異世界の洗礼
目が覚めた。現代のように窓がないので分かりづらいけど、おそらく朝だと思う。
囲炉裏のぬくもりがあった影響か、少しだけ部屋の中は温かい。
私はゆっくり身を起こして、息を吸った。
巫女服、そして固い床。
――全てがやけにリアルだった。
「……やっぱり、夢じゃなかったんだね……」
そっと隣を見る。
にゃっぴーがいて、耳を動かして外を窺っている。
ヘレネも私が起きたことに気付いたみたい。
そして、物憂げな気持ちを感じとったのか、包み込むような声で言った。
「……ミコト。まずは顔を洗って、さっぱりしましょう。考えるのは、それからです」
「うん……」
ヘレネは宿場の隅から、木の桶を引っ張り出してきて、手渡してくれた。
「これを使ってください」
「桶あるんだ……助かるよー」
私は桶を受け取って、顔の下に構える。
ヘレネが慈愛のこもった笑顔で言った。
「目を閉じて、上を向いてください」
「……え?洗顔って上向くっけ?」
と思ったが、私は素直に従って目を閉じ、顎を上げた。
「“水瓶座”よ。来なさい」
途端に、上から清い水が落ちてきた。
「がぼぼぼっ!?ごほっ、ごほっ!!」
「浄化効果を発揮させる際は、水瓶から直接降らせる必要があるので」
「そういう仕様!?じゃあ、せめて“下向け”って言って!」
でも、水は冷たすぎず、ぬるすぎずの適温。
口に入ったおかげか、そこも浄化されたみたいで――寝起きの口の中の嫌な感じが消えていく。
寝起きからいきなり、溺れかけるという意味が分かんない状況になったけど……
この浄化効果はすごく役に立つ。
「……くやしいけど、ちょっと気持ちいい……」
「はい、ミコト、手拭いです。これで顔を拭いてください」
「てぬぐい?あぁタオル的な、ね。ありがとうヘレネちゃん」
顔を優しく拭きながら、ふと思ってしまった……これ、巫女服で拭いたら良いのでは。
自動修復機能付きみたいだし、汚れない上、水にも濡れない――
ここまで思いついたところで、ヘレネちゃんが真顔で私を見つめていることに気付いた。
どうやら横着しようとしたことを、見抜かれた様子だ。この思いつきはここまでにしよう……
「……ヘレネちゃん、喉も乾いてるからもう一度“水瓶座”お願いしていいかな?」
「えぇ。構いません。温度はどうしましょうか。
5℃〜40℃までは変更できますよ」
「う〜ん、この痒いところに手が届く仕様、助かる!じゃあ、ちょっと冷たいのをお願い」
幻影の水瓶から直接口に注がれるのは微妙な気分だけど……冷たくて、きれいで――喉の奥に、すっと入っていく。
「生き返る〜」
――と思った次の瞬間。
「ヤバい」
「え?」と、にゃっぴーとヘレネが同時に見る。
「急に、お手洗いに行きたくなってきた……!」
昨日は緊張で感じなかったけど……水を飲んだ途端、夢見心地だった体が、現実に戻ってきた!
にゃっぴーが耳を立て、周囲の匂いを嗅ぐ。
「屋外にあるみたいにゃ」
「急いで向かいましょう」
これは乙女の危機である。早急にことを為さねば……!
古風な物言いをしてしまったが、頭の中でふざけてでもいないと――“尊厳”が決壊してしまう――
そして、二人に案内されてたどり着いたお手洗いは――その、お世辞にも、綺麗と言えるような小屋ではなかった。まだ戸を開けてもいないのに空気が……
「……え?ここがお手洗いなの……?」
戸を開けた瞬間、追い打ちがきて若干涙目になる……それと……
「あの……座るところは?」
ヘレネが真剣な顔でいう。
「便座はありません。ガーゴイルスタイルです」
ガーゴイルて……意味は分かる。分かるけど……それをやれっていうのか……
「その……トイレットペーパーなどは……?」
「おそらく、隅の小箱の中かと」
箱を開けた瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
「え……これ、残り……少なくない?」
「予備は……宿場に戻ってから探してみましょう」
これ……予備がなかったら近いうちに私の“尊厳”が詰むぞ。
「……マジでか……じゃあ、せめてヘレネちゃんの“水瓶座”で“色々”消せたりしない?」
「無理です。“水瓶座”の浄化効果で汚物は消せません。それに……そこは“溜め”なので下手をすると水ごと溢れます」
覚悟を決めるしかない――異世界初の覚悟を決める場面が、こんなんになるとは思ってもみなかった(泣)。
そして――
「ふぅ……何とか間に合ったけど色々キツかった……元の世界に戻りたいと本気で思った。私は帰るぞ!元の世界に!」
私の唐突な決意表明に、にゃっぴーが呆れたようにいう。
「ミコトは本当にズレてるにゃ〜」
それから、ヘレネちゃんが寄ってきた。
「まずは手を洗いましょう。“水瓶座”に浄化効果があって良かったです。ハンドソープもありませんし」
そういえば手を洗う場所もなかったし、ハンドソープもなかったね……
異世界ってすごい。ただ、そう思った。
*
しっかりと手を洗い、道を戻る途中、ふと気づいてしまった。
――下着だけは、見慣れた感触のままだった。
しかも、不思議なくらい不快感が少ない。
「……え。これも、もしかして“自動修復”付いてる?」
もし、そうなら大変ありがたい……トイレですら“こう”なのだ……衛生事情はおして知るべしなのよ……
*
定宿に戻ると、まず向かったのは帳場である。当たり前だ!最優先事項といっても過言ではない!
半ば祈るように帳場を探して、古い帳面と小さな包みを見つけた。
にゃっぴーが包みの重さを確かめて、うん、と頷く。
「ミコトが普通に使うなら……二〜四週間くらいは持つにゃ」
「二〜四週間……!」
安心しかけたけど、逆をいうと二〜四週間“しか”猶予がない、ということ……
ヘレネが真顔で追い打ちをかけた。
「それ以上は“水瓶座”を使って……」
「ない!」
「でもミコト、まさか拭かないのは、さすがに――」
「違うよ!毎回ヘレネちゃんにわざわざ“水瓶座”使ってもらうとか、私の尊厳ごと流されるわ!」
私は拳を握りしめた。
「いい?これは決定事項だからね。紙が尽きる前に旅立つ!」
「理由がミコトらしいにゃ」
「ミコトらしくて良いと思います。まぁ最悪は“水瓶座”もありますし、どうにかなるでしょう」
ヘレネが最悪の想定をしているが、そうはならんぞっ!絶対にね!
部屋へ戻ると、囲炉裏の灰は静かに丸まっていた。
「……これって火はどうしたらいいの?またケンタウロスのおじさん呼ぶ?」
にゃっぴーが鼻をひくつかせる。
「火は生きてるにゃ。灰の奥、ちょっとだけ赤いにゃ」
私は灰をそっと掘る。奥に、針みたいな赤がいた。
「おぉ〜、こんな感じなんだ」
あとは、にゃっぴーの指示通りに、小枝を寄せて、息をひとつ。すると、ふっ、と炎が戻った。
――それから芋を火のそばに転がすと、湯気が立った。その匂いだけで、ほっと安心できる。
では改めて――
「今日の目標を確認しよう」
「上流に行くにゃ」
「源を清めましょう。ここをある程度整えるにしても、不安要素はどうにかしておきたいです」
そうだね。今すぐここから旅立つことはできない。芋の残りも少なく、食料の問題がある。
それに、どこへ向かうにせよ、拠点があると安心感が違う。
そして……楽観視はできないけど、昨日遭遇したスライムみたいなやつは、“水瓶座”で浄化できているのが大きい。そうじゃないと、さすがに上流に向かう選択肢はなかった。
みんなの指示に従い、床下の麻袋に、火打ち道具。火口。火入れ。あと、縄。包帯の代わりになる布も少し入れる。
「……本格的に冒険する、って雰囲気になってきたね」
にゃっぴーが耳を立てる。
「実際、命がけにゃ」
私はしっかり頷いた。
「……分かってる。それでも行こう。でも、一つだけ条件をつけようと思うんだ」
「撤退条件にゃ?」
「日が傾いたら即帰る」
「それだけですか?」
ヘレネが眉をひそめる。
私はうなずいた。
「うん。怖いのも、怪我をするのも……正直“起こる前提”で行くしかない。でも、夜に動くのは無理だと思う」
もちろん怖いのもあるけど……現代日本と比べて灯りが少なすぎる。夜に行動するのは危険だ。
にゃっぴーが前足を上げた。
「賛成にゃ。夜は帰るにゃ」
ヘレネも静かに頷く。
「では補足します。動けなくなるほどの傷を負ったら、その時点で帰りましょう。“軽い傷”は、今は想定内。でも“動けない”はアウトです」
私は深呼吸して、覚悟を決める。
「……よし。目的は確認と……出来れば“源”の浄化。無理なら逃げる。夜になる前に戻る」
外にでてすぐに、にゃっぴーは鼻をひくひくさせた。
「……上流の匂い、まだ強いにゃ。今日は風があるから、余計に流れてくるにゃ」
ヘレネも空を見上げる。
「天気は崩れていません。今なら行けます」
私は一度だけ宿場の戸を振り返った。
仮の拠点だけど、安心出来る“居所”だ。
でも、ここに居続けたら……すぐに身動きが取れなくなってしまう。
「よし……行ってきます!」
私は言ってから、少し笑った。
宿場に挨拶する自分、だいぶ変だ。やっぱり緊張してるみたいだね。
にゃっぴーが私の足元に並ぶ。
「ミコト、怖くなったらすぐ言うにゃ」
ヘレネも、いつもより少し柔らかい声で言う。
「大丈夫。私たちも一緒です」
「うん。……じゃ、行こう」
三人で一緒に小径に踏み出す。
草履の裏が、乾いた土をきゅ、と鳴らした。
白いはずの足袋は、汚れる気配すらなく――それが、現実感を薄くさせる。
そのとき。
急に風がやみ、森が息をひそめるみたいに静まり返った。葉擦れの音もしない。
にゃっぴーの耳が、ぴん、と立った。
ヘレネが警戒したように辺りを見回す。
私にも、何故か分かった。
――見られている。
「ねえ。もしかして……何か、いる?」
返事はない。
でも、道の先で、影が一瞬だけ揺れた気がした。
私たちは何も言わず、歩幅を少しだけ早めた。
上流へ。濁りの源へ。
願わくば、何事もなく解決できることを祈ろう。私をここに送った、神様がいるのなら――




