第26話
成瀬が去った後も、俺たちはしばらく動くことができなかった。
「……実験体、だってよ」
壁に背を預けたまま、快が自嘲気味に呟いた。その声は、これまで聞いたこともないほど細く、震えていた。
「俺たちの身体、もう人間じゃねぇってよ……暁人。俺たちさ、これからもっと……もっと化け物になっちゃうのかな。朝起きたら、自分の顔が全然違うバケモノになってたら、俺……」
快は自分の右手を凝視しながら、怯えたように声を詰まらせた。
「霧島はさ……」
ぽつりと、快が下を向いたまま漏らす。
「あいつ、俺たちのことバカって怒ってくれたじゃん。冷たかったけど、ちゃんと人間として扱ってくれてた気がするんだよ。 なんでいなくなっちゃったんだよ。あいつがいた時の方が……」
「……あぁ」
俺はそれしか返せなかった。
あいつの言う通りだ。霧島凪は俺たちを辛辣に罵ったが、そこには確かに、紬の日常を壊すなという「人間らしい感情」があった。だが、新しく来た成瀬にはそれがない。あいつにとって俺たちは、ただの監視対象――。
俺たちは、あの地獄を生き延びた生存者なんかじゃない。
最初から化け物の種を植え付けられ、生かされているだけの、籠の鳥。
「……帰ろう、快。紬が待ってる」
「……おぅ」
二人の影は、街灯の冷たい光に引き伸ばされながら、這うようにしてアパートへと向かった。
「あ、おかえり! 遅かったね、心配したんだよ?」
ドアを開けると、エプロン姿の紬がいつもの温かい笑顔で迎えてくれた。香ばしいデミグラスソースの匂いが、狭い玄関に満ちている。
「ごめん、ちょっと先生の話が長引いてさ」
俺はいつものように偽物の笑顔を作り、靴を脱ぐ。
「もー、二人が遅いから、ハンバーグ冷めちゃうところだったんだからね。ほら、手洗って早く座って!」
リビングに入ると、食卓には綺麗に盛り付けられたハンバーグと、湯気を立てるお味噌汁が並んでいた。
それは、俺たちが血を吐く想いでしがみつこうとしている、かけがえのない『普通の日常』そのものだった。
「……うめぇ」
快が、いつもより小さな声でハンバーグを口に運ぶ。
「でしょ? 今日は奮発してちょっとチーズ入れてみたんだよね」
紬は嬉しそうに微笑み、俺たちの顔を交互に見つめた。
「ねぇ、そういえば今日の転校生の成瀬くん、すっごく格好いい人だったね。暁人の隣の席でしょ? もう何かお喋りした?」
「……っ」
お味噌汁をすすろうとした俺の手が、ピタリと止まる。
隣の快の身体が、一瞬で強張るのが空気で分かった。
成瀬。
つい一時間前、あの路地裏で俺たちを実験体と呼び、殺処分という言葉を突きつけてきた男。そして今も、このアパートのすぐ近くで、俺たちのこの食卓を冷徹に監視しているであろう男。
「あ、あぁ……。ちょっと、教科書の場所を教えたり、したくらいかな。真面目そうな奴だったよ」
嘘を重ねる度に、喉の奥が焼けるように熱くなった。
隣にいる優しい幼馴染に、世界で一番残酷な真実を隠し、作り笑いを浮かべている。
「ふーん、そっか。……それにしても、霧島さん本当に寂しいな。私、もっと仲良くなりたかったのに。二人も、霧島さんがいなくなって寂しいよね?」
紬が寂しそうに目を伏せる。
「……あぁ、そうだな」と俺が答える横で、快は何も言わず、ただ黙って、うつむいたまま白米を口に詰め込んでいた。
霧島に会って、聞きたいことが山ほどあった。何より、あいつがいれば、今のこの異常な状況に少しは抗えたかもしれない。そんな切ない後悔が胸を締め付ける。
外では、いつの間にか冷たい雨がぽつぽつと降り始めていた。アパートの窓を叩く雨音が、俺たちの平穏な日常が終わりへと向かうカウントダウンのように、静かに響き続けていた。




