第十五話「命」
※本日は内容の都合上、第十五話・第十六話を続けて更新します。こちらの第十五話のあと、少し時間を空けて次の第十六話を公開予定です。
春霞の里を出てから、半日ほど。
牛車は、山裾をなぞるように続く道を、ゆっくりと進んでいた。
春霞の周辺ほど整った道ではないけれど、牛車が通れないほどではない。左右には木々が並び、遠くには水の流れる音も微かに聞こえてくる。
蛟の住処は、妖狸族の里から北西にあるという話だった。
道中の危険も考えて、最初から祭を呼ぶべきかどうか、少し迷ったけど……
でも、祭は里に残って引き継ぎをしている最中だ。蛟とは顔見知りとはいえ、まだ道中に入ったばかりで呼ぶのも気が引ける。
「……何もなければ、そのまま行けそうだね」
私がそう言うと、にゃっぴーが荷台の上で耳をぴくりと動かした。
「何もないのが一番にゃ。でも、前よりは慎重に行くにゃ」
「えぇ。蛟のところへ着く前に、余計な消耗は避けたいです」
ヘレネの返答も、春霞へ向かっていた頃より少し硬い。
祭と別れたこともあるし、これから向かう相手が五行妖怪だということもあるのだろう。
私は頷いて、前を見た。
――そう。慎重に。
少なくとも、今までみたいに「たぶん大丈夫」で動くのは、控えた方がいい。
そう思った、その時だった。
「あれ……?」
道の先、木々の切れ間に、何かが見えた。
屋根のようなもの。鳥居のようなもの。遠目にも、人工物だと分かる。
「どうかしましたか、ミコト?」
「うん……あそこ。何かある」
牛車を止めてもらい、目を凝らす。
森の中、少し道から外れた場所に、社のような建物が見えていた。
「……社、かな?」
「社にゃ?」
にゃっぴーが立ち上がり、匂いを確かめるように鼻をひくつかせる。
ヘレネも目を細めて、その方向を見た。
「このあたりに社があるとは聞いていませんでしたね」
「でも、なんか……気になるんだよね」
言った瞬間、自分でも少し妙な感覚だと思った。
怖いわけじゃない。むしろ逆だ。
どこか、見過ごしてはいけないような――そんな感じがした。なんだろう、この感覚は……あの社にも困ってる子がいる?だから、浄化ができる私たちに来て欲しがってるの?
慎重に行くなら、本来なら無視するべき、だよね……
だけど――
その自分でも意味が分からない不思議な感覚に、首をひねっていると……
にゃっぴーが、じとっとした目で私を見る。
「ミコト、その“気になる”は、わりと危ない方向のやつにゃ」
「いや、そこは分かっているんだ。でも……なにか呼ばれているような感じがして――」
「……呼ばれている?私には一切感じられませんが……それに、できれば消耗は避けた方が無難かと思います」
「うん……そこも理解してるんだけどね……」
にゃっぴーの“索敵”は反応していない。少なくとも今の時点で、極小ですら出ていない。
それに、何かあれば祭を呼ぶことだってできる。
祭という保険があるから、気が大きくなっている可能性もある、か。
でも――
「……確かに索敵には、引っかかってないにゃ。でも、山姥の時も引っかからなかったにゃ」
にゃっぴーが渋い顔のまま言う。
「だけど……気になるって言い出したミコトが、そのまま素通りできるとも思えないにゃ」
「うっ……」
「本当に、見るだけですよ」
ヘレネが念を押す。
「危険を感じたら、すぐ戻ります。いいですね」
「うん。ごめんね……。でも本当に不思議な感覚があるんだ。……誰かが助けを求めているような……」
私だってこの変な感覚がなかったら、いくら気になるとはいえ、寄ろうとは思わなかった。
だから……ごめん、みんな。
*
牛車を道脇に寄せ、私たちは社の方へ向かった。
シロも、私の足元についてくる。今日は妙に静かだ。いつものようにすりすりしてこない。
木々の間を抜けると、それははっきりと社の姿を現した。
鳥居は傾き、拝殿の屋根は半分落ちていた。
なのに、境内の外周には注連縄と紙垂、榊が残っている。
だけど、注連縄も紙垂も若干朽ちていて……“榊”は、より黒ずんで見えた。
それらは祈りの飾りじゃない。
多分、“留め金”……封印だ。
それに……昨日の話で出てきた“榊”。
まさか――
私は、無意識に息を呑んでいた。
「……ここは……」
何かを祀っているというより、何かを閉じ込めている。
そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。
ここは……ダイダラボッチが封印されている場所なのでは――
緊張でじっとりとした汗が流れてくる。
心臓が早鐘を打つ。
それでも、周りを確認してみると……
手水鉢が割れているのが見えた。器としてはもう使えなくなっていて――底に、澄んだ水が一口分残っていた。触れれば冷たい。
参道には絵馬がいくつも打ち捨てられていて、墨が雨で滲んでいる。
それでも、いくつかだけ読めた。
“まもって”
その一言が、やけに胸に引っかかった。
「……祭ちゃん?」
何故かその絵馬を書いた存在が祭であると、頭によぎった、その時だった。
――バキンッ!!
何かが割れる、大きな音がした。
ふと“榊”に目をやると……さっきまで黒ずんでいただけだった“榊”が、急に枯れ落ちていた。
空気が、変わる。
にゃっぴーの耳が一気に立ち、その全身の毛が、ぶわっと逆立つ。
「“極大”にゃ!!」
今まで聞いたことのない、切り裂くような声だった。
「え――」
言葉が終わるより先に、何かが空から落ちてきた。
衝撃で地面が揺れて土が跳ね、落ち葉が舞い上がる。
視界の先に立っていたのは、黒い塊だった。
それは濃すぎる“澱み”なのか、絶えず黒いもやが立ち昇り、輪郭さえ曖昧だった。
大きさは、三メートルほど。人型なのか、獣なのかも分からない。
それに……輪郭は曖昧なのに、そこに“いる”ことだけは、骨の髄まで伝わってくる。
圧が、違う。息が止まり、指先が震える。
心臓の音だけが、耳に響いた。
逃げなきゃ――
そう思ったのに、あまりの圧力に足が動かなかった。
祭ちゃんを呼ばなきゃ――
そう思ったはずなのに、頭の中が真っ白で……喉からは、はっ、はっ……と呼吸が乱れる音が出てくるだけだった。
どうしよう、どうすれば……私は混乱からパニックを起こしてしまい……過呼吸になりかけていた。
そのとき――
「にゃぁぁぁぁ!!!!!!」
いつもは、のんびりしている声が、裂けるように響いた。
「ここは僕が受け持つにゃ!!ヘレネ!!ミコトを連れて逃げるにゃ!!」
にゃっぴーが、黒い塊へ飛び出した。
待って。ダメ……
絶対に――勝てない。
声にした、つもりだった。
けれど、やっぱり喉が凍って……なんの音も出なかった。
次の瞬間。
何が起きたのかを理解する前に――にゃっぴーの身体が、弾かれるように宙を舞った。
黒い毛並みが赤く染まる。
にゃっぴーが地面に落ちた音が、やけに乾いて聞こえた。
「……いや……!にゃっぴー!!」
今になって、足が動く。声も出る。
だけど……!遅すぎる。遅すぎる――!
私は駆け出した。
「ミコト!待ちなさい!!」
ヘレネがこちらに手を伸ばしたのが、見えたけど……にゃっぴーが……にゃっぴーが……!!
「くっ……!ここで全ての札を切れば、その“先”がありません……この場面で、一時的とはいえ星座能力を失うわけには……!」
“やはり……双子座の裏技は使えません……!”とヘレネが低く呟き――瞬間、黒い塊に向かって、掌をかざした。
「――っ!双子座よ、来なさい――“水瓶座”よ!」
ヘレネの背に、もう一人のヘレネが重なる。
そして、黒い塊の上に現れた水瓶の幻影から、清い水が勢いよく降り注いだ。
黒い塊が、びくりと揺れて……固まりのようになっている黒――“澱み”が少しだけ剥がれ、その輪郭の奥に、ひどく苦しそうな何かが見えた気がした。
「――ッ」
追ってこない。
むしろ、その場に留まり、何かを抑え込むように自身を抱きしめて――いや、自分を拘束している……?
そして、その動きが、固まった。
自分のしたことを理解したかのように。
……それは、何?理性?
それとも、限界?
私には……自分を抑えることに必死になっているように見える、けど――
その隙に、シロが飛び出した。
「きゅっ!」
「シロ!?」
私が止めるより早く、シロは黒い塊の足元へ駆け寄り、自分の身体を、すり、と一度だけ擦りつけた。
黒い塊が、びくりと揺れ――動こうとしたけど、思い留まるように再び動きを止めた。
そして次の瞬間――それは踵を返し、森の奥へ跳んだ。人のいない方へ。
「あっ――」
追えるわけがなかった。
私はもう、黒い塊ではなく、にゃっぴーしか見えていなかった。
にゃっぴーは浅い呼吸を繰り返していた。
目は閉じかけていて、胸が小さく上下するたびに、怖くなる。
「死んじゃだめ……!お願い……!」
私の声は、自分でも分かるくらいに震えていた。
こちらに走り寄って来たヘレネが唇を噛む。
私が寄り道しようって言ったんだ。二人は止めたのに。
それでも押したのは、私だ。
私のせいだ。私のせいで、にゃっぴーが――
「あぁ……!にゃっぴーが死んじゃう!ヘレネちゃん……!何とか……!」
ヘレネは目を伏せ、拳を強く握り締めていて――
「……私には、回復の力は――」
その言葉が、頭の奥で弾けた。
「イザナミ様!!」
私は空へ向かって叫んだ。もう、何でもよかった。
「聞こえてるならお願い……!私はどうなってもいい!!だから――にゃっぴーを!!」
その瞬間、視界に“透明な板”が滑り込んだ。
──────────
ミコトの感情値がオーバーフローしました。
副職:ヒーニャーが解禁されます。
※警告:未解放領域です。反動が発生します。
──────────
「……ヒーニャー……!」
ふざけた名前でも、今はどうでもいい。
私は震える手を、にゃっぴーの胸に重ねた。
「お願い……戻ってきて……!」
──────────
未解放スキル「治癒の祈祷」を実行します。
代償:生命力を消費します。
──────────
暖かい光が溢れ、赤が薄れていく。
裂けた傷が、あり得ない速さで塞がっていく。
代わりに……私は、指先から段々と身体が冷たくなってきていて……意識が――
「……よかっ、た……」
にゃっぴーの傷が完全に塞がったように見え……安堵した瞬間、全身の力が抜けた。
視界が暗くなる。身体が、急に重くなる。
遠くで、ヘレネが何か叫んでいた。
にゃっぴーの耳が、かすかに動いたのも見えた。
その時、頭の中に祭の声が叩きつけられるように響いた。
(ミコト様!早う呼べ!)
びくり、と肩が震える。
(唄に神託が下りた!封印が解けたんじゃ!早う――!!)
私は、最後の力を振り絞るように口を開いた。
「……さ、い……しょう……かん」
空気が揺れた。
小さな身体が、視界の端に現れる。
「遅いわ阿呆!!」
祭の怒鳴り声が、やけに遠く聞こえた。
最後に聞こえたのは、にゃっぴーの小さな声だった。
「……ミコト……だめ……」
――そこで、私は意識を手放した。




