第33話
容赦なく降り注ぐ豪雨が、街を打ち据える音だけが世界を支配していた。
「ハァッ……ハァッ……!」
血の味が混じった呼気を吐き出しながら、暁人は泥濘んだ裏路地を引きずるように進んでいた。
右肩にのしかかる霧島凪の体重は、歩みを進めるごとに鉛のように重くなっていく。彼女の戦闘服は無惨に引き裂かれ、そこから絶え間なく流れ出る血が暁人の衣服を赤黒く染め上げていた。
「……神、城、……もう、いい……下ろせ……」
肩に担がれた凪が、途切れ途切れの掠れた声で囁く。その声には、かつての部隊を率いていた時の苛烈な覇気は欠片も残っていない。
「喋るな……! もう少しで、このエリアを抜けられる……!」
「馬鹿か、お前は……。雨で誤魔化せるような、相手じゃない……」
凪は痛みに顔を歪めながら、血塗れの指先で暁人の腕を弱々しく叩いた。
「あの化け物は……匂いと、微かな音だけで命の鼓動を嗅ぎ分ける……。私の血が、道標になるだけだ……。お前まで、死ぬぞ……ッ」
彼女の言う通りだった。
どれだけ雨が打ち付けようと、濃厚な血の匂いは消えない。暁人自身、自分の心臓の鼓動が早鐘のように鳴り響き、それが暗闇の中でけたたましい警報のように敵へ伝わってしまうのではないかという強迫観念に駆られていた。
(……それでも、置いていけるわけがないだろ)
暁人は奥歯を噛み締め、さらに強く凪の身体を引き寄せる。
彼女を見捨てれば、自分は助かるかもしれない。だが、自分たちの秘密を知る彼女がここで死ねば、紬や快の日常を守る防波堤が決壊する。それに何より、目の前で死にかけている人間を見捨てて逃げたとなれば、もう二度と、普通の顔をして紬の隣で笑うことなどできない気がした。
「俺は、絶対に紬たちの日常を守る。そのために、あんたには生きて帰ってもらうんだよ……!」
血反吐を吐くような暁人の言葉に、凪はわずかに目を見開き、やがて力なく項垂れた。
暁人は泥水を蹴り、ひしゃげたトタン屋根の影から、放置されたトラックの裏へと身を隠すように進む。
だが、どれだけ距離を稼ごうとも、暁人の胸の奥底で渦巻く「脈動」は一向に治まる気配を見せなかった。
むしろ、最悪なことに――その共鳴は、徐々に大きくなっていた。
(なんだ、この感覚……)
肌の裏側を這い回るような、悪寒と熱が混ざり合った異質な感覚。
まるで、闇の中から巨大な蛇にじっと見つめられているような、理屈を超えたプレッシャー。暁人の体内に潜む『化け物の部分』が、近づいてくる同質の、しかし圧倒的に巨大な『捕食者』の気配に反応して震え上がっているのだ。
(来る……近づいてきてる……ッ!)
本能が、けたたましく警鐘を鳴らす。
暁人は呼吸を殺し、トラックの陰から細い路地へと駆け込もうとした。
その時だった。
『――ええ、彼女の言う通りですよ。これほど分かりやすい道標はありません』
雨音を完全に切り裂いて。
まるで暁人の鼓膜のすぐ傍で直接囁かれたような、底冷えするほど無機質な声が響いた。
「……ッ!!」
暁人の全身の毛穴が粟立ち、心臓が凍りついたように跳ねる。
恐る恐る視線を上げた先。路地の出口、街灯の微かな光が落ちる瓦礫の山の上に、『それ』は立っていた。
豪奢でクラシカルな装い。透き通るような青白い肌。
そして、闇夜に広がる赤黒い骨組みだけの翼と、額から天を突く二本の角。
つい先ほどまで別の場所にいたはずの化け物が、音もなく、いつの間にかそこに降り立っていた。いや、違う。暁人たちが逃げ惑う様を、ずっと前からそこで観察していた。
「……あ……」
暁人の喉から、情けない空気が漏れる。足が完全にすくみ、一歩も動けない。
化け物は、血に濡れた優雅な指先で己の顎に触れながら、足元の泥水でも眺めるような冷徹な眼差しで暁人たちを見下ろしていた。
「傷を負った個体を、わざわざ自らの危険を冒してまで回収しようとする……。群れの生存戦略としてはひどく非合理的で、無駄が多い。やはり人間の思考は、見ていて興味が尽きませんね」
そこに憎悪や怒りはない。ただ純粋に、巣穴に餌を運ぶ働き蟻の滑稽な生態を観察する子供のような、絶対的な上位者としての残酷な好奇心だけがあった。
「探す手間が省けました。自ら私の前へ壊れた玩具を運んできてくれたことには、感謝しましょう」
化け物の赤い双眸が、凪を抱える暁人を真っ直ぐに射抜く。
その瞬間、暁人の体内に眠る『枷』の奥底で、得体の知れない何かが激しく軋む音がした。圧倒的な死の気配が、巨大な壁となって路地を塞いでいる。
「さあ、観察は十分に堪能しました」
化け物が、ふわりと宙に浮き上がり、静かに右手を持ち上げた。
「――私の名は、ヴェスパー・ノエル・ファイザン。どうぞ束の間ですが、胸に刻み込んでください」
泥水と血の匂いが充満する裏路地で。
人型の化け物は宙に浮かんだまま、ひどく滑らかな動作で胸に手を当て、優雅に一礼した。
「さて。それでは、生態観察を始めましょうか。
指先で少しだけ潰してみたら、君たちはどんな声で鳴くのでしょう? 虫かごの中で必死に逃げ惑うその愛らしい姿を、特等席でじっくりと堪能させてもらいますよ」
ヴェスパーが、細く青白い指先を軽く鳴らした。
パチン、という水滴が弾けるような小さな音。
直後――暁人の視界から、ヴェスパーの姿が完全に消えた。
「え……?」
暁人の脳が状況を処理するよりも早く、全身の産毛が総毛立ち、警鐘を通り越した死の気配を本能が告げる。
ドンッ! と、空気が爆発するような重低音が響いたのは、暁人のすぐ目の前だった。
「――っ!?」
瞬きをする暇すらなく、数メートル先にいたはずのヴェスパーが、暁人の鼻先数センチの距離に立っていた。
ただ純粋に、人間の動体視力を完全に置き去りにするほどの、圧倒的な速度。
「まずは、その重そうな荷物を下ろして差し上げましょう」
ヴェスパーは無表情のまま、暁人の右肩に寄りかかっていた凪の胸倉を鷲掴みにすると、まるで紙切れでも扱うかのように無造作に上空へ放り投げた。
「なっ……凪!!」
「ガ、ァッ……!」
空中に放り出され、無防備に宙を舞う凪の身体。
ヴェスパーの背中に展開された赤黒い骨翼が、まるで獲物を切り裂くカマキリの鎌のように、鋭い軌道を描いてしなった。
(殺される……!)
考えるよりも先に、暁人の身体が動いていた。
皮膚の下で脈打つ、あの悍ましい熱。先ほど街を駆け抜けた時の爆発的なエネルギーを、強引に両脚へ流し込む。
アスファルトが砕け散るほどの踏み込みと共に、暁人は狂ったような速度で宙へ跳び上がり、凪の身体に強引にすがりついた。
ズガァァァンッ!!
暁人が凪を抱え込んで地面に転がり落ちた直後、二人がついコンマ一秒前まで浮いていた空間を、巨大な骨翼が通り過ぎた。背後のコンクリートの壁が、まるで豆腐でも切られたかのように音もなく両断され、ズレ落ちて凄まじい粉塵を上げる。
「ハァッ……! ハァッ……!」
泥水の中を激しく転がり、壁際に叩きつけられた暁人は、凪をかばいながら荒い息を吐いた。ほんの少しでも反応が遅れていれば、間違いなく凪の身体は真っ二つにされていた。
「……ほう」
土煙の向こう側から、ヴェスパーの微かな感嘆の声が漏れた。
「今のを、避けますか。しかも、あの荷物を抱えたまま。……どうやらただの弱者ではないようだ。人間にしては、異常な反応速度ですね」
ゆっくりと煙を晴らして姿を現したヴェスパーの赤い双眸が、面白そうな玩具を見つけた子供のように、スッと細められた。
「先ほどの部隊員たちよりは、少しだけ質の良い血が啜れそうだ。……足掻きなさい。私の退屈を、ほんの数秒でも紛らわせてみせろ」
化け物の指先から、黒く鋭利な爪が音を立てて伸びる。




