澱み
“何か”の気配を感じながら、慎重に、何度も周囲を確かめながら森の道を進む。
――そうして一時間ほど経っただろうか。
背後で、“爪が木を引っかく”ような音がした。
昨日の音と同じだ――と気づくより早く、私の背後に何かが飛び込んできた気配がした。
「――っ!?」
咄嗟に振り返り……一瞬息が詰まった。視界の端に、痩せた影、そして赤い目。“黒いもや”、唾液。
言葉にならない勢いで、私に向かって――
「ミコト!動くのにゃ!」
にゃっぴーの声で、体がようやく動いた。
でも、少し遅かった。腕を上げた瞬間、手の甲に、ちく、と痛み。
「あ――っ」
かすり傷。大したことない、このまま走って――そう思おうとしたのに。そいつは、その爪についた私の血を、嬉しそうに舐めた。
……あ。
この子、私を“食べ物”だと思ってる。
頭が真っ白になって、足が止まりかける。
「ひっ――」
「ミコト!こっちにゃ!」
にゃっぴーが私の裾を引き、ヘレネの声が重なる。
「水瓶座よ、来なさい!」
痩せた影の頭上に水瓶の幻影。
水が“ばちゃばちゃ”と落ち、動きがほんの一瞬……
いや――完全に、止まった?
……違う。正確には、“水を飲んで”いるんだ。
「今にゃ!走るにゃ!」
私は転びそうになりながら、ただ走った。
息が切れて、心臓がうるさいくらいに騒いでいる。
背後の気配がどんどん遠ざかっていく。
「……でも、なんで、上流に……?」
私の声は震えていた。
にゃっぴーが森の空気を嗅いで言う。
「匂いが薄いにゃ。宿に戻ると、追い込まれる可能性があるにゃ。いまは“前”に、にゃ」
ヘレネも頷く。
「上流が本命です。源を清めれば、状況が変わる可能性もあります」
私は手の甲を押さえた。血は少し。
でも、さっきの血を“舐めた”行動が脳に焼き付いて離れない。
「……やっぱり私の認識が甘かったね……嫌な予感はしてたし、何かから襲われても、逃げるくらいはできるって思ってた。けれど……怖くて、頭が真っ白になっちゃった……」
「怖くていいにゃ。最後はしっかり走れてたにゃ。偉いにゃ」
「……行きましょう、ミコト。もう少しで目的地です」
その言葉で、私は一回だけ深呼吸をする。
怖かった……だけど、ここで止まったら多分動けなくなる。
「……行こう。このまま上流に」
ヘレネが気遣わしそうに言う。
「ミコト、さきほど怪我したところを“水瓶座”で消毒します。見せてください」
「うん……お願い」
歩みを止めないまま、手早く応急処置を済ませた。
*
水の音が近づくにつれ、空気が重くなる。
「……ここ、昨日の“ぬめり”がでてきたところより、“気配”が濃い気がする」
私の声が自然と小さくなる。
川面は黒い膜で覆われて、さらに“黒いもや”が立ち昇っている。
水が“粘って”いるどころじゃない。
水そのものが、息をしていないように感じる。
にゃっぴーが耳を伏せた。
「ここが源にゃ。匂いが一番強いにゃ」
ヘレネが静かに言った。
「……浄化します。“水瓶座”、最大で」
「え、最大……?」
「水瓶をひっくり返した程度が上限ですが――っ!」
その瞬間、川面から黒い触手のようなものが、飛び出してきた。
反射的に、にゃっぴーが前に飛び出し、
「にゃっ!!」
触手に向かって爪を一閃し、怯んだところを体当たりで押し戻す。
「ヘレネ、今にゃ!」
「“水瓶座”よ、来なさい!」
水瓶の幻影が現れ、清い水が落ち続ける。
勢いはそこまで強くない、だけど止まらない。
最初は何も変わらないように見えた。
でも、じわじわと“黒”が薄れていき、触手の動きも止まる。
「……効いてる……?」
「効いています。いまはとにかく、このまま最大流量を保ちます」
水が当たるたび、膜がほぐれて、臭いが遠のく。
川が、呼吸を取り戻していく。
そして――
膜がぷつん、と切れた。
黒が“ほどけて”、水に戻った。
小川の音が、少しだけ明るく聞こえた。
昨日は残っていた“濁り”も、少なくとも――この場所からは消えたようだ。
「……浄化、できた……?」
そのとき――
視界の端に、あの“透明っぽい板”が浮かぶ。
───────
にゃっぴーのレベルが上がりました。
にゃっぴー:未確認スキルが2つ解放されました。
ヘレネのレベルが上がりました。
ヘレネ:蟹座/牡牛座が解放されました。
サモニャーの召喚スロットが拡張されました。
───────
「うわっ……また急に出た!」
「親切設計にゃ!僕の力も、何か増えてる……にゃ?なんで、僕にだけ不親切なのにゃ」
ヘレネは少しだけ目を見開いて、自分の手を見た。
「“蟹座”と、“牡牛座”……感覚があります」
「サモニャーは召喚できる枠が増えたみたい!今回、私は何もしてないんだけど」
川面が静かになった、そのとき。水が、ふわりと形を取った。
私は咄嗟に後ずさる。
「……っ、今度はなに!?」
「敵意は感じられません」
水の塊がゆっくりと揺れる。昨日の“ぬめり”とは違う。濁りがない。
透き通っていて、穏やかで……きれい。
にゃっぴーが視点を合わせるように“視た”。
「……水妖。今度は、“清水”って見えるにゃ」
私は、なぜか分かった。
この子は、戻ったんだ。“元の姿”に。
「……ねえ。あなた、お名前は何ていうの?」
水が小さく揺れる。喋れないのかな?
「お名前がないなら、付けてあげるよ?」
水の塊が、肯定するように元気よく飛び跳ねた。
「水妖“清水”って種族名なら……うん。あなたのお名前は――“キヨ”。キヨちゃんって呼ぶね!」
その瞬間、“キヨ”が柔らかく光った。
“同意”が世界に刻まれたみたいに。
───────
サモニャー
スロット1:にゃっぴー LV.1(※送還不可)
スロット2:ヘレネ LV.1(※送還不可)
スロット3:空き
控え(“名付け”済み):キヨ(水妖“清水”)
───────
「連続で……あっ、キヨちゃんが控えに入ってる!ということは――」
「ミコトの“名付け”が鍵みたいにゃ」
「私も、ミコトから“ヘレネ”と“名付け”られた時から、徐々に意識がハッキリしてきました。もしかすると、それがミコトの力なのかもしれませんね」
そのとき、頭の中に直接、声が聞こえてきた。
「……っ!急に声が!?」
(キヨ……ぼくのなまえ。うれしい。よろしくね)
「あれ!?キヨちゃん、お喋りできたの?」
(うん、しゃべれない。けど、つながってるから、つたえられる。)
「そうなんだ!“名付け”たから?なんだか“契約”みたいだね。あ、にゃっぴーたちはどう?キヨちゃんの声聞こえてる?」
「聞こえるにゃ」
「私も聞こえましたね」
「じゃあ“名付け”できれば、喋ることができない子とも、みんなでお喋りできるんだ。サモニャーってすごい!」
職業名がふざけてるって言ってしまって、ごめんよ!
そこで、にゃっぴーとヘレネが顔を見合わせて、同時に笑った。
「ミコトの考え方は平和でいいにゃ」
「そうですね。それでこそ、です」
多分褒めてくれてるのよね?――そうに違いない!
あ、そうだ――
「せっかくお喋りできるようになったんだし、少し聞きたいことがあるんだけど、良いかな?」
(なに?)
「なんでキヨちゃんは、“ぬめり”になっちゃったか、わかる?」
(うん……くろいもやもやがね、からみついてきて……そこからは、ずっとぼんやりしてた。けど、そのもやもやが、いやで、ずっともがいていたの)
そういえば、最初は“黒いもや”が立ち昇るくらいの量が見えていたのに……浄化が進むごとに徐々に消えていったように見えた。
そして――途中で襲ってきた痩せた影にも、“黒いもや”が見えた気がする。
(とくに、ぼくみたいに、ちからがよわくて、しぜんにちかい、ようかいは、えいきょうをうけやすいみたい。“よどみ”っていうんだよ?)
よどみ――“澱み”?じゃあ、あの“黒いもや”は……“澱み”の見える形なのかもしれない。
「そうなんだ。教えてくれてありがとう、キヨちゃん。そうだ、キヨちゃんも私たちと一緒に行かない?宿場の方で寝泊まりしてるんだけど。」
だけど、キヨはふるふると否定するように震えた。
(ぼくは、ちかくにおみずが、いっぱいないと、だんだんうごけなくなってくるの。だから、かわのちかくにいる。ようがあるときは、よんで?)
そう言って、キヨは川の中へ戻って行った。
「それじゃあ仕方ないか……」
にゃっぴーが引き継ぐように言った。
「僕たちも、日が暮れる前に帰るにゃ。」
ヘレネも同意するように頷く。
「えぇ。今日の目標は達成しました。早めに戻って休みましょう」
まだ日は高いところにあるけれど、途中で何かアクシデントが起こるかもしれないものね。
それに――あの痩せた影も警戒しながら帰らないとダメだ。早めに戻ろう。
*
宿場へ戻る道の途中。
小川のそばで、何かがうずくまっていた。
「あ――っ!!」
さっき襲ってきた、人喰いの――
恐怖が、背筋を冷たくする。
でも、そいつは私たちに気付いても、飛びかかってこない。ただ、必死に水を飲んでいた。
がぶがぶ、がぶがぶ。がぶがぶ、と――それこそ、喉の奥が壊れそうな勢いで。
「……どうして、そんなに……」
にゃっぴーがそっと言う。
「……“飢え”だけじゃないにゃ。“渇き”もあったみたいにゃ」
さっき“水瓶座”を浴びせた瞬間、ぴたりと動きが止まった理由が、ようやく腑に落ちた。
もしかして……“渇き”をどうにかしようとしていた?“ぬめり”のせいで――水が飲めなくなっていた?
「……ってことは」
無意識に口が動いた。
「……人喰いの”化け物”じゃなくて、なにか“困ってる”だけなのかもしれない……?」
にゃっぴーが短く頷く。
「もう少し近付ければ“猫も杓子も”で鑑定できるにゃ。……でも、いまは危ないにゃ」
私は拳を握った。
やっぱり怖い。けど、震えは止まった。さっきの“血を舐めた”行動が、別の意味に見えてくる。
“悪意”からくるものではなく、“飢え”?そして……“黒いもや”も見える。やっぱりこの子も“澱み”が原因でおかしくなっている?
「……帰ろう。今は帰って、休もう。それから作戦会議だ」
「賛成にゃ」
「はい。改めて準備を整えましょう」
“拠点”に戻ってくると、囲炉裏の火が、まだ生きていた。
それだけで、安心して、泣きそうになってしまう。
「……よかった。帰ってこれた……」
「ミコト、今日は休むにゃ。また、明日にでも対策会議するにゃ」
「“倒す”ではなく、“戻す”。……そのための準備です」
私は頷いた。
キヨみたいに助けることが出来るかもしれない……それに、逃げっぱなしは、嫌だ。
だから、今は気力を回復するためにも――
「にゃっぴー、ちょっとこっちにきてもらってもいい?」
にゃっぴーは、首を傾げながらこっちに来てくれる。
「ミコト、どうかしたのにゃ?」
「ちょっと、失礼するよ〜」
と言って、にゃっぴーをゆっくり、優しく抱き上げて膝に乗せた。
「??なんにゃ?」
うん……可愛い!めちゃくちゃ可愛い!
そう思いながら、顎の下を包み込むように優しく撫でる。ほら〜なでなで〜。
「んにゃ、にゃ……ゴロゴロゴロゴロ」
にゃっぴーが目を細める。尻尾がゆらゆらと揺れる。リラックスしてくれてるみたいだ。元の世界では抱っこしたくても、できなかったから、夢だったんだよね!
私たちの様子をヘレネが微笑ましく見守っている。
“拠点”の中で、にゃっぴーのリラックスする音が鳴る。ゴロゴロ、ゴロゴロ、ゴロゴロ、と。
――それは、私の“今日を生き延びた”証拠の音、世界が少しだけ優しくなる音――




