37『彼女の不安、彼の葛藤』
『その日』の訪れは、私が考えていたよりもずっとずっと早かった。
有言実行なのか善は急げなのか。期末試験の全日程を終えて帰宅すれば母は既にうきうきお出掛けモードだった。
……そんなに王妃様が主催されるお茶会(強制参加)が億劫だったのだろうか?
そんな事を考えながらも、私は用意された荷物の多さに度肝を抜かれていた。ちょっと引っ越しでもするのかなってくらいの嵩だもの。
「これ……何日分ですか?」
「御披露目会の一週間前までですから……二ヶ月程かと」
「に、二ヶ月!?」
平然と答えるナタリアに戦く。冬休みには長過ぎますよね……?
「心配しなくても大丈夫よ。来月のフィーのお誕生日は盛大にお祝いするわ。貴女は身一つで馬車に揺られていれば良いのよ、さあ、行きましょう」
そんな心配は一切していないのだが……愕然とする私をどう捉えたのか、満面の笑みのお母様はそう言い私の手を取った。その日が待ち遠しくて堪らないといった様子で、その昂り具合に私はちょっと気圧される。
「いえ、お母様、ですがまだ授業も残っておりますし、今すぐにという訳には……」
「あら。授業って言っても平均点に届かなかった生徒の補習が中心でしょう? フィーには必要のない事だわ」
うふふ、と声を立てて笑えば辺り一面に見えないけれど可憐な花が咲き乱れた。
「留守はルディに任せて、わたくし達は目一杯、休日を謳歌しましょう」
「っ、……お兄様は、やはりご一緒ではないのですね……」
「え? ええ、一人で少し頭を冷やしたいとか言っていたわね」
ああ、やっぱりそうなんだ。
このところ兄の様子がどうもおかしい。
私と目を合わせようとしない。
相変わらず優しくて、私をとても大切なもののように扱ってくれる。だけど、目を背ける。その瞳に私を映そうとはしない。
私に触れてくれない。
私を、見てくれない。
今までの私の誕生日は全て、側に兄がいてくれた。どれだけ仕事が忙しくても必ず一番におめでとうと言って抱き締めてくれた。たくさんの祝福のキスをくれた。
それが当たり前だなんて、随分な思い上がりだったみたい。
また、どろん……と、胸の奥が濁っていく。形を持たないそれは酷く凍えて、私から熱を奪っていく。
「顔色が悪いわ、フィー。やっぱり疲れているのよ、少しのんびりとしましょう? 最近ずっと騒がしかったからルディも気にして、それでこの旅行を勧めてくれたのよ」
「……え? お兄様……が、仰られた事なのですか……?」
私にとって十五の誕生日は特別なものだ。『私』が大きく変わってしまうかもしれない恐怖と、ほんの少しの期待に心は絶え間なく揺れ動いている。なのにそんな日を目前に、私を遠ざけようとした。その日を共に迎える事を拒んだ、厭うたのだ。
一緒にいてくれないなんて。
溜まった澱が胸から暴れ出て鳩尾の辺りを強く締め付けた。押し出された空気を求めるように喘げば、目には涙が浮かび、唇は震えた。
「……行きます。私、何処にでも行きます……」
様子のおかしい私に戸惑う母を置いて先に馬車に乗り込む。服を着替える気力も残っていなくて制服のままで、ゆっくりと動き始めた馬車の振動に身を委ねた。同乗する母の、私を気遣う言葉にも満足に相槌を打てず、出来るのはただ涙が落ちないように堪える事だけ。
今はもう、何も考えたくなかった。
どれだけ美しい紅葉が窓の外に広がろうが、私の心は少しも晴れなかった。一週間経ち二週間経とうとも、いや寧ろ誕生日が近付くに連れて気持ちはどんどんと擦り減っていった。考えれば考える程に疲弊し、鬱々とし沈む。
何が悪かったのか?
何か気に障るような事をしてしまったのだろうか。
ほんの少し前まで、あんなにたくさん触れてくれたのに。
怖い夢を見て泣いた私に、夢を忘れるまでキスをしてくれた。朝まで繰り返し、何度も何度も。
……それがいけなかったのだろうか?
拒まず受け入れた私をふしだらだと軽蔑したのだろうか。確かに未婚の女性に相応しい態度ではないし、況してや妹が兄に対して求むべき行為ではないと理解している。第一、私だって普段であればしっかりと拒む……と思う。
でもきっと原因は一つや二つではないのだろう。無自覚に傷付けて怒らせて呆れさせて、とうとう嫌われてしまったのかな。
……ああ、それとも、私が汚いものに見えたのかな?
たった独りで死んだ女が産み落とした子。
何処の誰とも分からない男が父親だという子。
中身が妖精だと言われたところで結局この身体は高潔なあの人には程遠く、本来であれば決して交わる事などない場所で生きる人間のもの。
だから、嫌悪したのだろう。
顔も見たくないくらいに。
……そんなに簡単に手離すのなら最初から捕まえないで欲しかった。
この想いが育つ前に粉々に打ち砕いて欲しかった。
こんなに辛いのなら、恋という名前を、意味を、教えないで欲しかった。
知らなかった。行き先を失った恋心がこんなにも惨めで憐れだなんて、知りたくなんてなかった。
だけどもう遅い。恋の歓びを私はもう知っている。
だって私の心は今もあの人を強く想い慕い求めては、未練がましく泣き叫ぶばかりなのだから。
今更ただの兄妹に戻れと言われても、もう……無理、なのだから。
先に出掛けた妻と娘を追っていそいそと出発した父親から押し付けられた書類に目を通しながら、オルディアスは独り苦悩する。
自分がこれ程までに自制が効かない男だったとは思いもしなかった。
きっかけは何気ない母の一言。
『でも、フィーの性格上、婚前に一線を越えるなんて受け入れ難いのではなくて? ……先に子など以ての外よ』
あの子が十五の誕生日を迎えたその日に完全に自分のものにしてしまおうと考えていた。その無垢な心を一つ残らず手の中に閉じ込めて、あの清廉な身体に証を刻もうと決めていた。当然、夫婦となる前に子を成す可能性も大いにあっただろう。
初めから『いつまで待てば良いのか』が明確であった為、それまで我慢すれば後は思う存分、誰に憚る事もなく愛せるのだ。長らく抑圧されている分、その瞬間が狂おしい程に待ち遠しかった。
だがどうやら母曰く、戸籍上の兄妹関係をきちんと解消し且つ正式に婚姻を結んでからでないと強く拒絶するだろうと。
完全に盲点だったがあの子の性格を考えれば至極尤もだ。だからこそ二人の関係に思い悩んでいるのだから。
その二つの課題に関しては既に動いていたが、叶うのはフィオネッタの誕生日からは一ヶ月以上先の話で、それまで『おあずけ』を食らうのかと悄然とした。それでもあの子は私のもの、だからそれくらい耐えられるのだと高を括っていたのが大間違いだった。自分がどれだけ浅ましく欲深いのか、少しも理解していなかったのだ。
『……おにい、さま……』
何度目かのキスの後、苦しげな呼吸を少し整えてから幼子のような舌足らずさで囁く。それだけでも男を狂わせるには充分なのに、更には抱擁を求めるように両手を広げたではないか。よくもまあこれ程まで無神経に、人が必死に抑え込んでいる劣情を煽ってくれるものだ。おそらく夢か現か曖昧なのだろう、普段とは違う妖しげな熱を瞳の中に揺らめかせ、しかし何かに怯えたように視線を彷徨わせている。
その相反するさまの、なんと蠱惑的な事か。幼い肢体が放つ濃密な色香に溶かされた脳はあっさりと制御を失い、剥き出しになる欲望。
……我ながらよく耐えたものだと妙な感心をする。
幼い頃とはもう違うのに、幼い頃のままの感覚で警戒心もなくぎゅうっと抱きつかれれば尾骨の辺りが逆撫でされたように粟立ち、えも言われぬ愉悦に全身が震えた。身体中の血が沸騰したように熱くなって、本能の赴くままに無我夢中でむしゃぶりついて潰れるまで抱いてしまいたくなったが、瀕死の理性を掻き集めてそんな欲を捩じ伏せた。
こうして一度目はなんとか凌げた。だが次は……無理だ。自信を持って断言出来る。
だから遠ざけた。冷静さを取り戻す必要があったからだ。断じて手離した訳ではない──のだが、何故だろう嫌な予感がする。彼女はとにかく思い込みが激しく、初対面の相手に手酷く罵られた影響からか未だ自分を凡庸だと頑なに信じていて、どれだけ周りがその麗容を褒め称えても一向に納得しない。なものだから見当違い甚だしい発想に至っているのではないだろうかと心配で仕方ない。
元々、誕生日前には別荘に行かせるつもりであった。『妖精王の娘』としての本来の色彩を取り戻すあの子が他者の好奇の視線に押し潰されないように──などと言えば聞こえは良いが、こんなものはただの歪んだ独占欲だ、自覚はしている。誰にも見せたくない、自分が一番最初に見て褒めて触れて愛を囁いて、祝福のキスを贈りたい。喜んで欲しい。笑って欲しい。
本当であれば自分も旅行に同行する予定だった。だが自らを制せない現状では側にいるのは恐ろしい。
だから誠に遺憾千万ではあるがその役目を両親に譲った。あの二人は何があってもフィオネッタへの愛情が揺らがない、そこだけは信頼している。
とは言え不安は尽きない。二人揃って肝心要なところが抜けているし。そういうところはフィオネッタも同じで、あの三人は本当に親子なのだなとつくづく思うのだった。




