29『憎んでいるのは……』
アレクセイは一つ大きく息を吐き出した。
「……相変わらず兄さんは恐ろしい人だね。それで、一体どの辺りから兄さんの筋書き通りなんですか?」
敢えて軽やかに問うが返事はない。いつもの事だとさして気にした様子もなく軽く肩を竦め、アレクセイは独り言として続ける。
「ふむ、私が『声』を使う事は想定の範囲内だったのかな?」
「妄りに力を使うものではない。お前の軽挙で他者が迷惑を被る事もあるのだと、少しは自覚しろ」
「? は、──あははっ! フィオネッタ以外への興味や関心など塵芥にも劣る兄さんの口から、まさか他人を気遣う言葉が飛び出すとは。それもこれもフィオネッタの好影響ですかね? まるで人間のようだ」
オルディアスの冷血をよく知る彼ならではの揶揄に氷の視線を送るも、痛痒を感じるような男ではない。口端を上げて一頻り笑い転げる。
「ああ、可笑しい。成る程、思ったより登場が遅れたのは近衛兵達が足を引っ張ったからか。あの程度で動けなくなるとは情けないなぁ」
膨大な魔力の束たる『声』の強制力に抗える者などほんの一握りだ。現にサラーティカもヴァルも為す術なく屈したのだから。
「じゃあ、私が彼女にフィオネッタへの想いを相談する事も、それが彼女の優越感をいたく擽った事も、彼女が私に魅了を掛けてフィオネッタにけしかける事まで全て──兄さんの計算通りですか? ああ、それとももっと遡って……サラーティカ・ラングスの嫉妬心を効率よく煽る為にわざわざ目立つ所に『証』を残した辺り、かな?」
すうっと目を眇めるアレクセイが浮かべる笑みは美しい。しかしその瞳に穏やかさはなく、確かに揺れるのは抑え難い怒りにも似た酷く凍えた緑の炎。
それでもそれを苦い塊のように呑み込んで、アレクセイはもう一度息を吐き出した。
「しかし私の事も駒の一つとは……仮にも王太子に対して不敬ですよ? そもそも私が魅了に堕ちてフィオネッタに乱暴するとは考えなかったのですか?」
「……空々しい事を。曲がりなりにも王族のお前が一体どのような術に惑わされると言うのか? 妖精の『祝福』は伊達ではなかろう」
妖精の王が人間に与えるものに、『加護』と『祝福』があるという。程度の大小の差あれど、彼の気紛れによって産まれた瞬間に妖精の『加護』を得る者がいる。あくまでも気が向けば、の話だが。
そんな中、王族に例外なく与えられるのが『祝福』である。強大な妖精の魔力によって強固に護られる王族は、外部からの魔力に対しての耐性が高い。特に精神や肉体に影響を及ぼす類いのものは一切受け付けず、魅了も幻覚も麻痺も毒も、悉く無効化するのである。それでなくともアレクセイは歴代の王族の中でも飛び抜けて魔力が高い。それがより妖精に近いという意味を持つのならば、たかが人間の魔力など取るに足らないのだ。その事だけは、オルディアスも信用している。
それに、万が一にでもそのような事になったならどうなるのか。充分に理解しているアレクセイはわざとらしく首を竦めるのだった。
「それにしても、随分と回りくどい真似をしますね。そんなにフィオネッタが怖いのですか? 『サラーティカ・ラングスの追放』はフィオネッタにとって必要な事だ、それくらいこの子にだって理解出来る筈でしょう?」
「お前はフィーの恐ろしさを知らぬから、そのような軽口が叩けるのだ。この子が一度本気で怒ったなら──二週間は口を利いてはくれないのだぞ!」
一瞬、奇妙な沈黙が図書室を包んだ。アレクセイも呆気に取られているのだろう。
「どんな好物で釣っても全く見向きもしないのだ。何度話し掛けても返事もしないし、この子の好きな猫でもチョコレートでも紅蓮の薔薇でも一向に機嫌を直してはくれない。真っ赤に染めた頬を膨らませて、眦を吊り上げて、それが二週間も続くのだぞ!? 二週間もフィーにそっぽを向かれる辛さがお前に分かるのか!?」
全身を戦慄かせて、心底下らない内容を真剣に語るオルディアスに、さしものアレクセイも言葉を失ったか──と思ったのも束の間。
「そうですか……フィオネッタが本当に怒るとそんな風になるのですか、へぇ……成る程……」
何やら独りぶつぶつと呟いている。どうやら自分に置き換えて想像してみたらしいのだが、完全に妄想の世界に浸っているようだ。陶酔して弛みきった顔で身悶える姿は、はっきり言ってかなり不気味だ。
「ふふふ、ぷりぷり怒って膨らませる頬っぺたも柔らかいのだろうなぁ。あの少し垂れた目尻が上がるのかな、唇をつんと尖らせるのかなぁ? ああ……それはきっと、とても可愛らしいのでしょうね……良いな、見たいな、堪らないな、……私の事ももっとたくさん怒って欲しいなぁ」
まるで大好物を目の前に『待て』と命じられた犬のようにそわそわしながら、口の中いっぱいの唾液を旨そうに飲み干した。
これをフィオネッタが目の当たりにしたならば、
「……気持ち悪い」
と震えながら突っ込んだだろうが、残念ながら未だ大絶賛失神中。
オルディアスはと言えば、本人達は断固否定するだろうが変態同士通じるものがあるらしく、特に気にもならない様子であった。
『はぁ……、図書室だけが唯一、人払いも簡単で、フィオネッタとの逢瀬を堪能出来る場所だったのに、兄さんと彼女のお陰で台無しですよ。この子があんなに無邪気に慕ってくれていたのに……でもまあ、これで私を男として意識してくれるなら良しとしますかね』
別れ際、アレクセイがそんな勘違い発言をしてきて、オルディアスは呆れ返る。
『都合よく事実を歪曲して捏造するな。別にフィーはお前に好意を持ってなどいない』
『やだなぁ兄さん、負け惜しみだなんて大人気ないですよ?』
その余裕の笑みが大層、癇に触る。
『陛下は以前より難色を示されていたではないか』
『いやぁ、妖精王の宣言の効果は絶大ですね! 以前は乗り気ではなかった両陛下も、今では諸手を挙げての大歓迎ですよ』
オルディアスは彼の言葉に内心、盛大に舌打ちする。勝手に決めておいていざ産まれてみれば色がおかしいからと敬遠し、なのにあの夢の直後から一転して迎え入れる気満々だなどと……一体何様のつもりなのか。
いつになくオルディアスは苛立つ。どれだけフィオネッタの心が自分にあると確信していても、必ずしも彼女が自分を選ぶとは限らない──アレクセイに見透かされている通り、どうしたって消せないその焦りが、恐怖が、彼から冷静さを奪う。
出来るならば今すぐにでも、フィオネッタの全てを手に入れたい。
だけどウェルシーが言ったように、彼女が成人するまでは耐えなくてはならない。今のフィオネッタは人間と妖精が中途半端に混ざり合った状態で、迂闊に手が出せない。下手な事をしてどっち付かずになっては目も当てられない。
つい先日までは待てた。寧ろ余裕すらあっただろうか。
だが、妖精王が大勢に見せたあの夢、あれの所為で全ての計画が狂った。
妖精信仰の根強い我が国に於いて、『妖精王の愛娘』たる冠は何物にも勝る。是が非でも手元に置きたい王族は当然として、万事を優位に運びたい他国も取り込もうと躍起になっているのだ。国内の貴族のみならず他国の権力者からも毎日大量に届く求婚の申し込みに、両親もほとほと嫌気が差しているようだ。
いっそのこと、先手を打って婚約をしてしまおうと考えたが、繊細なフィオネッタを思うとそれも躊躇われた。強引な手に出て嫌われてしまったら……と臆病風に吹かれたのも確かだ。
『サラーティカ・ラングスの修道院への送致、決めたのは兄さんですよね? ふふ、酷な事をされますねぇ』
『私にそのような権限がある筈がないだろう。……何故そう思う』
『如何な兄さんと言えど独断で近衛兵は動かせません。陛下か少なくとも宰相の判断を仰ぐ必要があるし、その場で何かしらの駆け引きがあったと考えるのは当然でしょう。陛下は良くも悪くも派手好きですからね、これ幸いとばかりに見せしめと妖精王の機嫌買いを兼ねてサクッと公開断頭を催しますよ。第一、策を巡らせるのは不得手ですから、このような面倒な手は考え付きもしないでしょう』
概ね正解だった。ただ一つ思い違っているのは、
『憎んでいるのは私ではない』
『……ああ、成る程、そうですか。あはは、いや、自業自得とは言え気の毒だなぁ』
つゆ程にも思っていないだろうに。喉の奥を震わせて低く笑うアレクセイはオルディアスの白眼にも涼しい顔。
『あの黒鼠はなかなかに執念深そうですからね、くく、あはは、大変そうだ』
目尻の涙を指先で拭い、愉しそうに笑う。いつの間にか姿を消していたその男が伏していた場所を、視界の隅に捉えながら。




