30『ラングス家の人々』
軽やかな振動が優しく身体を揺さぶって、なんとも心地好い。
加えて、トクン、トクンと規則正しくリズムを刻む音が耳から身体の奥へと広がって、私の心をより穏やかなものにしてくれる。
それにとても暖かくて、なんだかとても良い香り。
まだ微睡みの中にいる私は夢心地で、私を包み込んでくれている何かに夢中で頬擦りをしている。
ああ、幸せ……だなんて口元を緩ませながら、暢気にその暖かさを堪能していたのだ。
「……生殺しだな……」
という一言とため息で我に返るまでは。
「はうっ!? ──お、お兄様!?」
一瞬で目が醒めた。慌てて顔を上げれば、思わずうっとりと見惚れる程の鮮やかな笑みを浮かべるお兄様が。
え……私、お兄様にしがみついて眠っていたの? うわ、シャツの皺が凄い。涎とか垂らしてないだろうか……? と言うか、そもそもこれは一体どういう状況?
馬車の中なのは理解した。毎日の通園に使っている馬車で、馭者はマリウスか彼の姉のドミナのどちらか。私が酔わないようにといつも丁寧な操縦を心掛けてくれていて、本当に感謝しています。
それはいい。
問題はこの体勢である。
「ええと……、お兄様、降ろして下さいませ」
何故に膝の上? しかも横抱きだし。向かいの座席にでも適当に置いといてくれれば良かったのに……
いくら寝惚けていたとは言え、シャツを強く握り締めて胸に顔を埋めて(しかも頬擦りまでして)、幼子のように甘えていただなんて。
恥ずかしい、これは恥ずかし過ぎる。悶絶ものだ。
「もう少しで家に着く。じっとしていろ」
あぁ……、この様子ではお願いは聞き入れては貰えないな。機嫌が悪い訳ではなさそうだけど……
「! お兄様、サラは──サラーティカはどうなったのですか!?」
そうだ、そんな事より何より私が気に掛けるべきは従姉妹の事。
先生は王太子殿下だった。
私も、当然サラーティカも知らなかった。だけど『知らなかった』で済む話ではない。
王族への術の行使は大罪だ、不軌と捉えられたなら死罪は免れない。
「今は邸宅にいる。侯爵の嘆願で修道院への送致までに三日間の猶予が与えられた。監視が付いているから実質的には自室に監禁状態だがな」
修道院だの監視だの、私が気を失っている間に随分と話は進んでしまったようだ……だけどそれより、
「お兄様、あの」
「駄目だ。そのような事は認められん」
まだ何も言っていないのに。どうして人の心情を正確に読んでは、そうやって先んじてそれを封じるのか。
「お前が会ってどうなる? 中途半端な同情で下手に刺激して、あの女がまたお前に何かしようとしたら? そうなれば今度こそ断頭台へと上る事になるのだぞ」
冷淡に言い放たれて私は反論の言葉を呑み込んだ。……その通りだ、全面的に兄が正しい。それは分かっている。それでも私は彼女に会いたい。
虫が知らせる、のだろうか? 今、会わなくては二度と彼女に会えない──そんな気がして仕方がない。
それに少し気に掛かる。兄の言葉に垣間見えたほんの僅かな違和感。
何が、と言葉にするのは難しいけれど、殆どの人は気付かない程度の、だけど確かに感じられる違和感。確証なんて何もない……でも。
「私への害意で罪が重くなるなど考えられませんが……ですがお兄様は、その方が彼女にとってはまだ幸いであるだろう──そうお考えでいらっしゃいますか?」
膝に乗ったまま見上げて睨み付ける。なんとも格好が付かないがこの際そんなものはどうだっていい。私はただ答えを待つ。
「……存外に聡い、か。成る程、悔しいがさすがは父上。ご自分の娘を正しく理解されている」
無言での睨み合い(ほぼ私の一方的なもの)だったが先に降参したのは兄。息を吐き小さく何やら呟いた後、一瞬だけ苦く笑った。だがすぐにその美貌を普段通りの冷徹なものに戻す。
「あの女の送られる先はイローニー修道院だ。遅かれ早かれ同じ結末を迎えるという意味でならば、お前の想像通りなのかもしれぬな」
私は息を詰まらせた。
噂の範疇を出ないが、『陸の孤島』と呼ばれるイローニー修道院は大変に恐ろしい所で、真冬には氷点下にもなり死人が出る事もあるし、戒律の厳しさに自ら命を断つ者も少なからずいるという。
そんな所にサラーティカが……
「それと、お前に対する敵意や害意は王族へのそれに等しいものとして扱われる。近日中にも国王陛下がお前の庇護を宣言なさるそうだから──」
サラーティカの事で頭がいっぱいだった私は、かなり重要な兄の話も全く耳に入っていなかった。
「どうして私がそんな場所に行かなければいけないのよ!?」
「自業自得だろ?」
激昂するサラーティカに応える少年の声は驚く程に平淡だった。
「全部お前が仕出かした事だ、お前が責任を取るだけの話じゃないか」
「何よ! どうしてお兄様は私を助けようとはしないのよ!! オルディアスお兄様だったらきっと」
「はあ? お前まだそんな夢見てるのかよ? その『オルディアスお兄様』が一番お前の極刑を望んでるのに。第一、どうして僕がお前の尻拭いなんてしなくちゃいけないんだ? お前の所為で僕までフィーに怯えられているんだぞ、とんだ迷惑だ」
吐き捨てられてサラーティカは奥歯を強く噛んだ。眦を吊り上げ、二つ上の兄を睨み付ける。
「……サラーティカ、君は自身の罪を償わなくてはならないんだ。オルディアスはその機会を与えてくれたのだよ」
だが、その言葉には応えず今にもアインベイクに噛み付きかねない娘の勢いに、エリオンは苦い思いを抱く。
「それともう一つ。このような時に伝えるべきか迷ったが、マリーベル……君のお母様とは離縁するよ」
どれだけ気丈な子だとしても両親の離縁は堪えるだろう。泣くだろうか、それとも詰るだろうか。娘の心を思うと胸が痛むエリオンだったが、サラーティカは反応はそのどれとも違っていた。
ああ、そう。
冷めきった声でそう言ったきり見向きもしなかった。些細な感情の揺らぎさえ見えなかった。
自らの不誠実の跳ね返りだとしても、そのさまをまざまざと見せ付けられたエリオンの胸には寂しさと虚しさが渦巻いた。
落ち込む父の手を牽いて部屋を出たアインベイクは、敢えて明るく振る舞う。
「あの女はさ、年甲斐もなく若い役者に入れ込んで家の金にまで手を付けたんだから当然の結果だよ。だから父さんが悩む必要はないよ」
息子に実母を『あの女』呼ばわりさせてしまう己の不甲斐なさに項垂れると、見上げてくる彼と目が合った。
「あのさ、父さん……この家、二人じゃ広いでしょ? だからその……ヴィヴィ姉を呼ばない? で、三人で一緒に暮らさない?」
「!? アイン、君は」
「あ、いや、その……僕が嫌なら出て行くよ? 僕、あの女に似たでしょ、見た目も少ない魔力も……だから父さんだって僕を──」
ぽん、と頭を撫でた大きな手がそれ以上を言わせてくれなかった。恐る恐ると見た父親は紅い瞳を潤ませ、泣くのを我慢するように唇を噛んでいた。
「君が人一倍努力している事を私は知っている。優しくて真面目で……そんな君を誇りに思わない訳がない。君は私の自慢の息子だよ」
その言葉が嬉しくて、同じようにアインベイクも瞳を潤ませた。お互い、照れたように笑う。
「昔からアインはヴィヴィアナと仲が良かったものな」
「うん。僕はあいつらとは違ってヴィヴィ姉の事好きだよ。姉さんはさ、フィーに似てるんだよ。あ、フィーの方が姉さんより断然可愛くて綺麗だけどね!! でもなんて言うか二人共、僕を馬鹿にしないし優しいし」
「……君は本当にフィオネッタが好きなのだね」
「うん、好きだよ。僕だって身の程は弁えてるから手の届く子じゃないのは分かってるけどさ、でもこれからもずっと変わらず好きだよ。この気持ちだけはルディ兄にも絶対に負けてないからね」
臆面もなく言ってのけてから、少年はほんの少し大人びた表情を浮かべる。
「妖精王の愛娘だもんなぁ。最初っからフィーはやっぱり特別だったんだね」
そんな息子がいじらしくて、エリオンはもう一度、彼の頭を撫でた。
ガリガリガリガリ、独りきりの部屋に爪を噛む音だけが響く。
少女は焦っていた。
程なくして自分は極東の修道院へと送られる。そうなれば二度とフィオネッタには会えない。それは死にも勝る恐怖だった。
「どうしよう……このままじゃフィーと引き離されちゃう。そんなの嫌、絶対に嫌」
どうにかしなければ、だがどうすれば良いのか……
その時、ふと彼女は自分の中の違和感に気付く。
え、まさか? でも──
サラーティカ……いや、名を奪われて今はただのサラ。
彼女は嗤う。何故そうなのか、考えもしないで。
絶好の機会と捉え、口角を吊り上げて。
邪悪に嗤う。
その日の夜遅く、侯爵邸から少女は忽然と姿を消した。監視役の兵士と共に──




