倒的な捕食者の前では完全に委縮し、恐怖に震え上がっているのがわかった。覚醒の兆しなどない。ただの完全な蹂躙。
「命の価値すら理解できない劣等種は腐っていなさい」
ヴェスパーの冷酷な宣告が、遠くで響くように聞こえた。
薄れゆく意識の中で、暁人はピクリとも動かなくなった凪の姿を見た。その向こう側に、家で帰りを待つ紬や快の顔がフラッシュバックする。
自分がここで死ねば、この化け物は間違いなくあの家へ向かうだろう。日常は蹂躙され、大切な親友たちは無惨に引き裂かれる。
(嫌だ……あいつらと……っ)
暁人は虚空を掻くように、血まみれの手を伸ばした。
しかし、その手は何を掴むこともできない。指先から急速に熱が奪われ、意識が黒い泥の底へと沈んでいく。
豪雨が街を打ち据える音だけが響く中、暁人の抵抗する力は完全に失われ、その両腕が力なくだらりと垂れ下がった。




