第三話「異世界の洗礼」
目が覚めた。
現代のような窓がないので分かりづらいけど、おそらく朝だと思う。
囲炉裏のぬくもりがあった影響か、部屋の中は温かい。
私はゆっくり身を起こして、深呼吸をする。
巫女服、そして固い床。
――全てがやけにリアルだった。
「……やっぱり、夢じゃなかったんだね……」
そっと隣を見る。
にゃっぴーがいて、耳を動かして外を窺っている。
ヘレネも私が起きたことに気付いたみたい。
そして、私の物憂げな気持ちを感じとったのか、包み込むような声で言った。
「ミコト。まずは顔を洗って、さっぱりしましょう。考えるのは、それからです」
「うん……」
ヘレネは宿場の隅から、木の桶を引っ張り出してきて、手渡してくれた。
「これを使ってください」
「桶あるんだ。助かるよー」
私は桶を受け取って、顔の下に構える。
ヘレネが慈愛のこもった笑顔で言った。
「目を閉じて、上を向いてください」
「え?洗顔って上向くっけ?」
と思ったが、私は素直に従って目を閉じ、顎を上げた。
「“水瓶座”よ。来なさい」
途端に、上から清い水が落ちてきた。
「がぼぼぼっ!?ごほっ、ごほっ!!」
「浄化効果を発揮させる際は、水瓶から直接降らせる必要があるので」
「そういう仕様!?じゃあ、せめて“下向け”って言って!」
でも、水は冷たすぎず、ぬるすぎずの適温。
口に入ったおかげか、そこも浄化されたみたいで――寝起きの口の中の嫌な感じが消えていく。
寝起きからいきなり、溺れかけるという意味が分かんない状況になったけど……
この浄化効果はすごく役に立つ。
「……くやしいけど、ちょっと気持ちいい……」
「はい、ミコト、手拭いです。これで顔を拭いてください」
「てぬぐい?あぁタオル的な、ね。ありがとうヘレネちゃん」
顔を優しく拭きながら、ふと思ってしまった……これ、巫女服で拭いたら良いのでは。
自動修復機能付きみたいだし、汚れない上、水にも濡れない――
ここまで思いついたところで、ヘレネちゃんが真顔で私を見つめていることに気付いた。
どうやら横着しようとしたことを、見抜かれた様子だ。この思いつきはここまでにしよう!
「ヘレネちゃん、喉も乾いてるからもう一度“水瓶座”お願いしていいかな?」
「えぇ。構いません。温度はどうしましょうか。
五度から四十度までは変更できますよ」
「う〜ん、この痒いところに手が届く仕様、助かる!じゃあ、ちょっと冷たいのをお願い」
幻影の水瓶から直接口に注がれるのは微妙な気分だけど……冷たくて、きれいで――喉の奥に、すっと入っていく。
「生き返る〜」
――と思った次の瞬間。
「ヤバい」
「え?」と、にゃっぴーとヘレネが同時に見る。
「急に、お手洗いに行きたくなってきた……!」
昨日は緊張で感じなかったけど……水を飲んだ途端、夢見心地だった体が現実に戻ってきた!
にゃっぴーが耳を立て、周囲の匂いを嗅ぐ。
「屋外にあるみたいにゃ」
「急いで向かいましょう」
これは乙女の危機である。早急にことを為さねば……!
古風な物言いをしてしまったが、頭の中でふざけてでもいないと――“尊厳”が決壊してしまう!
そして、二人に案内されてたどり着いたお手洗いは――その、お世辞にも、綺麗と言えるような小屋ではなかった。
まだ戸を開けてもいないのに空気が……
「……え?ここがお手洗いなの……?」
戸を開けた瞬間、追い打ちがきて涙目になる……。
それと……
「あの、座るところは?」
ヘレネが真剣な顔で言う。
「便座はありません。ガーゴイルスタイルです」
ガーゴイルて……意味は分かる。しゃがんで、って分かるけど……それをやれっていうのか。
「その……トイレットペーパーなどは……?」
「おそらく、隅の小箱の中かと」
箱を開けた瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
「え……これ、残り……少なくない?」
「予備は……宿場に戻ってから探してみましょう」
これ……予備がなかったら近いうちに私の“尊厳”が詰むぞ。
「……マジでか……じゃあ、せめてヘレネちゃんの“水瓶座”で“色々”消せたりしない?」
「無理です。“水瓶座”の浄化効果で汚物は消せません。それに……そこは“溜め”なので下手をすると水ごと溢れます」
覚悟を決めるしかない――異世界初の覚悟を決める場面が、こんなんになるとは思ってもみなかった(泣)。
そして――
「ふぅ……何とか間に合ったけど色々キツかった。元の世界に戻りたいと本気で思った。私は帰るぞ!元の世界に!」
私の唐突な決意表明に、にゃっぴーが呆れたように言う。
「ミコトは本当にズレてるにゃ〜」
それから、ヘレネちゃんが寄ってきた。
「まずは手を洗いましょう。“水瓶座”に浄化効果があって良かったです。ハンドソープもありませんし」
そういえば手を洗う場所もなかったし、ハンドソープもなかったね……。
異世界ってすごい。ただ、そう思った。
*
しっかりと手を洗い、道を戻る途中、ふと気づいてしまった。
――下着だけは、見慣れた感触のままだった。
しかも、不思議なくらい不快感が少ない。
「もしかして下着にも“自動修復”付いてる?」
もし、そうなら大変ありがたい。
お手洗いですら“こう”なのだ……衛生事情は推して知るべしなのよ。
*
宿に戻ると、まず向かったのは帳場である。
当たり前だ!最優先事項といっても過言ではない!
半ば祈るように帳場を探して、古い帳面と小さな包みを見つけた。
にゃっぴーが包みの重さを確かめて、うん、と頷く。
「ミコトが普通に使うなら……二〜四週間くらいは持つにゃ」
「二〜四週間……!」
安心しかけたけど、逆をいうと二〜四週間“しか”猶予がない、ということ。
ヘレネが真顔で追い打ちをかけた。
「それ以上は“水瓶座”を使って……」
「ない!」
「でもミコト、まさか拭かないのは、さすがに――」
「違うよ!毎回ヘレネちゃんにわざわざ“水瓶座”使ってもらうとか、私の尊厳ごと流されるわ!」
私は拳を握りしめた。
「いい?これは決定事項だからね。紙が尽きる前に旅立つ!」
「理由がミコトらしいにゃ」
「ミコトらしくて良いと思います。まぁ最悪は“水瓶座”もありますし、どうにかなるでしょう」
ヘレネが最悪の想定をしているが、そうはならんぞっ!絶対にね!
*
部屋へ戻ると、囲炉裏の火は消えているようだった。
「これって火はどうしたらいいの?またケンタウロスのおじさん呼ぶ?」
にゃっぴーが鼻をひくつかせる。
「火は生きてるにゃ。灰の奥、ちょっとだけ赤いにゃ」
私は灰をそっと掘ると……奥に、針みたいな赤がいた。
「おぉ〜、こんな感じなんだ」
あとは、にゃっぴーの指示通りに、小枝を寄せて、息をひとつ。すると、ふっ、と炎が戻った。
――それから芋を火のそばに転がすと、湯気が立った。その匂いだけで、ほっと安心できる。
では改めて――
「今日の目標を確認しよう」
「上流に行くにゃ」
「源を清めましょう。ここをある程度整えるにしても、不安要素はどうにかしておきたいです」
そうだね。今すぐここから旅立つことはできない。芋の残りも少なく、食料の問題がある。
それにどこへ向かうにせよ、拠点があると安心感が違う。
そして……楽観視はできないけど、昨日遭遇したスライムみたいなやつは、“水瓶座”で浄化できているのが大きい。そうじゃないと、さすがに上流に向かう選択肢はなかった。
みんなの指示に従い、床下の麻袋に、火打ち道具。火口。火入れ。あと、縄。包帯の代わりになる布も少し入れる。
「本格的に冒険する、って雰囲気になってきたね」
「実際、命がけにゃ」
私はしっかり頷いた。
「分かってる。それでも行こう。でも、一つだけ条件をつけようと思うんだ」
「撤退条件にゃ?」
「日が傾いたら即帰る」
「それだけですか?」
ヘレネが眉をひそめる。
私はうなずいた。
「うん。怖いのも、怪我をするのも……正直“起こる前提”で行くしかない。でも、夜に動くのは無理だと思う」
もちろん怖いのもあるけど……現代日本と比べて灯りが少なすぎる。夜に行動するのは危険だ。
にゃっぴーが前足を上げた。
「賛成にゃ。夜は帰るにゃ」
ヘレネも静かに頷く。
「では補足します。動けなくなるほどの傷を負ったら、その時点で帰りましょう。“軽い傷”は、今は想定内。でも“動けない”はアウトです」
私は深呼吸して、覚悟を決める。
「よし。目的は確認と……できれば“源”の浄化。無理なら逃げる。夜になる前には戻る」
外に出てすぐに、にゃっぴーは鼻をひくひくさせた。
「……上流の匂い、まだ強いにゃ。今日は風があるから、余計に流れてくるにゃ」
ヘレネも空を見上げる。
「天気は崩れていません。今なら行けます」
私は一度、宿場の戸を振り返った。
仮の拠点だけど、安心できる“宿場”だ。
でも、ここに居続けたら……身動きが取れなくなってしまう。
「よし。それじゃあ……行ってきます!」
私は言ってから、少し笑った。
宿場に挨拶する自分、だいぶ変だ。
やっぱり緊張してるみたいだね。
にゃっぴーが私の足元に並ぶ。
「ミコト、怖くなったらすぐ言うにゃ」
ヘレネも、いつもより少し柔らかい声で言う。
「大丈夫。私たちも一緒です」
「うん。……じゃ、行こう」
三人で一緒に小径に踏み出す。
草履の裏が、乾いた土をきゅ、と鳴らした。
白いはずの足袋は、汚れる気配すらなく――それが、現実感を薄くさせる。
そのとき。
急に風がやみ、森が息をひそめるみたいに静まり返った。葉擦れの音もしない。
にゃっぴーの耳が、ぴん、と立った。
ヘレネが警戒したように辺りを見回す。
私にも、何故か分かった。
――見られている。
「ねえ。もしかして……何か、いる?」
返事はない。
でも、道の先で、影が一瞬だけ揺れた気がした。
私たちは何も言わず、歩幅を少しだけ早めた。
上流へ。濁りの源へ。
願わくば、何事もなく解決できることを祈ろう。
私をここに送った、神様がいるのなら――




