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36『仲良し夫婦と愛娘』


男の広い胸に預けた華奢な身体をふるると震わせて、彼女は長い睫毛をそっと伏せた。陰が落ちた瞳には妖しげな熱が灯り、淡く染まる頬と薄く開いた唇が言葉では言い表せない程の艶を醸し出す。愛を知り、惑い悩み苦しむ女だけが放つ色を目の当たりにし、ヴァルは己の身を乱暴に掻きむしりたい衝動に駆られた。


……ああ、そうか、欲しかったのはこれだ。


自嘲が唇から転がり落ちる。

本当、今更だ。最初(はな)っから焦がれていたんだ、欲していたんだ。

一目見て心奪われたあの、混ざりっけのない魔力を凝縮したような黄金の瞳。自分の中の醜悪な劣等感など悉く吹き飛ばす鮮烈な輝きに、瞬きするよりも早く堕ちたんだ。


あの瞳に、映りたかった。

その心に、残りたかった。


「はは……結構キツいもんだ……」


側にいると決めたのは自分だった。側で護りたいと。持ち掛けたのはあの腹黒で、願ってもない申し出だったから二つ返事で引き受けた。

だけどそれは、惚れた女が自分以外の男──自分が逆立ちしても勝てないあの男のものになるのを間近で見せ付けられて、羨望し嫉妬に狂うという事。

どう足掻いても自分のものにはならないのに、それでも側を離れられない。側で見ていたいと願う。

触れてしまったから、その髪に、その頬に。


「ホント厄介だよなぁ、……初恋ってヤツは」


痛む胸を押さえてぽつり呟けば、部屋の隅に控える侍女二人が鼻で笑ったような気配がした。全く(ひで)ぇ連中だ。





テーブルの上に置かれた招待状から外した視線を落とし、フィオネッタはひっそりと嘆息した。

「フィー、どうかしたのかい?」

そう父に問われて、フィオネッタは慌てて顔を上げた。

「あの、いえ、すみません。なんでもないのです」

「御披露目会の事でしょう? 憂鬱よね、わたくしもそうだったもの」

母の目は誤魔化せないようだ、あっさりと見破られた上に同意までされてしまった。

「フィーはああいった華美なものは得手ではないからね。そんな君に参加を強いてしまうのは本当に申し訳ないのだけれど、一応首席公爵家としては娘が不参加──という訳にはいかないんだ。……ごめんね」

更に父に頭を下げられてしまい、フィオネッタは慌てふためく。

「お、お父様、お顔を上げて下さいませ。私、お二人のお顔に泥を塗らないよう、一生懸命頑張りますから」

「そうですわよ、あなた。せっかく久し振りに親子揃って水入らずで食事出来るのですから、そのような辛気臭いお顔はなさらないで。それとね、フィー。わたくし達の面子などどうだって良い事です。ですからそんなつまらない事に気を取られるのはお止めなさい」

バッサリと切り捨てられて、奮い立たせた気持ちを折られたように感じ悄悄(しょうしょう)と項垂れるフィオネッタだが、それはとんだ思い違いである。

「わたくし達が望むのは貴女の幸せよ。思い悩む暇などないくらいに楽しみなさい。どうせこの先、華やかな舞台は何度も経験する事になるのだし──要は慣れよ、慣れ」

人生の先達として、娘を愛する母として、そんなものは杞憂だとばかりに軽やかに笑い飛ばし、エメンダは娘の髪を優しく撫でた。その手に瞳に、フィオネッタの胸には暖かいものがじんわりと広がっていく。

「まあ、ルディの事だからあれやこれや理由付けては参加させまいとするのでしょうけれど、決めるのは貴女。成人すれば当然責任が付いて回るわ、でも貴女は貴女らしくいればそれで良いの。きちんと努力をして貴族令嬢としての素養を完璧に身に付けたのですもの、堂々としていなさい。貴女はわたくしの自慢の娘、どこに出したって恥ずかしくなんてないのよ、フィー」

茶目っ気たっぷりにウィンクなどすれば、とても二児の母には見えない可憐さにフィオネッタは言葉もなく見惚れてしまうのだ。

頬を染め、笑みを交わし見つめ合う母娘だったが、無粋にもその間に割って入る男が。

「……なんですの? あなた」

「お父様? どうかなさいましたか?」

「エメンダばかり狡いよ。僕だってフィーを愛しているんだからね? それでなくとも仕事に忙殺されて一緒に食事するのも儘ならないのに、今日くらい僕がフィーを独占したってバチは当たらないと思うんだ」

言うが早いか、カインシェスがフィオネッタに覆い被さってきた。オルディアスよりは少しばかり小柄だとはいえ、小さなフィオネッタからすれば充分に立派な体格の父。ましてや父と兄は雰囲気や香りまでよく似ていて、優しく抱き締められればフィオネッタはあっさりと抵抗を放棄してしまうのである。それを熟知している彼はここぞとばかりに最愛の娘に頬擦りしまくる。

「ああ、可愛いなぁ。僕ももっとたくさん君を甘やかしたいのに。……仕事辞めようかなぁ……あの国王(バカ)のフォローもいい加減面倒になってきたしなぁ……」

などと不穏な発言の夫に、妻エメンダは──

「あら、まあ。では憧れの隠居生活が始まるのかしら? 季節毎に移住するのも悪くないわね。夏は北に、冬は南にある別荘でのんびり過ごせるだなんて素敵だわ」

と意外と乗り気で、フィオネッタは内心ハラハラである。

「そうだわ、ねえ、フィーはもうすぐ期末試験があるでしょう? 試験が終わったら少し早めの冬休みにして、御披露目会が催されるまでの間、三人で旅行に行きませんこと?」

「良いねぇ! 家の事はルディに任せておけば心配いらないし、僕も久し振りに温泉でも入ってのんびりしたいな」

顔を輝かせる妻の突拍子もない提案に笑顔の花を咲かせる夫。完全に面倒事を息子に丸投げする気である。そして唖然とする娘。だってまだ授業はあるのに……と。


エメンダ・モンドレイ(旧姓ラングス)は思い切りの良い女性である。枠に嵌まったご令嬢などではなく、折り合いの悪い父親に反発しては貴族子女としての嗜みを片っ端から拒絶し、幼い頃より家を飛び出す計画を練っていたような娘だった。紆余曲折を経て今の生活へと落ち着いたが、たまに見せるこういった言動に杓子定規にしか物事を考えられないフィオネッタは仰天させられるばかりだ。


「あ、あの、お父様、お母様。私、お二人にお訊きしたい事があるのです」

大きく脱線し嬉々として暴走を始めた両親に待ったを掛けるフィオネッタ。せっかく盛り上っているところ申し訳ないが、忙しい両親とこうして向き合って話せる機会もそうない。そう意を決して切り出したものの、「どうしたの?」と問い掛ける不安げな蒼と紅の瞳に一瞬口ごもる。だが一つ息を吐き出して心を落ち着かせると、なけなしの勇気を振り絞った。

「あの、……リリーナ様、って……どのような方なのですか?」



フィオネッタの胸にあの日からずっと留まる思い。

時間が経つにつれ思い出すあの日の会話の端々から、自分以外の皆が現状に納得し満足しているのだと理解はした。「可哀想」だとか「気の毒」だとか上から目線での同情など彼女に対して失礼極まりない事も分かっている。

だからこれは、きっと、純然たる興味。気になって仕方なくて、ただ、彼女を知りたいと強く思った。


だけどそれは、『公爵夫妻の娘』に居座り続ける覚悟がまだ出来ていない証拠なのかもしれない。


「どのような子なのか、かい?」

「はい。お父様達が私を慮って話題にせずにいて下さった事は重々承知しております。ですが私は……」

また目を伏せる娘に、夫妻は顔を見合わせた。因みに妻に追い払われたカインシェスは自分の席に戻っている。


別に話題にしなかったのは娘に気を使ったのではなく、ただ単に思い出しもしなかっただけ──なのだが、それを正直に話して娘に冷たい人達だと嫌われたくない二人は、心優しい彼女の愛らしい思い込みに便乗する事を決めた。


「そうだね……、初めて逢った頃のお母様に似ていたね」

「……わたくし、あんなに口が達者な小娘でしたかしら?」

夫の言葉に妻は僅かに顔を顰めた。どうやらリリーナに対して思うところがあるようだ。

「なんというのかしら……小さいルディと話しているようだったわ。可愛げというものが全くなかったの」

「ああ……確かにそんな感じだったねぇ。綺麗な顔をしているのだけれどつっけんどんで、愛想笑いの一つもしなかったもんね」

「実の親とはいえ初対面の大人相手に交渉を吹っ掛けるだなんて、とっても良い性根だと感心したわ」


「え、交渉……ですか?」


「ええ、そうよ。今更娘だと名乗り出て公爵家に迷惑を掛けるつもりはないと言って、その代わり孤児院への寄付金と王立学園への入学許可を求めてきたわ。それ以外は何もいらないから、面倒な手続きなどはお願いしますって」

「え? あの、……リリーナ様は学園に通われていらっしゃるのですか?」

驚きの声を上げるフィオネッタに夫妻は再び視線を交わす。

「あら、やだ。言っていなかったかしら?」

「いや、僕もてっきりルディが伝えているものだとばかり思っていたから」

「そんな……私、何も知らなくて……ご挨拶もまともに出来ていないだなんて……」

フィオネッタの顔はみるみるうちに青褪める。慌てた様子で、側で肩を抱いて励ます母の声もまるで届いていないよう。だけど、そんな少女の耳を心地好く慰めるのは、しなやかで優しく響く低音。

「そんな事気にしなくても大丈夫だよ、フィー。どうせ彼女とはすぐに会う事になるからね」

「……お父様? それは一体、どういう……?」


そう訊ねたものの、父の優美な笑顔に兄と同じものを感じ取ってフィオネッタはそれ以上を諦めた。これは答えてくれないやつだ、と。



彼女がその答えを知るのは、もう少し後の話。




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