23『王立学園・図書室にて』
放課後。
家の手伝いで忙しいステイシアと別れて、私は一人で図書室へと向かった。
王立図書館には及ばないが、学園の図書室も蔵書の数は非常に多く、政治学や経済学、法学や医学等の高度な専門書が充実している事もあって、選んだ道を邁進する生徒達の利用率は高い。頻繁に貸し出される本はやはり傷みも早く、時折こうして修繕が必要な本を抜き出す作業が行われる。
「あ……」
そんな中、偶然に目に入った背表紙に私は思わず作業の手を止めた。
それは『働くという事、稼ぐ事』という本。その隣には『簡単! 美味しい家庭料理』なる本まである。
こういった、ごく一般的な書籍の充実も、この学園の『貴賤の差なく学ぶ』という基本理念の一端だろう。貸し出し記録を読むと、意外と貴族の子息令嬢がよく借りていて、それがまた面白い。
「おや、懐かしい。あの頃に君がよく読んでいた本ですね」
私の視線を追って同じ本に辿り着いたらしく、クレイル先生は小さく笑った。
二年程前、私はこの図書室で先生に出会った。一人での調べものが早々に行き詰まり、威圧的に立ち並ぶ本棚を前にただ呆然と立ち尽くしていた時。
『何かお探しですか?』
そう声を掛けてくれたのが、授業や教科書では学べない事をたくさん教えてくれたのが、クレイル先生だった。
「……そ、その節は、あの、大変お世話になりました……」
『自分は家を出るのだから家名で呼ぶのは止して下さい』
だなんて、どの口が言えたものか。我ながら本当に頭が悪い、思い出すと恥ずかしさで顔から火が出そうだ。それが伝わっているのか、先生はとっても可笑しそう。
「本当に当時とは顔付きが変わりましたね、まるで憑き物が落ちたようです。……もう、家を出ようなどとは考えていませんか?」
少しだけ表情を改めて、先生が訊いてきた。美しく澄んだエルブの瞳に真正面から貫かれて、何故だか私の胸は急激に落ち着きを失う。
初めて会った時にも思ったが、私はこの瞳を知っているような気がする。ずっと前に、幼い頃に何処かで……
「あ、ええと、……はい、今はもう、大丈夫です」
それでも動揺を隠して答えれば、先生は苦笑いを浮かべ、思いがけない言葉を紡いだ。
「そうですか、それは──とても残念です」
「……え?」
どうしてそんな事を言うのだろうか。
困惑する私にもう一度、優しい眼差しを向け、先生は更に続ける。
「君が公爵家令嬢のままなら、しがない雇われ教員の私には手が届きませんからね」
「あの、先生……?」
「これでも、それなりに稼いではいるのですよ? 公爵家のように潤沢にとは言えませんが、君に不自由な思いをさせない程度の蓄えはあるのですから」
「いえ、あの……」
「年齢も君の兄上より少し若いだけですから、釣り合いが取れるとは思いませんか?」
「先生、あの、ご冗談は……」
一体どうしたのだろうか。いつもは軽妙な話術で私をもてなしてくれるのに。
「幸い、君にも私にも未だ婚約者がいませんからね。何も問題はないのですよ」
ゆっくりと距離を詰める先生に、私は言い知れぬ不安を覚える。そんな私の様子に、先生は恍惚と笑み、小首を傾げて──言った。
「辛いのでしょう? ご自分の兄上に恋をして、思い悩むのは。手の届かない相手に焦がれるのは……とても苦しいでしょう?」
「!? どうして、そんな事を……」
真っ赤になるか。
真っ青になるか。
こんな風に図星を指されて狼狽える時、正しいのはどちらだろう。
兄は、私を手離す気はないと言った。けれどそんなもの、いつまでも続くとは限らない。人は気紛れだ。大切なものでも簡単に手離してしまうではないか。
そしてそれは、いずれ私の身にも降りかかる事なのだ。
だって結局、先生の言った通り、あの人は私には手の届かない人なのだから。
「私なら、そんな顔はさせない。誰にも君を傷付けさせない。どんな辛い事からも君を守る。だから私を選んで、フィオネッタ。それともまだ……冗談に聞こえていますか?」
聞こえない。聞こえないから……困ってしまうのだ。
間近に迫った薄緑の瞳が妖しく揺らめき、愛の告白と言っても差し支えない言葉も相俟って、胸の鼓動は更に速さを増していく。
先生と会う時はいつもそうだった。
何気ない言葉に胸は躍り、目が合えば頬が熱くなる。どこか兄と重なる雰囲気に、いつも私の心は翻弄されるのだ。
そんな時、決まって私は妙な事を考える。
この国では、緑と蒼の瞳は特別なもの。
英雄王ヘンドリックが緑の。
妻である妖精姫が蒼の。
色濃く、遠く深く澄んで、全てを包み込む美しい瞳。
緑の瞳は王族の男性だけが。
蒼の瞳は……モンドレイ家の嫡男だけが受け継いで。
それが、モンドレイ公爵家が爵位を賜った時より首席公爵家である理由。父も兄も、それ以前の当主達も皆、輝く程に美しい蒼の瞳を持つ。
では彼は?
例え鮮やかさで劣ったとしても、間違いなく美しい緑の瞳を持つ彼。王族と同じ緑。
全くの無関係だなど、どうして言い切れるのだろうか?
何故なのか、そんな取り止めの無い考えがふわふわと脳内を彷徨うのだ。
だけど、すぐさま私は現実に引き戻される。
呆ける私の耳に届いたのは、激しく何かが引き千切られる音。何が起こったのか理解出来ずにいると、見慣れたボタンが華麗な放物線を描いて目の前を掠めていった。
「え?」
と思うより早く、何かを見付けて低く嗤う先生の声。
「ああ、やっぱり。私への牽制のつもりならば随分と稚拙ですね、こんなものは」
「!? 痛っ、い……」
ガリッ、と鈍い音がして、次いで首筋を襲った鋭い痛みに私は小さく悲鳴を上げた。
「……こうやって、いくらでも上書き出来るのですから」
か……咬まれた!?
え、なんで? どうして私、今、咬まれたの?
仔犬の甘噛みなんて可愛いものじゃない、まるで狼の牙だ。だって本当に痛いもの。
「せ、先生……どうしてこんな事……こんな……」
「何故──ですか? 単純な事です。『証』を残す権利なら私にもあるという事ですよ」
……『証』?
権利、って一体なんの?
呆然とする私に先生が向ける瞳は、兄が私を見つめるそれと同じく蕩けて潤い、下降する眦で描く笑みは背筋が凍える程に美しい。
「ああ、やっと君に触れられる。兄さんの我が儘のせいで随分と長く我慢させられたけれど、それも今日で終わる。そもそも最初から君は私のもの、産まれた時から──いえ、産まれる前から決められていた、愛しい私のお嫁さんなのですから」
──はい?
え、およめさん?
ええと、およめさん???
お嫁さんって、あのお嫁さん……ですか?
「フィオネッタ」
甘く耳をなぞる声と、覆い被さる影に驚いて顔を上げる。
いつの間にか腰に回された手でぐいっと引き寄せられて、私は先生の腕の中。
「本当はこのまま連れ帰ってしまいたいのですが、今日は我慢しましょう。でも必ず、私は君を迎えに行きます。私の妃は君一人です」
………………妃?
だが、頭上に浮かんだ疑問符は一瞬で木っ端微塵になった。
先程、強く咬まれた首筋を今度は甘く食まれたから。
「──っ!?」
ぞくぞくと、擽ったいような鳥肌が立つような、奇妙な感覚が足元から頭の先まで駆け抜けて、まともに立っていられない。
そんな私の反応を具に観察して、喉を震わせて先生は笑う。
そして、目が合った。
緑の瞳。美しい、鮮やかなエンペラーグリーンの瞳。私を魅了する、魔性の瞳。
「──ちょっと待てこの野郎!!」
そして、後ろからは怒号。……うん? ……怒号?




