第16話
学校の昼休み。
四階の渡り廊下の端、人気のないベンチに、私と凪さんは並んで座っていた。
「……そっか。一ノ瀬くん、そんなに明るくなったんだね」
凪さんは、私の手作りのお弁当を美味しそうに頬張りながら、不思議そうに首を傾げた。その仕草はどこまでも愛らしくて、私の心をいつもふっと軽くしてくれる。
だけど、今日ばかりは、私の胸の奥のモヤモヤは消えてくれなかった。
「うん……。でもね、霧島さん。私、怖いの」
私は膝の上でスカートをぎゅっと握りしめた。
「今朝ね、二人が話してるの、聞こえない振りしちゃったんだけど……聞こえちゃったんだ。今日、夜に繁華街の方に行くって。最近、あそこにヤバい不良たちが溜まってるから、様子を見に行くんだって、快くんが暁人くんに相談してた……」
「繁華街へ……?」
凪さんの箸が、一瞬だけピタリと止まる。
「快くん、最近ずっとニュースばかり見て、まるで何かを探してるみたいで……。あの二人が、私の知らないどこか遠くへ行っちゃいそうで、本当に心配なの。……私、どうしたらいいのかな? どうすれば、二人を引き留められるのかな……?」
縋るように、私は凪さんの顔を見つめた。誰にも言えない、あの家の中だけの秘密。家族である二人にさえぶつけられなかった弱音を、私は凪さんにだけは、全て吐き出すことができた。
凪さんはしばらく私の顔を見つめていたけれど、やがて、包み込むようなに優しい微笑みを浮かべた。
「白峰さん、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
凪さんは私の手をそっと握り、温かい体温を分けてくれる。
「男の子だもん、元気があり余って動き回りたくなっちゃうこともあるよ。一ノ瀬くんが引きこもっちゃってた時に比べたら、外に行こうって思えるようになったのは、すごく良いことじゃない? ほら、神城くんも一緒なんでしょう? だったら、お兄ちゃんがちゃんとブレーキをかけてくれるよ」
「……そう、なのかな」
「そうだよ。白峰さんは、お家で二人の帰りを温かいご飯で待っててあげればいいの。それが、一番二人のためになると思うな」
「霧島さん……」
親身になって私を励ましてくれる、凪さんの真っ直ぐな言葉。
その圧倒的な優しさに、私の胸の強張りが、少しだけ解けていくのが分かった。そうだ、私は二人の『帰る場所』なんだ。私がしっかりしなきゃダメだ。
「ありがとう、霧島さん。私、お家で美味しいご飯作って待つことにする」
「うん、頑張って!」
凪さんは満面の笑みで応援してくれた。その笑顔に背中を押され、私は少しだけ前を向くことができた。
放課後。
「じゃあね、白峰さん」と笑顔で手を振る凪さんと別れ、私は昇降口へ向かった。
その少し後。
校門を出ていく、暁人くんと快くんの二人の後ろ姿があった。
快くんは何かを楽しそうに話し、暁人くんはいつものように少し呆れた顔でそれを見守っている。普通の高校生に見える、大好きな二人の背中。
その二人の後ろ姿を――。
校舎の三階、無人の教室の窓からじっと見下ろしている影があった。
霧島凪。
つい先ほどまで、紬の前で見せていた、あの春の陽だまりのような温かい笑顔は、そこには影も形もなかった。
「……ふーん。繁華街、ね」
凪は窓ガラスに額を押し当てるようにして、遠ざかっていく二人の背中を凝視している。
その瞳は低く、冷たく、生物的な無機質さを孕んで細められていた。
凪は小さく息を吐くと、トントン、と指先で窓ガラスをリズミカルに叩く。その口元が、冷ややかに、ゆっくりと吊り上がっていった。
「あーあ……。あのまま、おとなしく、静かにいてくれればよかったのに」
ぽつりと溢れた声には、底冷えするような嘲笑が混ざっていた。
「わざわざ自分から、平和を壊しにいくなんてさ。……馬鹿な子たち」
凪の瞳の奥で、夕日の赤を反射した影が、怪しく揺らめく。
夕闇に溶けていく暁人と快の背中を、彼女はただ、冷徹に値踏みするような眼差しで見つめ続けていた。




