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0『閑話・何度でも上書きしよう』


「早く全部思い出して。ねぇフィオネッタ、私達の大切な思い出だよ? だから思い出してね、可愛い私のフィオネッタ」


遠ざかる意識の中、誰かの囁きが耳元を掠めていった。それはまるでお兄様のように私を包み込んでくれる、甘くて優しい声だった。




『兄さんは邪魔ですね』


そう言った彼の顔はとても綺麗で、お母様が読み聞かせてくれた絵本に出てきた王子様みたいにきらきらしていて、私の小さな胸はどきどきでいっぱいになった。


なのにどうしてなのか、とても恐ろしい人だと思った。笑っているのに、全然笑っていない。彼から放たれる不穏な気配を幼いながらに感じ取って、私の身体は凍り付いてたように固まってしまった。


『……だ、だめ』

『何が駄目なの? フィオネッタ。兄さんが私達二人の愛の障害となるのならば排除しなくてはいけないでしょう?』

にっこり笑うと彼は、濃い緑の瞳を甘く細めて軽く首を傾げた。すると柔らかなシャモアの髪が陽の光に照らされて、きらきらと輝いた。

『だめなの。おにいさまにわるいことする人、は……きらい……』

眩しさに圧倒される私の言葉は尻窄(しりすぼ)まりで、ちっぽけな勇気を振り絞ってもガタガタと震える身体を抑えられもしない。彼の言葉の意味も分からないのに、怖くて仕方ないのだ。そしてそれに輪を掛けるのが、


『嫌い……? そうか、フィオネッタは私を嫌いだって言うんだね……』

私の言葉に俯く彼の、子供らしからぬ低く唸るような声。

嫌いだなんて言ったから、怒ったのかな? 傷付けたのかな?

そう思ったら更に気持ちが萎縮した。誰かにそんな事を言ったのは初めてだったから……


でも、そうじゃなかった。


『……ふふ、ふふふ。そうかぁ、フィオネッタは私の事が嫌いなんですね? ああ、君は怒った顔もなんて愛らしいんだろう。可愛いなぁ、本当に可愛い……』

一体どうしてしまったのか?

嫌いと言われて喜ぶ人なんていないと思っていた。だけど顔を上げた彼は満面の笑み。

唖然とする私に、彼は畳み掛ける。


『可愛いフィオネッタ、もっと私を嫌いになって、そしてそれ以上に私を好きになって。君の好きも嫌いも全部私だけのものだよ。ねぇ、フィオネッタ、私は君を愛しているよ。だから君も私を愛して……ね?』

とろとろに蕩けてしまって、元に戻せないのではないかと心配になる顔が、すぐ近くにあった。その顔はそうなってもとても美しく、感極まって涙ぐむその緑の瞳はお母様が持っているどの宝石よりも綺麗に輝いていて、真っ赤に染まった頬とのコントラストが抜群だった。


先程までの恐ろしさも忘れて思わず見惚れてしまった。

だから一瞬、何が起こったのか分からなかった。


ちゅ、と拙い音がして。

軽くくっついた唇が離れた。

ん? と思って目の前の彼を見れば、目が合った。

水面のように波打つ瞳に映り込んだ自分の間抜け顔が、少しだけ面白かったのだけれど。

『あ、固まった』

何故だか嬉しそうに笑うと、彼はまた唇をくっつける。


その行為の持つ意味など幼い私が知る由もないが、どうやらケニーお兄ちゃまの反応を見ればとんでもない事だったみたい。だって大きな目を更に大きく見開いて絶句しているのだから。


『ふふ、これで名実共に君は私のものです。さあ、私と一緒に帰ろう』


『かえる……? どこに?』

『!! アレク、お前まさか契約したのか!? 私の廃太子の手続きが完了するのはまだ先なんだぞ!! お前は馬鹿か!? 馬鹿なのか!?』

ぽかんとする私とは対称的にケニーお兄ちゃまは青褪め、頭を抱えて絶叫した。


訳が分からず困惑する私だったが、リジーお兄ちゃまはどこ吹く風。絵本の王子様(さなが)らに私の前に跪くと、

『フィオネッタ、私だけのお嫁さん……愛しい人』

熱を帯びた言葉と共に、取った私の手に唇を落とそうとした。


その瞬間──


『何をする気だ? アレクセイ』


低い声が地を這った。

腹の奥深くをぎゅうっと掴まれたような、形容し難い不快感が足元から全身へと駆け巡ってぞわぞわと総毛立ち、私は発作的に彼の手を()ね除けて、出来るだけ身を縮めた。


『その子は私のものだと何度も言った筈だ』

『お、落ち着けルディ、取り敢えず落ち着け』

『お前も何故止めない?』

慌てて止めに入ったケニーおにいちゃまだったが、自分に向けられた殺意の矛先に再び青褪める。

『いや……私も自分の弟ながらこれ程までとは思いもしなかったから……』

『ルディ兄さんがどう思われようがフィオネッタは私のお嫁さんになるのです。たった今、契約も済ませました』




この後の事は正直あまり覚えていない。一つだけ確かなのは、私は泣きじゃくり、怯えたのだ、怖くて──怖くて。





「──っ!?」

「フィー、大丈夫か?」

ばくばく、ばくばくと暴れる心臓の音が煩わしくて顔を歪める私に掛けられたのは、聞き慣れた優しい声。

「……お、兄……様」

絞り出した声は情けない事に震えていた。それになんだか頬が冷たい。

泣いていたのだと、再び伝い落ちた涙が教えてくれた。


灯りが消えていて良かった。お兄様には泣き顔を見られたくないから。

「怖い夢でも見たか?」


……夢? そう、何かとても、怖い夢……


暗闇の中、ゆっくりと上体を起こす。支えるように背に添えられた手がとても暖かい。

安堵したのも束の間、向かい合うように寄り添えばすぐ間近に兄の美しい顔。慌てて涙を拭おうと動かした手が自分でも驚く程に重く冷たくて、思うようには動いてくれなくて、私は血の気が引くのを感じた。

「泣かなくても良い」


そんなに私は分かり易いのだろうか? 臆病な胸の内などあっさりと看破する兄は、そっと私の手を取り優しく握り締めた。

「フィー、私がいる。何も恐ろしい事などないだろう?」

甘く笑んでそう囁くと、兄はその整った指を滑らせた。


ぽう、ぽう、ぽう。

小さな音と連鎖して、壁のランプに次々と火が灯った。風のない室内でも揺れる炎の作り出す陰影が兄の美貌を一層引き立てて、私の目を、心を奪う。


なんて美しいのか……


この時の私はきっと夢現(ゆめうつつ)だったのだ。まだ半分以上、夢の中だったのだ。

勿論こんなものは後付けの言い訳だけれども、そうでもなければ絶対にあんな事を言ったりなんてしなかったもの。



「おにいさま……ごめんなさい、ごめんなさい……」


ぽろぽろ、また涙が頬を流れ落ちる。

「何を泣く事がある? 何を謝る必要がある?」

子供みたいに泣く私にくすくす笑って、親指の腹で涙を拭ってくれる。だけど止まらない涙はその指さえ濡らしてしまう。

「ごめんなさい……フィーがわるい子だから、おにいさまをおこらせてしまったの……」


怖かった。本当に怖かった。


怒らせてしまった……嫌われてしまった、そう思ったら身体が芯から凍り付いた。


「……おにいさま、フィーをきらいにならないで……」

「何を馬鹿な事を。お前を嫌う理由など何処を探しても見付かるまい」

「だっておにいさまおこったもの、フィーがわるい子だからおこったもの……」

僅かに兄が目を瞠った。そしてすぐ、小さなため息。

「フィー、では逆に問うが、私がお前の気に食わぬ事をしたとして、お前は私を嫌いになるのか?」


どうしてそんな事を訊くのか?

そんな事、有り得ない。

だってお兄様は私にとってたった一人の、大切な、特別な人なのに。

なのにどうして、そんな事を訊くのか?


思わず叫びそうになった。

馬鹿な事を訊かないでって。

だけど止まらない嗚咽に邪魔されて、私の気持ちは言葉にならない。だからひたすら首を横に振った。涙が零れるのも構わずに。

「私も同じだ、お前を嫌う事など有り得ぬ。お前は私の唯一なのだから」


嬉しい。だけど余計に悲しい。


だって私の初めては全部お兄様が良い。お兄様じゃなきゃ……嫌なの。

……ああ、そうか。私、初めてのキスはお兄様にして欲しかったんだ……


「ならば、上書きすれば良い」

心を読んだような言葉に驚いて見上げた途端、唇を塞がれた。

「あんなものは事故だ、数の内にも入るまい。だがお前がそれ程に気に病むのならば、お前が思い出すのは私の唇だけになるように何度でも上書きしよう」

そう笑って、またキスをする。

「何度も何度でも繰り返して全て塗り替えよう。だから安心おしフィー、お前の全ては私のものだ」

もう一度、唇が重ねられる。


暖かくて柔らかくて甘い唇に触れられる度に、離れるその都度、囁かれる熱い言葉に、凍えていた身が心がゆるりと溶けていく。

涙がまた頬を伝った。だけど今度は嬉し涙だ、だって私、今とても幸せだから。

腕を伸ばし、お兄様にしがみついた。広い背中に手を回せば、彼は身体を揺らして嬉しそうに笑って、優しく抱き締め返してくれた。


「……普段もこれくらい素直であれば良いのだが」

そんな呟きが聞こえたような気がしたけれど、きっと気のせいだ。




繰り返しキスをして、一晩中抱き合って眠った結果どうなったかなど、語るまでもないのだが……敢えて語るとするのならば、朝、目覚めて最初に思ったのは、


「私、爆発しろ!! 吹っ飛んで全部なかった事になってしまえ!!」

であった。



……恥ずかし過ぎて、もう消えてしまいたい。





図書室の騒動から二ヶ月くらい経った頃のお話です。

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