32『狸一族』
ひっく、ひっく。
しゃくりあげる音が虚しく霧散する。
……誰? 誰か泣いているの?
「なんで泣いてるんだ?」
「──え?」
唐突に問われて驚く私は自分の両手のひらへと視線を落とした。涙で濡れていて、そこで初めて、座り込んで泣いていたのは自分なのだと気付いた。
「どうした?」
重ねて問われたので声のした方へと顔を上げれば、私は今度こそ驚きに声を失った。
なんて美しい人なのか。いつの間にか私の目の前に立っていたのは長身の……多分、男性。
太陽よりも強く眩しく輝く黄金の髪と同じ色の瞳。
冷酷と紙一重の涼やかな美貌はどこか兄を彷彿とさせる。
誰だろう? こんな美しい人、一度でも会っていれば忘れる筈ないけれど。
でも、この瞳……知っている。
絶対に、知っている。
「……サラが、死んでしまったの……」
昨日の父の言葉が頭の中で繰り返される。
『捜索隊が崖下に転落していた馬車を発見して』
『中から女性のものと思われる遺体が見付かって』
『転落の際の衝撃で判別が付かない程に顔を損傷していて』
『全身に複数の骨折の跡が見られた事から馬車ごと転落したのだろう』
『血と泥に塗れた着衣と髪から本人だと断定された』
「なんだ、そんな事で泣いてたのか?」
「っ!! 『そんな事』じゃないですっ!!」
「命あるものは皆等しく死ぬ。当然の理だ」
「でも!! だけど、こんなの……サラが可哀想……」
罪を重ねて死んだ彼女は、死んで尚、罪人として扱われる。誰にも悼まれず弔われず、誰に送られる事もなく、せめてあの美しかった顔を元通りにして欲しかったけれどそれも叶わず、その日の内に炎と共に空へ昇って行ってしまった。
「独りで逝ってしまったサラも、遺された叔父様も……可哀想……」
「だったらお前が祈ってやればいいだろう」
その言葉に私は力なく頭を横に振る。
「喪に服したいとお願いしても、お父様もお兄様も決して許可して下さらなかったのです。お父様もお兄様も私の我が儘ならどんな事でも笑って叶えて下さるのに、私のお願いは何一つ聞いては下さらないのです……」
喪に服すとなれば少なくとも一年間は公の場に出られなくなる。数ヶ月後に成人し御披露目会を控える私に、従姉妹であるサラーティカ・ラングスだったならまだしも、ただの罪人となった少女の為にそのような事をさせる訳にはいかないのだと二人に説き伏せられてしまった。
「別に形に拘る必要はない」
俯き、唇を強く噛む私に、その人は事も無げに言った。私の前に蹲み込んで、私の目をじっと見て、優しく言葉を編んだ。
「お前が、その心の内で、悼み弔い、……忘れずにいてやればそれでいいんじゃないか」
目の前がチカチカする。
小さな小さな星達が、風に乗って踊っているように煌めいた。
「お前が覚えていてやればいい。時折、思い出してやればいい。懐かしんで、少し淋しく思って、笑ってやればそれでいい」
そう言って笑う。物凄く美しい人がまるで子供みたいに白い歯を見せて。
そして私の頭を撫でてくれた優しいその手を、やっぱり私は知っている気がする。
顔も、背の高さも、髪の色も声も、全然違うけれど──
「……ウェルシー……さん?」
勝手に動いた唇から滑り落ちた名前に、彼は大変驚いた様子で目を瞠った。だけどすぐに顔をふにゃっと緩めると、
「なんだよ、くっそー、なんで分かるんだよ」
と何故だか嬉しそう。それはいつもお父様が私に向けるような甘くて優しくて心が暖かくなる微笑で、ぶっきらぼうな物言いとはまるでちぐはぐで、なんだか私まで笑ってしまう。
「じゃあ、お前に一つ良い事を教えてやるよ。そのお前の従姉妹、魂はまだ『園』には帰っていない」
……え? それって、どういう……
「妖精の園は魂の始発と終着の地。全ての命はそこから旅立ちそこへと帰る。──さあ、もう行け。それと、あんま泣くなよ? あいつが心配してうるさいんだ。お前は妖精達の宝物なんだから、笑え。幸せになれ。……フィリア、俺達の大切な娘、俺達の光……どうか誰よりも満ち足りた人生を。──ってどうせ、起きたら全部忘れてるだろうけど」
……ああ、ウェルシーさんが何か言っているのに、どんどん声が遠くなっていく。視界がぼやけて、身体がふわふわと宙に浮いているみたい。
優しい手がまた頭を撫でた。
ふわふわ、ふわふわ、する。
胸に灯った小さな光が暖かくて、なのにとても切なくて物悲しくて、また涙が頬を伝い落ちた。
「……フィー、泣くな……」
どうしてそんなに苦しそうなのだろう?
「お兄様……、私は大丈夫です。ウェルシーさんが教えて下さったの……、サラとは……きっと……また……会え……」
ベッドの脇に腰掛けて私を見下ろす兄に、どうかな? ちゃんと笑えただろうか。
昨日はたくさん泣いて、困らせてしまったから、
「ごめん……さい……」
でもそれが精一杯。後はもう眠くて仕方なくて、私の上瞼は下がる一方。
「謝るな、お前に謝られるのは……堪える。分かったから、もうお休み、フィオネッタ」
いつも私の胸を騒がせて落ち着きなくさせるお兄様の香り、優しい声と手。頬に落とされる口付け。それらに包まれて私は深く深く眠る。身に余る程の幸福に包まれて。
「……妖精王め、余計な事を。フィーを慰めるのも私の役目だと言うのに」
小さな舌打ちと、そんなような呟きが聞こえた気がしたけれど……ああ、何よりも勝ったのは眠気。
あの日から一週間が経った。
妖精王との夢でのやりとりの記憶はないようだが、フィオネッタの気鬱も少しずつ晴れてきた様子で、休まずに学園へと通っている。
珍しく穏やかな休日を過ごしていたオルディアスに来客があったのは昼食後。
「では確かに承りました」
五十搦みの、やや横幅の豊かな男はいかにも人の好さそうな微笑を浮かべて頷いた。
「後はドレスですが……こちらなどは如何でしょうか? ご令嬢方に大変人気の高いデザイナーの最新作です」
続いて渡されたデザイン画に視線を落とすオルディアスを目の端で確認すると、男は胡散臭さと紙一重の笑みを殊更に深くする。
「お嬢様には……ああ、いえ、遠からず若奥様になられますかな? 手前どもの娘を大層気に入って頂けているご様子、誠に感謝の念に堪えません。賜りました若様とのご縁も是非これまで以上に強く長いものになりますようにと、我々も精進致す所存です」
腹黒狸親父め……
そう毒突けど、そのような腹の内はおくびにも出さず、オルディアスは父親譲りの鉄壁の無表情で淡々と応える。
「ご息女には妹も、幼い時分より随分と心を許しているようです。学園への進学も彼女の存在が大いに影響したようだ──少々、妬けてしまいますが」
社交辞令などではなく本心だが、目の前のにこやかな男にはどう伝わっているのか。
ザビネ・チェスカーノ。
国内最大の商団を取り纏めるチェスカーノ伯爵家当主だが、彼は根っからの商売人である。娘と同じ薄い紫の瞳が柔和なのは表向きだけ、その本質は強かで計算高く冷徹。腹の探り合いが得意ではない(と自称する)オルディアスとは相性が良くない。
「……これなど、あの子に良く似合う」
「成る程、さすが御目が高くていらっしゃる。ではそのように。後はお色を──」
腹の内はどうであれ、商売は商売。ザビネは手際よく詳細を詰めていく。
「そう言えば、ご存知でしょうか?」
商談も終盤、不意にザビネが切り出した。
「隣国にある最高級の娼館なのですが、つい先日経営方針が変わりましてね。大規模な人事異動が行われたそうなのです」
「そうですか。生憎と私には縁のないお話ですが」
「ははは、いや失礼、それはごもっともですな。他愛のない世間話だと思って聞き流されて結構です。まあ色々と悪い噂も多かったですから当然なのですがね……その娼館に新しく売られてきた少女というのが非常に興味深いものでして」
オルディアスはなんの反応も示さない。
「些か毛色が違う……と言いますか、まあよくある貧しい身形の娘で、髪は乱暴に切り落とされていましてね。どうやら記憶もないらしい。あまりに汚いので洗ってやればなんとまあ、驚く程の美貌だったそうです。ただ残念ながら目に大きな裂傷があって売り物としては少々、価値が下がるそうですが」
一通り喋り終えて、ザビネはオルディアスを具に観察をした。慎重に挙動を探るが青年には一切変化がない。
不自然なくらいに自然なのである。
「……お若いが大した胆力をお持ちだ。貴族でなければ是非うちの婿に迎えたいものだが」
「何か仰られたか?」
「いえいえ、ただの独り言です。では採寸は今週末に」
そう告げて立ち上がったザビネは意味ありげにオルディアスを見て、
「ああ、従妹様の事、大変お悔やみ申し上げます。お嬢様にもどうかお気を落とさずにとお伝え下さいませ」
「……ご配慮痛み入る。妹にも伝えておきましょう」
「ではわたくしはこれで」
穏やかな笑みを貼り付けたまま恭しく頭を下げてから、ザビネは応接室を出て行った。
……何処まで把握しているのかと、オルディアスは内心舌を巻いた。
隣国の娼館まで往復で一週間は掛かるのだ。どうやってこれ程までに早く正確な情報を得ているというのだろうか。
『商売人にとって情報は命の次に大切ですからね~』
と豪語する妹の親友の姿が脳裏に浮かび、オルディアスはそっと眉間を揉み解した。
「狸一族、油断ならぬ」
と一言、呟いて。




