第27話
雨は翌朝になっても止まなかった。
どんよりとした灰色の空から、細い雨粒が絶え間なく街を濡らしている。ビニール傘を叩く規則的な音が、ひどく耳障りに感じられた。
「おはよう、神城くん。一ノ瀬くん」
教室に入ると、すでに自分の席に座っていた成瀬が、いつもの爽やかな笑顔で声をかけてきた。その親しみやすい転校生の仮面に、周囲の女子生徒たちは朝から黄色い声を上げている。
「あ、あぁ……おはよう、」
俺は引き攣った笑みを返し、自分の席にカバンを下ろした。
隣の席の快は、成瀬の方を一切見ようとせず、無言で自分の席について教科書を開く。だが、机の下で、快が自分の右太ももを血が止まるほどの強さで握りしめているのを、俺は見逃さなかった。
成瀬の監視が始まってから、さらに数日が過ぎていた。
学校生活は驚くほど普通に流れている。成瀬は授業中も休み時間も、完璧な優等生として振る舞い、俺たちにそれ以上の接触をしてくることはなかった。
だが、それが逆に俺たちの精神をじわじわと摩耗させていく。
(あいつは、ずっと見ている)
授業中、黒板に向かっている成瀬の横顔を見るたびに、その視線の端が俺たちの挙動を冷徹に捉えているのが分かった。俺たちがいつ化け物として暴発するかを、ただ冷酷にジャッジしているだけの目。
それを決定づけたのが、昼休みの出来事だった。
紬が購買へパンを買いに行き、俺と快が席で待っていると、成瀬がノートを片手にスッと近づいてきた。
「神城くん、ここの数学の解き方、ちょっと教えてくれないかな?」
その声は優しかったが、俺たちの前に置かれた成瀬の指先が、机の木目をトントンと不自然なリズムで叩いた。そのリズムは、あの日、裏路地で成瀬が快を叩きつけた時の、あの不気味な空気の振動と全く同じだった。
いつでも殺せる――言葉にしない、明確な脅迫だった。俺は冷や汗を背中に流しながら、震える声で数式を説明するしかなかった。
自由を奪われ、見えない檻の中に閉じ込められたような息苦しさ。
そして何より恐ろしいのは、成瀬の言った『身体の異変』が、確実に現実のものとして俺たちの肉体を蝕み始めていることだった。
その日の放課後。
紬がクラスの女子に誘われて先に下校したため、俺と快は二人でいつもの通学路を歩いていた。成瀬の姿はどこにもないが、どこか遠くから常に見られているような、嫌な気配だけが肌にまとわりついている。
「……なぁ、暁人」
並んで歩く快が、押し殺したような声を漏らした。
雨の上がる気配のない空を見上げたまま、快の顔は幽霊のように青ざめている。
「俺さ……昨日、自分の部屋で、リンゴを握り潰しちまった」
「え……?」
俺は思わず足を止めた。
「ちょっと、小腹が空いたから食べようと思ってさ。手に持っただけなんだよ。なのに、本当にちょっと力を入れただけで……グシャッて、果汁が床に飛び散って……。まるで熟れすぎたトマトを潰すみたいに、簡単に、骨も筋肉も使ってねぇ感覚のまま、潰れちまったんだ」
快は怯えたように自分の右手のひらを見つめた。
見た目は、どこにでもある16歳の少年の手だ。傷もないし、化け物の鱗なんて一枚も生えていない。それなのに、その皮膚の奥には、俺たちの知らない怪物が潜んでいる。
「力だけじゃねぇんだ。……最近さ、夜に目を閉じると、聞こえるんだよ。遠くの方で、何かが泥の中を這い回るようなズブズブって音とか、近所の奴らの心臓の音みたいなのが、ドクドクって耳の奥に直接響いてくる。あいつの言う通りだ。俺の身体、もう壊れていってる。人間じゃなくなっていってるんだ……っ!」
快は頭を抱え、その場にしゃがみ込みそうになった。
あいつの恐怖は、そのまま俺の恐怖でもあった。
実は俺も、ここ数日、体温が異常に高くなっているのを感じていた。どれだけ冷たい雨に打たれても、身体の奥が、まるで熱い泥でも流し込まれたかのように熱く、ドロドロとした何かが脈打っている感覚が消えないのだ。
「……快、しっかりしろ」
俺は快の肩を強く掴み、無理やり前を向かせた。
「見た目は変わってない。なら、まだ俺たちは人間だ。成瀬の言うことなんて気にするな。……俺たちが化け物になったら、紬のところに居られなくなるんだぞ。それだけは、絶対に阻止するんだ」
「暁人……」
自分に言い聞かせるための言葉だった。
もし、人間の殻が完全に破れてしまったら、その時俺たちはどうなるのか。成瀬に「殺処分」されるのか。それとも、あの日の鬼と同じになってしまうのか。
答えの出ない恐怖を泥水のように使い古した心に流し込みながら、俺たちはただ、冷たい雨の中を歩き続けるしかなかった。
日常という名の薄氷は、もう、いつ割れてもおかしくないところまで薄くなっていた。




