33『彼にとっての彼女とは』
ザビネを乗せた馬車が門をくぐる様子を応接室の窓から見ていたオルディアスの背後、僅かに気配が揺れた。
「戻ったか」
「言われた通り納品してきたぞ。ところで今のオッサン誰だ? なんか腹黒そうだったなぁ」
どうやらヴァルは人を見る目があるようだ。……野性の勘というやつだろうか?
「……こちらに戻ったという事は例の話、承諾するのだな」
「ああ、まあ就職先としては優良だからな。給料も良いし住環境も整ってる。食いっぱぐれる事もねぇし、何より惚れた女を影に日向に護るってのは誇らしいっつうか最高だろ? ──って、だからそうやって殺す気満々の目は止めろって!!」
オルディアスから放たれる膨大な『殺意』に青褪めるヴァルは慌てて後退り、(その魔力の前では全く無意味だが)充分に距離を取ってから歯を剥いて唸った。
「……こちらからの提案だ、お前の要望には出来得る限り添おう。だが一つだけ──フィーには決してお前の存在を気取られるな」
「分かってるって。俺だって命は惜しいからな」
降参とばかりに両手のひらを見せて、ヴァルは肩を竦めた。
……本当に狭量な男だな、と心の底から思ったが賢明にも口にはしなかった。
これは恐ろしい男だからだ。
サラーティカに協力していたのは王家への反旗を窺わせていた子爵家だった。
フィオネッタを売り飛ばす契約をしていた娼館は非道な人身売買の温床だった。
そしてフィオネッタに対して壊れた愛着を見せていたサラーティカ・ラングス。
たった数日で、繋がっていたそれら全てを纏めて排除した。
彼は直接的には何もしていない。ただ相手の出方を読み、待って、破滅へとそっと誘導しただけ。その結果、
造反の証拠を掴み邪魔な貴族を潰し、反王家への不正な金の流れを断って、王家に貸しを作った。非合法の娼館を壊滅させ、頻発する少女や女性の誘拐に端を発した両国間の緊張を緩和させる事で、隣国にも恩を売れた。更に頭を挿げ替え関係者を一新する事で、国から『合法』との認定を与えられ万々歳の娼館との結び付きも手に入れた。
言葉にすると簡単にも思えるが、やった事の内容はえげつない。
そして何より、フィオネッタに降り掛かる災いを完膚なきまでに叩き潰したのだ。全てはその為。その為ならば、彼女に知られたなら恨まれ憎まれる手段であろうと躊躇なく使う。そのいっそ潔いまでに一途で重い愛が、ヴァルにはこの上なく恐ろしい。
その恐ろしい男にあれだけ執拗に念を押されたにも拘わらず、割とすぐにバレた。だがヴァルは声を大にして言いたいのだ、『悪いのは俺じゃねえ!!』と。
「……え? ヴァル、さん?」
「お前なぁ……マジで馬鹿なのか?」
腕の中で少女はぱちぱちと目を瞬かせた。右腕に彼女を抱えて左腕一本で木にぶら下がっているのだから、そこに掛かる負担が半端ではない。
「何やってんだよ!? 死ぬ気かよ!?」
頭に来て怒鳴り付けてしまったが、泣きはしないだろうか。いや、……今更か?
公爵家の庭に鎮座する大樹の太い枝に腰を下ろして、今日も今日とてヴァルは影に日向にとフィオネッタを見守っていた。
フィオネッタの部屋は三階のとても陽当たりの良い部屋で、南向きの大きな硝子扉からバルコニーに出れば職人が丹精込めて作り上げた美しい庭園を一望する事が出来る。
すっかり秋めいて穏やかで暖かい日だったが、これから訪れる冬の厳しさを思わせる風が時折吹いては、真っ白なレースのカーテンを弄んでいた。その時──
「ちょっ、何してんだあの馬鹿!?」
思わずヴァルは叫んだ。焦った様子でバルコニーに飛び出してきたフィオネッタが、手摺から大きく身を乗り出して何かを掴もうと必死に手を伸ばしていたからだ。
だが頑張ってつま先立ちしたところで所詮は深窓の令嬢、その貧相な足腰では身体を支えきれない。
「なんで誰もいねぇんだよ、『山猫』は何やってる!?」
いつもなら側に控えているチェインの姿が今に限って見当たらない。そもそもフィオネッタを一人にしてはいけない。これは彼女を観察し始めてすぐに気付いた事だが、基本的に後先考えない行動が多いので危なっかしくて仕方ないのだ。その殆どが小さな火傷とか擦り傷とかそういったものだが、いやいや、嫁入り前のご令嬢がそれは駄目だろ?
「きゃあっ!!」
フィオネッタが悲鳴を上げた。ほら、案の定だ。手を滑らせたのか、ぐらりと揺れた身体が大きく前傾した。
ここは三階だ、落ちたら無事では済まない。
落ちたら、死ん──
「ああっ、くそったれの馬鹿女がっ!!」
慄然とした。全身が総毛立った。堪らず悪態を吐いて、ヴァルは跳んだ。
そして今に至る訳だが。
「なんでこんな馬鹿な事したんだ!? お前ホントに馬鹿だろ!?」
頭ごなしに責めればさすがにフィオネッタも軽率な行動を恥じたようだ。が、生意気にも反論を試みてきやがった。
「でも、お姉様に頂いたお手本が風で飛ばされてしまって、だから取ろうと思って」
「お姉様?」
こいつに姉なんぞいたか? いない筈だが……まさか義理の姉になるような女でもいるのだろうか? いや、有り得ないだろ。異常なまでにこいつに執着しておいて別の女と結婚するだなんて、あの男に限って有り得ない。
だけど貴族なんてそんなもんだろ? とも思う。
違う女と『貴族の義務』として結婚しておいて、じゃあこいつはどうするのか? 一生手元に縛り付けておくつもりなのか?
だったら俺がこのまま連れて逃げたって……
「お姉様はとても手先が器用でいらして、刺繍もレース編みも本当に本当にお上手なのです。ヴィーお姉様は私の憧れなのです」
「お前、ちょっと黙っとけ」
……俺、今何を考えた?
こいつにちょっかいを出そうとした連中の無惨な末路を忘れたのかよ? 足元に転がった屍を目の当たりにしたばかりだろうが。
ああなりたくないのなら余計な事は考えるな。
俺は頭を振って思考を切り替えた。
正直なところ左腕の限界が近い。あの男のように魔力を自在に操れるのならフィオネッタを抱えたまま飛び降りればいい。だが俺は──
「あっ! ヴァルさん、動かないで下さいね!!」
「は? お、おい、何やって、」
叫ぶなり、フィオネッタが俺の身体をよじ登り始めた。
「馬鹿!! 何やってんだ止めろ!!」
怒鳴っても、華奢な身体はじわりじわりと上へと進む。俺が右手でその背を支えているとはいえ無茶が過ぎる。
……こいつ、暫く会わなかった間に随分と図太くなりやがった。それとも馬鹿に磨きが掛かっただけか? 初めて会った時は青褪めて子猫みたいに震えていたくせに。ああ、でも毛を逆立てて、一丁前に威嚇してたっけな。
目線が同じ高さになる位置にまでなんとか辿り着くと、フィオネッタは目一杯手を伸ばした。
むにゅっ、と音がしたような気が。
どうやらお目当ては俺の少し後方にあるらしい。だから思いっきり身体を押し付けるように密着してきた訳だが、その……これはヤバいやつだ。なんでそうも警戒心がないんだよ、お前は!!
こいつは、はっきり言って餓鬼だ。同年代の女に比べても凹はともかく凸は控え目で、何より精神年齢がやたらと低いお子ちゃまだ。
だけど、なんでだ? なんで触れる所全部がこんなに柔らかくて暖かいんだ? それに身体中どこもかしこも甘く香って、頭の奥がじんじんと痺れやがる。胸の中には不思議な熱が灯って、痒いような痛いような訳の分かんねぇもどかしさが渦巻くんだ。
どんな女も──初めて女を抱いた時にだって、こんな高揚感にも似た感情は得られなかったのに。
「ん……もう……ちょっと、で──取れた!! ああ、有り難うヴァルさん!!」
そんな俺には全く気付かないフィオネッタはどうやら目的を達したらしく、大切そうに純白のハンカチを胸に抱えていた。本当に嬉しそうに頬を染め瞳を潤ませて笑まれたならば、俺のなけなしの理性なんぞ呆気なく崩壊してしまう。
ああ……確かに命は惜しい。それは本当だ。
だけど今は、何よりもこいつが欲しい。
その淡く色付く唇を奪って貪りたい。
そのしなやかな肢体に一生消せない穢れを残したい。
それが叶うなら、あの男に殺されたって構やしない──
その時、俺の頭上で鳴り響いた絶望の鐘の音。そう、先に限界を迎えたのは掴んでいた枝だった。お陰で我に返ったが、それどころじゃねぇよな。
「マジ、かよ……」
みしみしと軋む音が次第に大きくなっていき、手に伝わる振動が一際激しくなった瞬間。
「くそっ!! ……こいつだけでも」
奇妙な浮遊感を感じながら落下する中で、俺は用を成さなくなった枝を投げ捨ててフィオネッタを強く抱き締めた。身体を回転させれば、俺の意図に気付いたフィオネッタが腕の中で悲鳴を上げた。
「ヴァルさん!? 駄目、駄目です!!」
うるさい、頼むから黙ってろ。
そう言う余裕もなく、俺はただ祈った。
俺はまだ魔力があるだけ耐久力が高いが、こいつはそうはいかねぇ。だから落下の衝撃は全部俺が引き受けてやる。二階よりは高いが三階よりは低いところからの落下だ、運が良けりゃ骨折程度で済むだろう。
だからそんなにじたばた暴れんなって。……泣くなって。大袈裟なんだよ、お前は。
ああ、こんな事なら魔力の扱い方くらい覚えとくべきだったな。
……ホント、今更だ。
なんて自嘲する俺はすっかり失念していたんだ。
こいつが『ごくごく普通』の公爵令嬢、なんかじゃねぇって事を──




