24『王立学園・図書室にて2』
しかしこの声、どうにも聞き覚えのあるような……
「……え? 貴方、は」
声のした方、振り返って私は驚きの声を上げた。
どうして彼が、こんな所にいるのだろうか?
一見するとただの黒に見える髪と瞳、その奥に僅かに滲む濃い緑。引き締まった身体に長い手足、意外と端正な面立ち。
あの時の彼だ。名前は、そう……ヴァル、だ。
私は少し、こんな状況だというのに懐かしい気持ちを抱いた。だが彼は私に一瞥も寄越さない。私にとっては人生を大きく変えた出会いも、彼にしてみれば取るに足らない出来事だったのだろう。そう思うと、胸に咲いた小さな灯りも簡単に萎んでしまった。
「話が違うぞ!! なんなんだこの男は!? すぐに引き渡すって約束だっただろうが!!」
そんな私など気にも留めず、随分と苛立った様子で彼が叫んだ。その視線は私を通り越して先生──いや、その先へと向かっている。
「そこにいやがるんだろ! 黙ってねぇでとっとと出て来いよ!!」
激しい怒りに空気が震え、私はびくりと身を竦ませた。一体、彼が何に激怒しているのか分からず、事の成り行きを見守っていると──
「……え?」
先生の背後、男の視線の先。本棚と本棚の間から音も立てず歩み出た人影に、私はもう一度、驚く。
燦然と輝くミモザの巻き髪、赫赫と燃え上がるグラナートの双眸。私とほぼ変わらない背丈、まだどこかあどけなさを残す美貌。
だけど、少し様子が変だ。
普段は過剰とも思える程の自信に溢れ、高圧的な態度で私を見下す彼女の顔からは一切の表情が抜け落ち、顔色も悪くまるで死人のよう。
「サラーティカ、どうしてここに……?」
彼女と私が学園内で遭遇する事はまずない。選択している学科がまるで違うから当然学舎も違うし、東棟で学ぶ私は東門から、北棟で学ぶ彼女は北門から登園するので、ニアミスさえないのだから。
全て実践で学ぶ魔術科の生徒に教科書は必要なく、余程の読書家でもなければ図書室に来る用もない。そしてサラーティカは残念ながら勤勉ではない。
だから余計に彼女の出現に驚いたのだ。
そしてその姿に、私はある可能性を思い付く。
「サラーティカ、貴女もしかして……先生に『魅了』を使ったの?」
それは彼女が最も得意とする、他者を自分の意のままに操る恐ろしい術。もしそうならば、先生のあの奇妙な言動にも合点がゆく。慌てて先生を凝視すれば成る程、エルブの瞳はぼんやりと揺れているだけ。私はすぐにサラーティカへと向き直り、強い口調で彼女を責める。
「なんて事を……。その力は使ってはいけないと叔父様があれ程」
「あはは!! ああ、嬉しい、嬉しいわ!! やっぱり私の事を一番理解してくれるのはフィーなのね!!」
だが私の言葉を遮って、突然サラーティカは笑い出した。道化師のような作り物めいた笑みを貼り付けて、身体を揺らして哄笑する姿はとても気味が悪い。本当にどうしてしまったのか、こんな笑い方をする子ではないのに……
「あのね、先生はずっと前からフィーの事を好きだったんですって。それで私に相談しに来たのよ、あの子じゃなくって私に。『フィオネッタさんの事を一番に理解されているのは貴女ですから』って言ってね!!」
サラーティカは頬を朱に染め、何がそんなに嬉しいのか興奮した様子で続けざまこうも言った。
「先生にも分かったのね、フィーの事を一番分かっているのは私なんだって!! 当然よね? だってフィーの事は私が、私の事はフィーが一番よく分かっているんだもの! だから、だからね、私、先生の背中をちょっとだけ押してあげたの。『フィーを先生のお嫁さんにしてあげてね』って」
歓喜に身を震わせて、無邪気に笑う。
『褒めて、褒めて、いっぱい褒めて! ねえ、私、お利口さんでしょう?』
そう語りかけるような、真っ赤に燃える瞳が恐ろしくて、まるで蛇に睨まれた蛙のように私は息を詰まらせた。
声を張り上げたのはヴァル。
「てめぇがこんな訳の分かんねぇ事しやがったのか!?」
「ああっ! うるさいうるさいうるさい!! フィーとお喋りしてるんだから関係ないのが邪魔しないで!!」
「ふざけんじゃねぇよ!! こいつを売り飛ばそうとしたのはてめぇだろうが!?」
……え? 売り飛ばす? サラーティカが……私を?
愕然とした。そこまで嫌われていたなんて……しかも彼までそれに関わっていたなんて。
「なのに、こんな奴まで引っ張り出してきやがって──お嫁さんにするだぁ!? 一体、何考えてやがんだ!?」
「だって、フィーがオルディアスお兄様のものになるだなんて赦せないでしょ?」
「何、を……言っているの? サラーティカ……」
何かおかしい?
とでも言いたげに、サラーティカは小首を傾げた。
どくん、と心臓が跳ねる。
私がお兄様のものになるって、どういう事?
それが赦せないって?
だから、売り飛ばす?
意味が分からない。
……どうして……そんな……
「最初はね、ちゃんと娼館に売り飛ばすつもりだったのよ。手伝ってくれる親切な人もたくさんいたし。それにフィーだって、お家から離れられたら嬉しいでしょ? だから私も凄く頑張ったの。でもあんな話聞かせるから、それだけじゃ物足りなくなったの。だから先生にお願いしたの、フィーをぐちゃぐちゃにしてって。いっぱい、いーっぱい、フィーを傷付けてって。……なのに」
急に、サラーティカは声を低くして、親指の爪を忙しなく噛み始めた。これは彼女が癇癪を起こす直前に必ず行う癖だ。
「なのになんで? なんで私の言う通りに動かないの? なんでフィーを虐めないの? なんでフィーをなでなでしてるの? なんでフィーを連れて行こうとするの? ねぇ、なんで? なんで!? なんでなのっ!?」
「『黙れ』」
「──っ!?」
「──っ!?」
突然、空気が変わった。
酷く冷淡な声に背筋が凍り付く。その声が放つ一言は、全てを支配する。
驚いて周りを見れば、サラーティカが、ヴァルが、喉を抑えて青褪めている。
焦りの色濃いその顔には大粒の汗が次々に浮かび上がり、必死に声を絞り出そうとしても、ひゅうひゅうと乾いた空気が漏れるだけ。
「『跪け』」
「──!!」
「──!!」
続けざま放たれた言葉で、ガクッと二人は膝から崩れ落ちた。そのまま両手を着き、深く頭を垂れる屈辱的な格好はまるで土下座のよう。
「全く、下らない事をべらべらと……聞くに堪えぬ」
静まり返る図書室に響く、冷酷な声音。知っている声の筈なのに、ただひたすらに恐ろしい。こんな間近で聞きたくはない。
「兄さん一人でも充分に鬱陶しいのに、次から次へと湧いて出て私のフィオネッタに軽々しく触れてくれるものだ。私はこうでもしなければ会う事さえ儘ならないと言うのに」
「な……ん……てめぇ……」
「ほう、声が出せるとは大したものだ。……ああ、成る程、君が例のはぐれか。薄汚い『実験動物』の分際で、フィオネッタの記憶の片隅にとはいえ存在するなど、随分と身の程を知らぬようだ」
「!! の、クソが……そいつの前で余計な事を喋ってんじゃねぇよ!!」
激昂するヴァル。だが──
「『這え』」
「がっ!?」
先程よりも強い言葉。見えない力に押し潰されて、その言葉通りヴァルは床に這いつくばった。
繰り広げられる光景はあまりにも衝撃的で、思考が追い付かない私が漸く発した声はみっともなく震えていた。
「……先、生……?」
「ああ、やはり君には効きませんね。何も心配しなくて大丈夫ですよ、邪魔なものは全て排除して必ず君を救い出しますから」
腕の中の私を見下ろして、穏やかに笑う。普段通りの先生のような、優しくて柔らかな微笑み。
少し前までの私ならば、その笑みに大いに安堵しただろう。だけど違う、今はただ無性に──腹が立つ。
先生は正気だ。少なくともサラーティカの支配下にはない。ただ、正気なのは間違いないがとても……まともであるとは思えない。今までは上手に隠されていたのか、単に私には見えていなかったのか、どちらにせよこれがこの人の本質なのだろう。
そう思うと余計に、沸々と怒りが込み上げてきた。




