第32話
ガシャン、と鉄骨がへし折れるような硬質な破壊音が、分厚い雨音を切り裂いて響いた。
暁人はビクッと肩を揺らし、泥水を這うようにして音のした方角へ近づく。崩落したビルの壁裏に身を潜め、恐る恐る視線を覗かせた先――そこで繰り広げられていた光景に、暁人は全身の血の気が引くのを感じた。
開けた交差点の中央。漆黒の特務服を赤黒い血と泥に染め、荒い息を吐きながら、身の丈ほどもある分厚い黒鋼の太刀を構える隊員の男がいた。
彼が絶望と殺意の入り混じった視線を向ける先には、闇夜に浮かぶ異形の鬼がいた。
「素晴らしい。内臓がひどく損傷しているはずなのに、まだその鉄の棒を振れるんですね。旧世代の生存本能というのは、本当に興味深い」
降りしきる雨の中、その化け物は冷徹でありながら、まるで新しい玩具を見つけた子供のような無邪気な声色を響かせた。
人型のシルエットに、中世の貴族を思わせるクラシカルで豪奢な装い。闇に浮かぶ透き通るような青白い肌。だが、額の肉を突き破って生える禍々しい『二本の角』と、背中に展開された被膜のない赤黒い『骨翼』が、それが人間の形を模しただけの絶対的な捕食者であることを雄弁に語っていた。
物理法則を嘲笑うかのように宙に浮遊するその姿は、人間を路傍の石か、観察対象の昆虫としか見ていない。
「うおおおおっ!!」
隊員が血を吐くような雄叫びを上げ、地を蹴った。対鬼部隊の生き残りとしての意地を見せつけるような、目にも留まらぬ鋭い踏み込み。雨を切り裂いて放たれた太刀の閃きが、化け物の首筋へと迫る。
「なるほど、その鉄で脆弱な肉体を補うわけだ。弱者なりの見事な工夫です」
化け物は感心したように呟きながら、ふわりと優雅に首を傾げただけでその致命の刃を躱した。隊員は体勢を崩すことなくそのまま身を翻し、二撃、三撃と必死の連撃を繰り出す。凄まじい風切り音が響き、雨粒が真っ二つに裂けるが、化け物は宙を滑るように舞い、そのすべてを遊ぶように避けていく。
「ですが……絶対に届かないと分かっていながら上位種に牙を剥くのは、ひどく知能が低い。それとも、自分が特別だとでも思っているんですか?」
男の底知れない冷酷な声に、僅かな嘲笑が混じる。
化け物がふわりと赤黒い骨翼を振るった。
その瞬間、翼の骨組みから無数の礫のようなものが散弾のごとく射出された。
「チィッ……!」
隊員は咄嗟に太刀を盾にして弾幕を防ぎ、凄まじい金属音と共に数発の礫を弾き落とす。しかし、豪雨のように降り注ぐ無数の凶弾を、一本の刃で凌ぎ切ることなど不可能だった。
「ガ、ァッ……!」
鋼の太刀ごと貫くような威力の礫が隊員の身体を容赦なく撃ち抜き、彼は血飛沫を上げて泥水の中に崩れ落ちた。ピクリとも動かなくなったその姿を見下ろし、化け物は酷薄な笑みを浮かべる。
「観察は十分に堪能しました。脆いですね、人間というのは」
圧倒的な、死の気配。
瓦礫の陰で、暁人はガチガチと鳴る奥歯を必死に噛み締める。先ほどまで感じていた、自らの内なる力による万能感など、跡形もなく吹き飛んでいた。助けに入るどころか、声を発することすらできない。足は恐怖で完全に縫い留められ、ただ震えながら、凄惨な死の光景を見つめることしかできなかった。
(……逃げ、なきゃ……!)
見つかれば確実に殺される。本能が破鐘のように警鐘を鳴らしていた。
呼吸を殺し、震える脚に無理やり力を込め、這うようにして後ずさろうとした――その時だった。
ドン、と。
暁人の肩に、背後から重い手が置かれた。
「……っ!」
心臓が止まりかけ、声にならない悲鳴を上げそうになる口を両手で必死に塞ぐ。
極限の恐怖と共にゆっくりと振り返った暁人の目に飛び込んできたのは、化け物ではなく――見知った顔だった。
「……なんで、お前が、ここにいる……」
かすれた、血を吐くような声。
そこにいたのは、漆黒の戦闘服を無惨に引き裂かれ、赤黒い血と泥に塗れた満身創痍の霧島凪だった。いつも冷徹で隙のなかった彼女の面影はなく、今は崩れた壁に背中を預けなければ立っていることすらできないほど消耗している。
「凪……!」
「馬鹿か、お前は……。私たちの部隊は、もうダメだ……」
凪は痛みに顔を歪めながら、暁人の服の袖を弱々しい力で掴んだ。
「早く、逃げろ……。あれは、人間の手に負える相手じゃない……ッ」
その瞳には、かつて見たこともない「死を覚悟した者の諦観」がはっきりと浮かんでいた。
最強の盾であったはずの彼女の無惨な姿に、暁人はギリッと唇を噛み締め、恐怖で震える自分の両足を強く打ち据えた。
こんなところで怯えている場合じゃない。助けに来たのだ。
「喋るな。置いて逃げるわけないだろ!」
暁人は凪の腕を強引に引き寄せると、自分の肩に深く回した。
ズシリとのしかかる彼女の重みと、濃密な血の匂い。暁人は凪の身体をしっかりと支え上げ、背後で退魔庁の死体を弄んでいるバケモノに気づかれないよう、瓦礫の影から影へと、泥水の中を這いずるようにして暗闇の奥へと歩き出した。
「少し揺れるぞ。絶対に、ここから連れ出すからな……!」




