26『先生の正体……?』
「……ふぅ……」
兄の吐き出すため息は、相変わらずブリザードのように全てを凍てつかせる。
私は勿論の事、サラーティカもヴァルも、先程まで真っ赤だった軍服の男性達も、青褪め恐怖に身を竦ませた。……先生だけはなんの反応もないのが不思議だけれども。
そして、私はふと考える。そう言えば軍服の彼等、一体何者なのだろうか? と。
貴族子弟が多く通う学園には警備隊が常駐しているが、彼等は明らかにそれとは一線を画している。
鍛え上げられた屈強な肉体に鋭い目付き、警戒と緊張、統制の取れた動き。上質な白地に精巧な紫紺の刺繍が施された軍服からも分かるように、階級、と言うのだろうか、それが高いように見受けられる彼等の任務は警備隊とは大きく異なるのではないだろうか。例えば彼等が護るのはそれこそ兄のような高位貴族や──王族。
しかし、そんな彼等も兄は恐ろしいようで、その一挙一動に神経を尖らせている。
気持ちは痛い程に分かる。
ええ、分かりますとも、お兄様は本っ当に怖いですから。
「さて……フィーには後々、じっくりと言い聞かせるとして」
そんな彼等の心情を理解したつもりで勝手に同調していた私は、その言葉に飛び上がった。
誰もが目を奪われるだろう艶麗なる微笑の、なんと恐ろしい事だろうか。
これはもしや……噂に聞いた『お説教』というやつを頂くのだろうか?
お兄様の顔に泥を塗る妹でごめんなさい。
恥ずかしい、情けない妹でごめんなさい。
深く反省しています。だから出来ればお手柔らかにお願いします……
死刑執行を待つ罪人のように震える私は、無意識に自分の首に触れながら切にそう願うのだった。
「いい加減、返して貰おうか。その子は私のものだ」
……やっぱりまだ、『可愛いペット』扱いなのかなぁ?
「顔が怖いよ、兄さん。ほら、フィオネッタが怯えているじゃないですか」
私の身体の震えをどう解釈したのか、威圧的な兄の言葉を軽やかに笑って受け流し、先生は私を抱く腕に更に力を込めた。
「それにフィオネッタは私のものですよ? 産まれる前から決まっていた、……君は、私のたった一人の、愛しいお嫁さん」
最後の方、耳元で囁く声には形容し難い熱が絡み付いていて、無防備な鼓膜を揺さぶられた私は膝から崩れ落ちそうになった。執拗に私を拘束する先生の手がしっかりと腰を抱いていたので、脱力しただけで済んだが。
そんな事より、気になるのは先生の言葉。さっきも言っていたけれど、妃とかお嫁さんとか……問い質さなければ、そう思ったのに。
「確かに私の妹はお前の妻にくれてやる約束だ。それに関してなんら異存はない。だが、その子は別だ」
「リリーナ・ミーンボック、でしたか? ええ、公爵夫人によく似ていましたね。……でも、それだけだ」
え、先生、リリーナ様の事をご存知だったの? とか。
「お前の妻となるのはその娘であろう」
「あははっ、兄さんが一番よく承知しているでしょうに。首席とは言えたかだか公爵家だ。その令嬢と妖精王の愛娘であるこの子と、王家が──いや、私が望むのはどちらかだなんて。そもそも、この子と比べられるものなどありはしないのに」
どうして先生は、私が妖精の子だって知っているの? とか。
「だが、フィーは何があっても私の下に戻ると言った。お前の出る幕はない」
うわ!? やっぱり聞いていたんじゃないですか!! お兄様の嘘つき!! とか。
「……兄さんも大概、執念深いですよね。大体、これは両家の間で正式に決められていた事で、兄さんやフィオネッタの一存でどうにかなるものでもないでしょう? ああ、それとも私やヒュー兄さんを殺して王位を得ますか?」
お兄様がそのような恐ろしい事をなさる訳ないです!! どうしてそんなに酷い事ばかり仰るの!? とか。とか。とか。
聞きたい事や言いたい事は山程あるのに、先生の私を抱き締める力はどんどん強くなって、先生の胸に顔を埋める私は息さえ苦しくて、言葉が出なくて。
……でも、どうして先生はお兄様の事を『兄さん』なんて呼ぶのだろうか?
兄に異父母弟はいない筈だ。兄曰く『万年新婚夫婦』な両親だから、伴侶以外と、というのは有り得ない。しかし元々知り合いだったような口振りだし、もしかしたら先生は最初から私の事をご存知だったのだろうか? でも何も仰らなかったし……
『私の事は……とでも呼べば良いよ』
『……兄さん、狡い。では私の事は……と呼んでくれますか? ああ、ルディ兄さんは……だから、私は……と呼んで欲しいなぁ』
……え? 今の、何……?
不意に脳裏に浮かんだ、肝心な箇所が不明瞭な会話。なんてもどかしい……これは忘れていた、幼い頃の記憶なのだろうか。私より年長の男の子が二人、見上げたならばそこには若葉よりも鮮やかに艶やかに輝く緑の瞳が──
「己の立場を考えろ。軽々しく口にして良い言葉ではないだろう、アレクセイ」
「…………え?」
驚きが声として飛び出た。尤も、先生の胸で潰れて音にはならなかったけれど。
だけど、思いがけない兄の言葉に、せっかく形になりかけた遠い記憶は呆気なく霧散してしまった。
先生のフルネームはライオット・クレイルだ。兄が人の名前を間違えるなんて考えられない……あれ、でも、アレクセイって名前……どこかで聞いた事があるような?
それに、今、王位? って言った……?
それってまるで、先生が王位を持っている、みたい、な?
まさか。……まさか。
「ない話ではないでしょう? 首席公爵家嫡男である兄さんには王位継承権がありますからね。まあ……『アリアの魔力で王族は害せぬ』ですけれど、ね」
くすくすと笑う。図書室で私にたくさんの事を教えてくれた先生の、いつもと同じ穏やかで優しい声。
なのに、酷く冷たいものが背筋を這った。そしてこの感覚を私は……知っている?
ああ、もう、これでは埒が明かない。そう思った私は先生の腕の中で大暴れし、出来る範囲でだが意外とよく鍛えられている硬い胸板をぽこぽこ叩いてもみた。
すると腕の力は少しだけ弱められ、漸く私は僅かばかりの自由を取り戻した。本音を言えば離して欲しかったのだけれど。
「せ、先生、あの、……!!」
そして仰ぎ見て、言葉は奪われた。
私を見下ろす先生の、
エンペラーグリーンの瞳に。
それは遠い昔、世界で英雄王ヘンドリックだけが持っていた瞳。彼への最大級の尊崇と永劫なる王国の繁栄を祈念し後に『王の緑』と名付けられたその色は、現代において王族の男性の最たる証となって。
即ち、目の前のこの人は──
「先、生……?」
「はい、どうしましたか? フィオネッタさん」
甘い弧を描く美しい緑の瞳。全てを見透かす深遠なる緑。吸い込まれ、心奪われ……ない、残念ながら。
何故なら。
先生は、大変に綺麗な顔立ちをしている。私の兄オルディアスも恐ろしい程の美貌を誇るが、ちゃんと男性的な美しさである。しかし先生はどちらかと言えば中性的で、柔和な笑みがとてもよく似合う人だ。
そんな先生の顔面崩壊が凄まじいのだ。それはもう、残念が過ぎて震えるくらいに。それでも美麗である事には変わらないのだけど。
「アレク……その顔をなんとかしろ」
深いため息混じりの兄の声にも、先生は平然としていて。
「だって、ぺちーん! ですよ? あのフィオネッタが怒って私の両頬をビンタしたんですよ? こんな小さな手では大した威力はないのに思いっきり、ぺちーんって。我慢するのが癖みたいなこの子が、初めてでしょう? あんな攻撃的な方法に打って出て、あんなにたくさん喋るだなんて。今も子供みたいに暴れて私から逃げようとして──ああ、もう、なんって可愛い子なんですか!!」
しかも、びっくりするくらいに饒舌で。
なんだろう、やっぱり先生はまともではないらしい。
なのにどうして、私の胸はこんなに落ち着かないのか。これではまるで、私が先生の事を好……いや、いやいやいや、違う。絶対違う。だって私が好きなのはお兄様だから。お兄様だけ、大好きだから……
それより、本当にお兄様の言う通り、まずはその、とろっとろに蕩けたお顔を元に戻して下さい!!
ああ、ほら、軍服のお兄さん達も空気を読んで全員『回れ右』しちゃってるじゃないですか!!
「ふふん、羨ましいのでしょう? ルディ兄さん。また私がフィオネッタの『初めて』を手に入れたから」
色々と誤解を招く表現は止めて下さい。
と言うか、頬を打たれて羨ましい人なんていないですよ。ねえ、お兄様?
……え、なんですか、その複雑怪奇なお顔は。
もの凄く怒ってます?
いや……これは、この顔は、拗ねてる?
嫉妬してる?
まさか、本当に……羨ましいのですか!?
先生だけではなく、まさかお兄様までまともではないだなんて──本日一番の驚愕である。




