表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
喰情千界  作者: 遥斗
PR
17/37

第17話



ネオンの光が、湿ったアスファルトにぎらぎらと反射している。


夜の繁華街は、耳が痛くなるほどの喧騒に満ちていた。

居酒屋から出てきたサラリーマンが同僚の肩を借りて千鳥足で歩き、カラオケ帰りの大学生たちが大きな笑い声を上げて通りを過ぎていく。呼び込みのキャッチが声を張り上げ、スマホを片手に待ち合わせをする若者たちが人混みを作っている。


どこをどう見渡しても、ただの、ありふれた夜の光景だった。


「……なぁ、快。本当にこっちであってんのか?」

暁人は長袖のパーカーのフードを少し深く被り、隣を歩く快に低い声をかけた。


「間違いないって。ネットの掲示板だと、この先の路地裏が結構ヤバい不良の溜まり場になってるって書いてあったんだよ」

快もまた、周囲を警戒するように視線を鋭く走らせている。


二人は「ランニング」という名目で家を出てから、もう一時間近く、この繁華街の闇を徘徊していた。

だが、歩けども歩けども、快が期待しているような『悪党』の影は微塵もなかった。


「おい、あれ……」

快がふと、細い路地の奥を指差した。


自販機の明かりに照らされた暗がりに、数人の若者がたむろしている。髪を派手に染め、地面に座り込んでタバコを吹かしている男たちだ。

快の身体が、一瞬にして戦闘態勢のように強張る。その瞳の奥に、ちりちりと不穏な飢えが混ざるのを暁人は見逃さなかった。


だが、暁人がその若者たちを観察してみれば、すぐに肩の力が抜けた。

「……ただの不良じゃねえか」


不良、と言えば聞こえはいいが、あそこにいるのはせいぜい大学生か、下手をすれば高校生の中退組だ。地べたに座ってスマホの画面を見せ合い、内輪の安い愚痴で盛り上がっているだけ。ちょっと背伸びをして悪ぶっている、どこにでもいるただの若者たち。

あの日、俺たちの日常を肉片ごと噛み砕いていった、あの『バケモノ』の足元にも及ばない。それどころか、こないだ快が拳一つで半殺しにした、あのヤクザの息がかかった不良グループと比べても、あまりにも幼稚で、無害な存在だった。


「快、行くぞ。あいつらはただ遊んでるだけだ。」

暁人は快の肩を掴み、回れ右をさせようとした。


「でもさ、暁人……!」

快の声には、明らかな焦燥と、ひどく子供じみた不満が混ざっていた。


「あいつら、タバコ吸ってるし、あそこでポイ捨てだってしてるじゃんか。立派な悪い奴らだろ? ちゃんと凝らしめて、二度とあんなことできないようにガツンと――」


「おい、いい加減にしろ!!」


暁人は、思わず路地裏の雑音に紛れ込ませるように、荒々しい声を張り上げた。

快が、びくりと息を呑んで動きを止める。


暁人は、快の胸ぐらを掴みたくなる衝動を必死に抑え、その耳元で


「お前がやろうとしてるのは、正義の味方でもなんでもねえ。ただの八つ当たりだ。自分の身体が怖くて、その力をどっかにぶつけたくて、必死になって獲物を探しまわってるだけだろ」


暁人の怒声が路地裏に響き、快は息を呑んで動きを止めた。

図星だった。快の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。

「……っ、分かってるよ。分かってる、けどさ……」

快は自分の右手をきつく握りしめ、悔しそうに歯を食いしばった。


「とにかく、今日はもう帰るぞ。紬も待ってる」

暁人はそう言って、快の背中を叩いた。快はうなだれ、肩を落として歩き出す。


二人で大通りへと戻る道すがら、暁人はあいつを少し言い過ぎただろうかと口を開きかけた。


「なぁ、快、俺も別に――」


その瞬間、暁人のセリフが、ピタリと止まった。


言葉にできない、奇妙な感覚だった。

あの日から、時折身体の奥が酷く熱くなることがあったが、今はそれとは違う。何かに引っ張られるように、ぞくりと冷たい違和感が背筋を走ったのだ。


暁人は無意識に、その違和感がする方向へ目を向けた。

居酒屋の看板の影。そこに、一人の男が立っていた。

ごく普通の、くたびれたスーツを着たサラリーマンだ。どこにでもいる大人の男。


だが、男はこちらをじっと見つめていた。

男の表情は、どこか酷く焦っているようで、何かから逃れるようにそそくさとその場を立ち去ろうとしているように見えた。


目が合った、その刹那。

男は奇妙な身軽さで、人通りの途絶えた暗い路地裏の奥へと、滑り込むように消えていった。


「……なんだ、あいつ」

暁人は眉をひそめた。なんだか妙に嫌な感じがした。ただの不気味な酔っ払いか、あるいは少し頭のおかしい人間だろう。暁人はそう自分に言い聞かせ、隣の快に目を向けた。


だが、快の顔を見た瞬間、暁人は息を呑んだ。


快の瞳が、完全に据わっていた。

あの男が纏う空気の奥にあるものを、間違いなく敵だ、と確信しているようだった。


「快――」

「あいつだ……あいつだよ、暁人ッ!!」


快は叫ぶと同時に、弾かれたように地を蹴った。

「待て、快! 行くな!!」

暁人の制止の声も届かない。快は凄まじい勢いで、男が消えた暗闇へと飛び込んでいってしまった。


「クソがっ……!」

暁人もパーカーを翻し、あいつを止めるために暗闇へと駆け出した。




ビルとビルの狭間。行き止まりのゴミ置き場。

暁人が追いついたとき、快はそこで足を止めていた。


その先、闇の底に、さっきのサラリーマンが壁に背を向けて立っていた。


「おい、お前、何者だ……! 隠してても分かるぞ、お前、あの日のバケモノの仲間か!?」

快が拳を握りしめ、一歩踏み出す。


「……チッ、厄介なガキどもに見つかったな」


男の口から漏れたのは、低く、機械的な声だった。


直後、男の身体から、肺を直接握りつぶされるような、どす黒く重苦しい空気が爆発的に吹き荒れた。吐き気を催すほどの、腐った血と獣の臭い。

男がゆっくりと振り返る。その変貌の様子に、暁人の網膜が恐怖で拒絶反応を起こした。


ピキ、ピキピキと、骨が異常にきしむ音が路地に響く。

男の額の皮膚が内側から生々しく裂け、肉を突き破って、太い「角」がぬっと前方に飛び出すように生えてきた。その角は、不気味な赤黒い光を放ちながら、ドクドクと生き物のように脈動している。まるで、周囲の空気から人間の感情を吸い取っているかのような、悍ましい脈動。


――なんなんだ、この化け物は。

だが、額の肉を裂いて突き出たその禍々しい『角』を見た瞬間、暁人の脳裏にはある一つの言葉が強制的に引きずり出されていた。

『鬼』――。

それは、絵本やお伽話の中でしか存在しないはずの架空の怪物。しかし、目の前で悪夢のように蠢くバケモノの身体的特徴は、誰もが知るその『鬼』のイメージと、あまりにも不気味なほどに符合していた。


同時に、人間の肌が、見る間に死人のような灰褐色へと変色していく。

そして男の指先から、黒く鋭利な爪が、音を立てて急速に伸びていった。


服の上から見える構造そのものは人間の形から大きく外れてはいない。しかし、人間の服を着たまま額から角を突き出し、爪を鋭く研ぎ澄ませたその姿は生々しく、凶暴な殺気が狭い路地裏の空間を支配していく。


「……何だよ、俺はこんなガキどもにまで舐められて……」


鬼は、引き裂かれた口からよだれを垂らし、ヒステリックにつぶやく。

その濁った瞳には、明らかな焦燥と、激しい拒絶が混ざっている。


「ふざけるな……! 目立たないようにやってきて、やっと手に入れた場所に、お前らみたいなガキどもがしゃしゃり出てくるんじゃねえッ! 殺してやる、ここで喰って、俺の糧にしてやるよォ!!」


恐怖とプライドを反逆的な怒りに変え、鬼は猛然と地を蹴った。

鋭く伸びた黒い爪を剥き出しにし、狂ったように襲いかかってくる。


「うるせえええっ!!」


快が咆哮して跳躍した。

恐怖を塗りつぶすように、思いきり右拳を突き出し、迫る鬼の顔面へ真っ直ぐに叩きつける。

快は強くなった自分の肉体によって放たれた拳で精一杯の攻撃を行った。


ドンッ!!!


重い衝撃音が響き、鬼の顔面が歪む。

だが、鬼は吹き飛びながらも、その鋭い爪で快の腕を強引に引き裂き、そのまま一緒にコンクリートの地面へと激しく叩きつけた。


「がはっ……!?」

快はゴミ箱の山へと弾き飛ばされ、腕から血を流して息を詰まらせる。


いくら快の力が人並み外れていようと、相手は本物の化け物だ。生身の人間でしかない自分たちが、まともに敵う相手ではなかった。あまりにも圧倒的な暴力の前に、暁人の身体が恐怖で床に縫い付けられる。


「死ねッ! 死ね死ね死ねェッ!!」


鬼は勝ち誇ったように叫び、倒れた快に向かってその黒い爪を振り下ろそうとする。

「快――っ!」

暁人が割って入ろうと地を蹴る。だが、自分の足では、その爪が快の肉を引き裂く速度に、絶望的に間に合わない。


(クソ、動け、間に合ってくれ……っ!)


暁人が最悪の結末を覚悟し、ぎゅっと目を閉じた、その瞬間。


ヒュンッ!!!


夜の空気を鋭く切り裂く、鈍色の閃光。

直後、目の前の鬼が、まるで巨大な質量に叩きつけられたかのように、凄まし音を立てて横のコンクリート壁へと派手に吹き飛んだ。


「――ガ、あぁっ!?」

鬼が悲鳴を上げて壁に激突する。額の赤黒い角の脈動が、一瞬で恐怖に乱れた。


何が起きたのか分からず、暁人が恐る恐る目を開けると、自分と鬼の間に、一人の小柄な人影が立っていた。

制服のスカートを夜風に揺らし、手には、昼間に紬に見せていた笑顔からは想像もつかない、鈍色に輝く刃物を握り締めている。


「……霧島、さん……?」


暁人の掠れた声に、その人影――霧島凪は、ゆっくりと振り返った。


夕闇のネオンに照らされた彼女の横顔には、昼間に見せていたあの可憐な笑顔は微塵もなかった。

冷たく、どこか退屈そうに、悶え苦しむ鬼を見下ろす、圧倒的な強者の眼差し。


「あーあ……。あのまま、おとなしく、静かに生きていればよかったのに」


凪は低く、吐き捨てるようにそう呟くと、信じられない速度で、再び体勢を立て直そうとする鬼に向かって、真っ直ぐに地を蹴った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ