第28話
冷たい雨に打たれながら家に帰り着くと、玄関の扉を開ける前に、俺と快は互いの顔を見合わせて、深呼吸を一つした。
これから先は、紬のいる帰るべき場所。
どれだけ身体の奥が熱くても、どれだけ耳の奥で奇妙な音が響いていても、この扉をくぐれば、俺たちには帰りたいと思える場所がある。
「ただいま、紬」
「お、おう、ただいま」
「あ、おかえり! 二人とも、結構濡れてるじゃない。早くお風呂入っちゃいなよ。風邪ひいたら大変だし!」
リビングからタオルを片手に走ってきた紬は、俺たちの異変に気づく様子もなく、甲斐甲斐しく俺たちの頭や肩を拭いてくれた。その温かい手のひらが触れるたび、自分の皮膚の下を流れるどろりとした熱が、彼女に伝わってしまわないかと生きた心地がしなかった。
「……なぁ、紬」
風呂上がりのリビング、髪を乾かしながら、俺はソファに座る紬に何気なさを装って話しかけた。
「霧島のことなんだけどさ。……あいつ、本当に、何の前触れもなく転校しちゃったんだな」
紬はテレビのリモコンをいじる手を止め、少し寂しそうに微笑んだ。
「うん……。クラスのみんなもびっくりしてた。でも、成瀬くんが言ってたよ。体調崩したのをきっかけに地元で療養する事になったんだって。成瀬くん、霧島さんと同じ地元らしくて、少し知ってるみたい」
「成瀬が……?」
キッチンで麦茶を飲んでいた快が、グラスを持つ手をピきりと強張らせるのが見えた。
成瀬は、霧島の転校の理由をそうやって周囲に「肉付け」して回っているらしい。退魔庁という組織の隠蔽工作は、完璧で、そして恐ろしいほどに自然だった。
「成瀬くん、すごく親切だよね。霧島さん事も教えてくれたし……。あ、そうだ! 明日、成瀬くん来たばっかりで勉強とかわからないだろうし、二人とも仲良くなって欲しいから一緒にうちで勉強しないかって誘ってみようと思うんだけど、いいかな?」
「――っ!?」
その瞬間、リビングの空気が凍りついた。
快の手から、ガラガラと音を立ててガラスのコップが床に落ちた。幸いにも絨毯の上だったため割れはしなかったが、快の顔は完全に土気色に変わっていた。
「か、快……? 大丈夫?」
「あ、あぁ……わりぃ。手が滑った」
快は這いつくばるようにしてコップを拾い上げたが、その背中は小刻みに震えていた。
成瀬を、この家に呼ぶ。
それは、俺たちの唯一の避難所であり、命をかけて守ろうとしているこの聖域に、あの冷酷な死神を自ら招き入れることに他ならなかった。
「つ、紬……。明日はちょっと、俺と快、先生に呼ばれた今日の用事なんだけど、明日も手伝わなきゃいけないんだ。だから、成瀬を呼ぶのは、また今度にしよう」
俺は必死に声を震わせないようにしながら、そう懇願した。
「え? あ、うん……。二人が忙しいなら、しかたないよね」
紬は不思議そうにしながらも、素直に頷いてくれた。
その夜、俺はベッドの中で、自分の胸の鼓動をじっと聞いていた。
ドクン、ドクン、と刻まれる音は、以前よりも明らかに重く、そして速い。
成瀬は確実に、俺たちの日常の隙間を埋めるようにして近づいてきている。すぐ隣の部屋からは、快が夜中に何度も寝返りを打ち、怯えたようにうなされている声が、壁を透過して俺の耳に直接響いてきた。
人間の世界と、鬼の世界。
その二つを隔てる見えない境界線が、足元からじわじわと消え去っていくような恐怖の中で、俺は朝が来るのをただ待つしかなかった。




