25『ご機嫌? 不機嫌?』
ぺちんっ!!
向かい合い、うっとりとした眼差しで飽きもせず私を眺めていた先生の両頬に、私は思いっきり両手のひらを叩き付けた。痛いくらいの静寂を破った乾いた音に、少しだけ胸が空く。
まあ、私の全力など大した威力はないでしょうけれど。
だが効果としては上々かな? 先生は呆気に取られた様子で、言葉もなく、何度も目を瞬かせている。
私は自分史上最大級の『怖い顔』を作ってそんな先生を睨み付けると、肺にあった空気を全部吐き出す勢いで一気に捲し立てた。
「黙って聞いていればさっきから、なんなんですか? 皆して人の気持ちを勝手に決め付けないで下さい! 私が一度でも先生に助けて下さいって言いましたか? 連れて逃げて下さいだなんて、ただの一度でもお願いしましたか? 言ってないですよね? してないですのね!? 私はちゃんと自分で決めたのです、逃げないって! 確かに今でも辛い事はたくさんありますし、きっとこの先……泣くのだと思います。でもそれでも私はお父様やお母様の娘でいたいって、要らないって言われるまでは絶対に離れないって決めたのです! 私は、ずっと、お兄様のお側にいたいのです! だから誰が何をしようとも私は絶対に家を出ませんし、もし何処かに連れて行かれたとしても私は必ずお兄様の下に戻ります!!」
こんなに立て続けに喋ったのは人生初で、情けない事に息が上がった。しかも勢い余って兄への想いの吐露とも取れる言葉まで叫んでしまって……本人がこの場にいなかった事がせめてもの救いだ。もし聞いていたら、きっと凄く満足げに、凄く意地悪な顔で笑うのだろう。その姿が安易に想像出来て私は震え上がった。
この時の私はそんな事ばかりに思考を占拠され、全く先生の顔を見ていなかった。見ていれば……きっと違う意味で震え上がっていただろう。
想像の中で高笑いする兄をふるふると頭を振って追い払い、何故だかちっとも私を解放してくれない先生を不思議に思いつつ、私は先生の後ろのサラーティカへと強く言葉を投げ掛けた。
「それにサラ、貴女もよ!」
「…………え?」
怒りの矛先が次に自分に向けられるとは微塵も考えなかったらしい。声も出ているし、身体の自由は取り戻したようで一安心だが、腰が抜けているのか座り込んだままのサラーティカは私の形相に大変に驚き、びくっ、と身を竦ませた。どうやらこちらにも私の『怖い顔』は抜群に効くようだ。
「確かに貴女にはその、馬鹿なお願いをしたわ。したけれど、貴女も私を一番分かっているって豪語するのなら今の私の気持ちもそれとなく察して! 私を私の大好きな人達から引き離すような事はしないで! それに私は、貴女が私を嫌う程には貴女を嫌いじゃないの! そういうのも、ちゃんと分かって!!」
これは私の偽らざる気持ち。
私がサラーティカを避けるのは、私を厭う彼女の歪む顔を見たくないから。
彼女は嫌がるだろうけれど、綺麗事だと言われても、やっぱり私にとってサラは大切な従姉妹なのだ、例え血は繋がっていなくとも。
サラーティカはびっくりしたみたいだ。目をぱちぱちと瞬かせている姿は年相応に愛らしい。
その様子に微笑して、私はよし、次! と気持ちを切り替えた。
こちらもまだ座り込んだままだが──
「それから貴方もですよ! ヴァル! ……さん!」
「え? 俺もかよ!? てかお前、俺の事覚えてたのか……?」
「!? 当たり前じゃないですか!! どれだけ心配したと思っているのですか!!」
ずっと気になっていた。
あの後、彼等の行方は杳として知れず、知恵も力も持たない私は兄の教え与えてくれる言葉を待つしかなくて。
兄が分からなかったと言えば無力な私にはそれが全てで。
本当に『分からない』のか、
私が知る必要はないと判断されたのか、
そもそも最初から探す気があったのか。
確かめようもないのだけど。
兄の胸の内など到底、私の考えの及ぶところではないのだから。
それでも食い下がれば兄は気紛れに情報を与えてくれたが、そのどれもが安穏とは程遠く、その度にどれだけ不安に思った事か。
だと言うのに?
そりゃあ、私が一人で勝手に心配していただけで、別に心配してくれと言われた訳ではないですよ? でも二年以上も消息を掴めなくて、私にとってはある意味、恩人のような人なのだから心配するのは当然ではないですか? なのに突然現れたと思ったら、私を売り飛ばす為にって?
猛烈に腹が立ってきた。
言いたい事は山程あるのに、なのに小さな子供みたいに感情がぐちゃぐちゃになって言葉として上手く纏まらなくて、……泣きそう。
「うう……もう、知りませんっ!!」
「いや、そこまで怒ってて、なんもねぇのかよ!?」
「知りませんっ!! もう、勝手にして下さい!!」
ああ、もう、顔は熱いし目は潤むし鼻の奥はじりじりするし。恥ずかしさと悔しさで私はヴァルを睨み付けた──と。
「馬鹿! だから、その顔やめろって!」
また馬鹿って言われた……
更に彼は顔を真っ赤に染めて、ふいっと目を逸らしてしまった。そんなに私の顔って酷いのだろうか?
「お前、マジかよ……夢よりよっぽど質悪いって。あん時より遥かに威力増してるし、ヤバいだろこれ? うわぁ、落ち着け俺、静まれ俺! 死ぬ、マジで殺される……。てかまだ手ぇ付けてねぇとかなんの嫌がらせだよ、目の前にぶら下げて見せ付けといて、周りに猛獣放つとか、鬼畜かよ……」
両手で顔を覆ってずっと意味不明な事をぶつぶつと呟いている。
なんなのだろうか?
相変わらず変な人だ。
「あははは! さすがはフィーだ。こうも無慈悲に男の純情を弄ぶとは」
突如、高らかに響き渡る笑い声に、私の頭上にたくさん浮かんでいた疑問符は蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。私自身も頭から氷水でも被ったかのよう、自分の意思とは関係なく身体が大きく跳ねて、震えた。
今すぐにでも遁走したい気持ちをぐっと堪えて声のした方へと目をやれば、軍服なのだろう揃いの制服に身を包んだ数人の男性を従えて立つ兄の姿。
凛々しく端麗で、そこにいるだけで万人の心を奪う人。
甘く優しく、私の心の全てを掌握する、酷い人。
私は震える声で問う。
「お、お兄様……、いつから、そちらに?」
「今し方、着いたばかりだが……どうした? 何か気になる事でもあったのか?」
目を細め、莞爾と笑む彼は、すこぶるご機嫌だ。喩えるのならば、そう、猫科の肉食獣(しかも大型)がゴロゴロと喉を鳴らしているような。
だと言うのに、私の震えは一向に治まらない。
鋭く私を貫く、その目が。
瞳の奥で揺れている、穏やかさとはかけ離れた光が。
彼がどれだけ怒り狂っているのかを、如実に語っているから。
私、また何か、お兄様の気に障るような事を仕出かしてしまったのだろうか……?
何が兄の逆鱗に触れたのか分からなくて、怖くて、辛くて、胸がぎゅうっと締め付けられて、堪らず私は目を伏せる。だけどその時、彷徨わせた視線が、少し奇妙な光景を捉えていた。
何故かは分からないが、兄の後ろに控えている軍服の男性達がちらちらと、私へ視線を注いでいるのだ。なんだか非常に気まずそうだし、少し見てはすぐに目を逸らしているし。しかも心なしか皆、顔が赤いような……?
こういった、まるで私の存在を訝しむような行動は以前よりずっとあった。不躾に見るくせに私と目が合えばすぐに逸らし、私が視線を外せば途端にまたじろじろと見てくるのだ。
私はこんなだから、その気持ちも理解しているし、もう慣れている──つもりだったけれど、やっぱり落ち込む事の方が多い。
ふぅ……とため息が勝手に唇から転がり落ちたのだが、そこで漸く私は気付いた。自分の今の姿に。
──あっ!! まさか……これ……?
私の首周りは、先程の先生の暴挙によって鎖骨辺りまで露になっている。
最悪だ……、恥ずかしい。貴族の子女として、いや淑女としてこれは有り得ない。角度によっては下着もちらりと見えているのかもしれない。兄が激怒するのも当然だ、公爵家の品位を疑われてしまいかねないのだから。
「あ、あの……大変、お見苦しいものをお見せして……その、ご不快にさせてしまい、本当に申し訳……ありません……」
慌てて襟を合わせたけれど、多分、首筋の噛み跡まで見られていたのだろう。そう考えると目にはじわりと涙が浮かぶ。頬は熱くなるし声は震えるが、きちんと謝罪しなくてはいけないと思い、勇気を振り絞って彼等の目を見つめてみれば。
「!! い、いえ! あの自分達は、その、不快だなんてちっとも!!」
全員がもの凄い勢いで首を左右に振っている、しかも全員真っ赤だ。
ああ、余計な気を遣わせてしまった。次期当主の前でその妹を非難出来ませんよね、本当にごめんなさい。
でも、ちゃんと謝罪しましたよ──と兄を見たならば。
あれ……不機嫌指数が更に上昇中なのですが……え、なんで!?




