第31話
完全に人目がなくなった大通りに出た瞬間。暁人は、これまで自分自身の縛りを、躊躇いながらも外した。
皮膚の内側で、異質な何かが不気味に脈打っている。快の身体に現れていたあの異形の兆候と同じか、あるいはそれ以上に禍々しいモノが、自分の肉体にも確実に巣食っていることを暁人は知っていた。ただの人間として、紬の隣で笑い合う幼馴染でいるために、その変化を誰にも悟られぬよううちに潜めてきた。爪が手のひらに食い込み、血が滲むほど拳を握りしめて、自身の内に確実に存在する化け物を必死に檻の中へ閉じ込めてきたのだ。
しかし、今はその力を出し惜しみしている余裕などどこにもなかった。この得体のしれない化け物の力、使うべきは今だと、確信めいたものが暁人にはあった。
アスファルトを強く蹴り飛ばす。その瞬間、足の筋肉が爆発的な推進力を生み出し、身体が前傾姿勢のまま夜の闇へと弾け飛んだ。
顔を叩きつける大粒の雨が、まるで散弾のように痛い。バシャッ、と跳ね上げた泥水の音が耳に届くよりも早く、暁人の身体はすでに数メートル先へと到達している。視界の端で、雨に濡れた電柱や信号機が、無意味な色彩の線となって後方へ置き去りにされていく。
異常だった。普通の人間がどれほど死に物狂いで走ろうと、絶対に踏み込めない領域の速度。
「この力を解放すれば、俺は本当に化け物になってしまうかもしれない」
そんな恐怖から、これまでは頑なに封じ込めてきた。理性を喰い破られ、肉体を内側から捻じ曲げられるような、おぞましい苦痛が伴うものだとばかり思っていた。
しかし――現実は全く違った。
(……なんだ、これ。すごく……身体が軽い……!)
絶え間なく湧き上がる未知の黒いエネルギーが全身の血管を暴走気味に駆け巡り、脳髄を甘く痺れさせる。心臓が破裂しそうなほど高鳴っているのに、息苦しさは微塵もない。
重力すら置き去りにしていくような圧倒的な疾走感と、このまま空すら飛べるのではないかと錯覚するほどの強烈な『万能感』。それは、背筋が凍るほどに――そして、狂わしいほどに心地よかった。化け物に堕ちていく恐怖が、脳を灼くようなその甘美な快感によって塗り潰されていく。
豪雨の分厚いカーテンを力任せに突き破り、暁人は夜の街を疾走した。
頭の中に、冷静な作戦などない。
(あいつを助ける……! 凪を、死なせるわけにいかない……!)
ただひたすらに大雑把で、泥臭い衝動だけが暁人の背中を押していた。
成瀬から現場の正確な座標など聞いていない。それなのに、なぜか足に迷いは生じなかった。暗闇の向こう側から、なんとなく引き寄せられる方角に目当てのものがいると分かる。理屈ではない。胸の奥底で得体の知れない何かが微かに震え、無意識のうちに暁人を特定の場所へと導いていく。言葉にならない不気味な気配に引かれるまま、暁人はただ直感に従って裏路地を駆け抜けた。
目的地に近づくにつれ、周囲の惨状は目を覆うものになっていった。
ひしゃげたガードレール、火花を散らして垂れ下がる電線。腹を見せてひっくり返った乗用車からは、ガソリンの鼻を突く匂いが漏れ出している。何より暁人を戦慄させたのは、コンクリートの地面に無数に刻まれた、巨大な獣の爪痕のような深い抉り傷だった。
大気が重く澱み、肌を刺すような悪寒が全身を撫で上げる。この凄惨な場所で、あの無敗の霧島凪が倒れたのだ。
この先に、あの部隊を壊滅させた鬼がいる。
(……これ以上近づいたら、気づかれるまずい気がする)
理屈を越えた本能が、ガンガンと脳内で警鐘を鳴らした。
暁人は強引に足へ制動をかけ、靴底で激しくアスファルトを削りながら泥水を滑るように進み、大破して横転した大型バスの影へと滑り込んだ。
ひんやりとした冷たい鉄板に背中を預け、激しく上下する胸を手で強く押さえつける。容赦なく降り注ぐ雨音に自分の荒い呼吸を紛れ込ませるようにして、じっと息を殺した。
震える指先を無意識に握り直し、暁人は割れたフロントガラスの隙間から、恐る恐るその先の光景へと視線を向けた。
視界に広がるのは、徹底的に破壊され尽くした無残な市街地の姿だけだ。分厚い雨のベールと立ち込める黒煙に遮られ、化け物の姿はおろか、倒れているはずの凪の姿すら確認できない。
(どこだ……どこにいる)
暁人は深く息を吐き出し、バスの影から身を滑らせた。
ここからは見つからないように動かなければならない。ひしゃげた乗用車から、剥がれ落ちたトタン屋根の裏へ。瓦礫の山から、崩れたブロック塀の陰へと、身を低くして這うように進む。
水溜まりを踏む音すらかき消す豪雨に助けられながら、暁人は泥に塗れて暗闇の中をこそこそとうろついた。胸の奥で波打つ異質な鼓動を必死に押さえ込み、化け物の意識に触れないよう気配を殺す。
這いずり回りながら、暁人は血走った目で、凪の姿を必死に探し求めた。




