27『私の、初恋?』
なんとも気まずい空気が漂う。
どうやら随分と痛い図星を指されたらしい。兄は完全に不貞腐れてしまい、それだけで人(この場合は先生)を射殺せそうな氷の眼差しをこちらに向けている。
これは……一応、宥めた方が良いのだろうか? でも、なんて言って?
『お兄様の頬も叩いて差し上げますから』
とか? ……それもなんだか違う気がするのだけど。
「あ、あの、お兄様」
「駄目だよ、フィオネッタ。私の目の前で他の男へと駆け寄ろうとするなんて……酷い子だ」
そう言うなり先生は再び私を強く抱き締める。しかもなんというか……肩や腰を抱く手には更に熱が増していて、強引なのに凄く優しくて。しかも本当に傷付いているみたいに弱々しく嘆いて、棄てられた仔犬のような顔をするのは狡くないか? ついうっかり、絆されてしまいそうになるじゃないか。
だけどいい加減、離して欲しい。無駄を悟りながらも、私は間近に迫る憎らしいくらいに整った顔を思いっきり睨んでみた。そうしたら一体何がそんなに嬉しいのだろうか、元々柔らかく下降している眦を更に下げて、うっすら頬まで染めて笑うだなんて。
潤ってそのまま溶けて、零れ落ちてしまいそうな瞳が雄弁に、……私を好ましく思っているのだと語っていて、私の胸はぎゅうっと締め付けられた。
だってその瞳は、私の大好きな人が私に向けるそれと、悔しいくらいに似ているから。
どうしてこの人はこんなにも、似ているのだろうか。
「やっぱり連れて帰ろうかな。どうにも君は悪い虫ばかり引き寄せてしまうようですしね」
……悪い虫ってなんの事?
よく意味の分からない事を言って私を責めるところまで似ていて、本当に腹が立つ。
「本来なら十年前のあの日、君を連れて帰るつもりだったのに。けれど兄さんが魔力を暴走させようとするものだから結局、皆に説得されて泣く泣く諦めたんです。しかもその後、君が成人するまでは接近禁止と陛下より命じられるし……」
今、さらっと言ったけれど、陛下? 陛下って言いましたよね!?
「最初は我慢したんだよ。月に一度、手に入る君の隠し撮りを楽しみにしながらね」
悪びれもせず堂々と隠し撮りって言った……
「私の一番のお気に入りは五年前の、避暑地でのワンピース姿を撮った一枚なんだ。プリムローズの淡い色合いが本当に君に良く似合っていて、とっても可愛らしかった。……ああ、でもね、フィオネッタ。いくら家族とは言え、私以外の男にあんなに出した腕や脚を見せてはいけないよ?」
その姿を思い浮かべているのか恍惚と語る様子も含め、耳元へと寄せて低く重く叱る声が恐ろしくて、私の全身は瞬く間に総毛立った。
確かに、猛暑だった五年前の夏休みに公爵家の所有する北の領地へ半月くらい避難していた。仕事の忙しい父は数日で帰ってしまったけれど、母と兄、それに数人の侍女達と一緒に快適に過ごした。その間よく着ていたのが、袖とスカート丈の短いワンピースだった。だって暑いし家族だけだし、別に良いよね?
その時の隠し撮り? え、怖い。
全然、気付かなかった。
お兄様も何も仰らなかったし……あ、でも一度だけ、
『虫が多い』
と憤慨されていたっけ。
虫なんていないのになぁ? って思った記憶がある。
「最初は我慢出来た。だけど学園に通い出す頃には君は益々可愛く綺麗になっていって、周りにはどんどん余計な男が増えて、どれだけ私が焦ったか分かりますか?」
軽く引いている私に気付いているのかいないのか、先生はつらつらと続ける。
「私が君と同い年ならば一緒に学園に通って君を護れるのに──そう考えたら矢も盾も堪らず、すぐに行動に移しました。生徒が無理なら教諭として君の側にいようと」
なんて突拍子もない発想。学園もよく許可したものだ。
「首尾よく君の近く、君の信頼を得られて喜んでいたら、先月の妖精王のあの宣言だ。あれだけの関心を集めてしまえば、兄さんが君に掛けていた認識阻害の術も充分には働かなくて皆が君に気付いてしまったんだ。誰も彼も皆、君に魅了されて夢中になってしまって、悪い虫を追い払うのに私が躍起になっているというのに君は全く気付かないし」
……皆が私に夢中?
先生、頭は大丈夫ですか?
心配になるが、それよりも。
「そんな事の為に素性を偽ってまで学園に通うだなんて……、貴方は、一体、『誰』なのですか?」
ああ、だけど、愚鈍な私にだって、ある程度の見当は付いているのだ。でも……
「学園の卒業生で、年齢は十八で、得意科目は歴史と文学で、離れて暮らす家族がいて、昔は貴族で、本当は左利きで……」
「私が話した事、全部ちゃんと覚えてくれているのですね? ああ……嬉しいなぁ」
本当に嬉しそう。濃い緑の瞳がより一層、潤って煌めく。
熱で淡く溶ける、甘い砂糖菓子のような微笑。だけど、それさえ私には恐ろしく思えて。
「先生が私に話して下さった事は全て、……嘘、だったのですか?」
「私は君に嘘なんて吐かないけれど……君は、私の一つ一つの言葉よりも兄さんの一言を信じるのですか?」
「私は頭が良くありませんから。考えて必死に考えて、それでも分からない時は、私はお兄様のお言葉を信じます」
「ご謙遜を。座学に於いて君に敵う生徒などいないというのに。……でも、そうか、成る程。ああ、やっぱり兄さんは邪魔だね」
緑の瞳が眇められる。顔一面に貼り付けられた笑みはまるで抜き身の刃のよう。音も立てず私の全身を滑り落ちた。
それはとても恐ろしい事。
笑っていても、笑っていない。まるで生き物の匂いがしない。
私はその顔を知っていて。
知っている事が、何故かとても恐ろしくて。
「アレクセイ……が、先生の本当のお名前なのですか?」
「君には、そちらではない名前で呼ばれたいのですが」
「え? 他の、名前……?」
その瞬間、不意に脳裏に浮かんだ、幼い日の出来事。
『私の事はケニーとでも呼べば良いよ』
『ヒュー兄さん、狡い。では私の事はリジーと呼んでくれますか? ああ、ルディ兄さんは『お兄様』だから、私は『お兄ちゃま』って呼んで欲しいなぁ』
小さいお兄ちゃんがそうお願いするから、私は素直に鸚鵡返し。
『リジー、おにいちゃま?』
『うっわぁ!! 何これ、何これ!? 可愛い!!』
綺麗なお顔を真っ赤に染めた彼にぎゅうっと抱き締められて、苦しかったのを覚えている。
「ま、まさか、……リジー……お兄ちゃま……?」
「!! 思い出してくれたんですね!? そうだよ、君の初恋のリジーお兄ちゃまだよ!!」
喜色満面、興奮した様子で頬を紅潮させる先生の目にはうっすら涙。
ん……初、恋?
『ふむ、それなら私は『ケニーお兄ちゃま』か。では呼んでみて、フィオネッタ』
『ヒュー兄さんは駄目だよ。フィオネッタに真名を呼んで貰うのは私だけだからね』
『ケニーおにいちゃま?』
『……悪くない。成る程、ルディの気持ちがよく分かる』
『駄目だってば。フィオネッタは私のものだからね!!』
そう言って、彼は大きいお兄ちゃんの目から私を隠そうとする。
次第に鮮明になる、幼い頃の思い出。私は震える声のまま、更に訊く。
「ええと、じゃあ、あの、ケニーお兄ちゃまって……」
「ヒューイット・ケネス・クレイヴ。この変質者の兄で、第一王子だ」
「なんだ、ヒュー兄さんの事まで思い出さなくても良かったのに」
渋面いっぱいでさらりと爆弾発言をする兄と、つまらなさそうに唇を尖らせる先生の対比が面白い。これが他人事ならば、だが。
『ちがうわ。フィーはね、おにいさまのものなの。だからリジーおにいちゃまのものじゃないの』
『……へぇ……そうなんだ……』
次々に甦る記憶の中でも、これはいけないと、今ならそう分かる。が、まだ五つにも満たない幼子に英明な対応を求めるのは酷というものだ。
『……じゃあフィオネッタは、私よりもルディ兄さんの方が好きなんだ?』
『うん、フィーね、おにいさまがいちばん大好きなの』
その瞬間の、彼の表情は、筆舌に尽くし難い。
思い出した今の私であっても身体の震えが止まらない程の衝撃なのだから、当時の私には到底、耐えられるものではなかったのだろう。こうして記憶の底の底、光も届かない深い場所に鍵を掛けて隠しておきたくなる程に。
……初恋? 先生への好意?
そんな生易しいものじゃない。
やっと気付いた、やっと分かった。
先生に感じていた胸の鼓動も、頬が熱くなる理由も。
──恐怖だ。
過度の緊張による心拍数と体温の急激な上昇、それが『ときめき』と『照れ』だと思っていたものの正体。
私が忘れていても、私の奥底にはしっかりと恐怖心は残されていたのだろう。
腑には落ちた。だけど恐怖はより増した。
「まあ……今はそれでも良いか。ふふ、君も参加する年末の成年御披露目会が楽しみですね。やっと君が私のものだと、皆の前で宣言出来るのだから」
柔らかく笑む、甘い美貌。年頃の女性なら誰しもが見惚れてしまう微笑みも、幼少の頃の記憶を取り戻した今の私にとっては恐怖を煽るだけのもの。狂おしい程の熱を帯びた吐息が頬を掠めた瞬間、
「い……いやぁーーーーーー!!」
堪えきれず、私は絶叫した。
悪夢だ、いや、きっとそう、これは夢! 夢に違いない、夢であるべきだ!!
遠退く意識の中、私は心の底から願った。
夢なら早く覚めて下さい!!
と。




