20『残念な父娘』
穏やかな寝息を立てる美しい少女は、油断すればすぐにでも何処かに消えてしまいそうに儚くて、オルディアスは胸の内に未だ巣食う不安に小さく身を震わせた。
どれだけ愛を囁き伝えても、全く足りない。
もっと愛したい。
もっとこの狂おしいまでの想いを知って欲しい。
三千年も焦がれ待ち続けたのに、なんともどかしい事か。
「フィオネッタ……」
名を呟けばそれだけで、胸は高鳴り鼓動が速くなる。
だが、身を灼き尽くす程の熱を胸の奥に押し退けて、オルディアスは愛しい少女を静かに見つめた。
指で髪を梳き、柔らかい頬に触れる。その暖かさに安堵する彼は、ここでちょっとした悪戯心を発揮する。
「う……むぅ……むにゅ……」
つんつんと、鼻の頭を突いてやれば、なんとも愉快な顔をするではないか。嫌がって眉間に皺を寄せるのも、唇を突き出して唸るのも、この上なく愛らしい。
声を殺して大爆笑すれば、胸に沈む孤独がふと和らいだ。
「いつまでも、こうしていたいが」
今日は自室に戻ろう。さすがに毎晩ベッドを占拠する訳にはいかないだろう。それくらいの分別は、どうやらオルディアスにもあるようだ。
「うにゅぅ……お兄様……」
一体どんな夢を見ているのだろうか。不意に呼ばれて、せっかくの分別も理性も吹き飛んでしまいそうだ。なんだか難しい顔をして、ごにょごにょと寝言を呟く彼女の目尻には涙が滲んでいる。
これでは後ろ髪を引かれて仕方ない。
我慢出来ず、フィオネッタの閉じられた瞼に唇を寄せる。彼女の味がする涙を口に含めば、渇いた心にまた一滴、甘い蜜が落ちた。
いつもそうした。
激しい感情の波に呑まれた時はいつも、彼女の涙を口にした。
オルディアスが激昂するのはフィオネッタが傷付き泣く時のみ。
彼女を傷付けて泣かせる者は例え誰であっても、八つ裂きにしないと気が済まない。
だけど彼女はそんな事は望まない。
だから、彼女の涙で、気を鎮めた。
それだけで、後はどうでも良くなった。
彼女がいればそれで良い。
彼女だけ。
側にいれば。
「お休み、フィオネッタ」
囁いて、もう一度だけ頬にキスをして。
オルディアスは部屋を後にした。
扉の前で待ち構えていた侍女二人は、オルディアスと入れ替わりに寝室へと飛び込んだ。すれ違いざまの二人の表情がそれぞれの性質を如実に表していて滑稽ではあったが、それも一瞬。
すぐさま彼の意識からは全て消失し、影も形も残らなかった。
フィオネッタの部屋を出たオルディアスを待っていたのは──
「お揃いで、何かご用ですか? 父上、母上」
さして驚いた様子もなく、オルディアスは涼しげにそう問うた。
一階の談話室。仄かに立ち上る紅茶の香りと湯気の向こう、硬い表情の両親とは対照的に、オルディアスは作り物のように完璧な微笑を浮かべている。
「それで、何をお訊きになりたいのですか?」
「ルディ、貴方……その、もうフィーを……」
「まだですが、それが?」
はっきりと言葉にするのが憚られるのか微妙に赤面し言い淀む母に、端的に答える。
しかし息子の、フィオネッタに対する尋常ではない執着を充分に理解している両親である。それ故の懐疑的な眼差しに嘆息しつつ、まるで予め用意していた答えのようにオルディアスは更に続ける。
「先日も申し上げた通り、半年間は自制します。勿論、私以外に目が向かないように努力しますが……半年後フィーが十五になった暁にはあの子の願いを叶えます」
フィオネッタは願った。
二人一緒に老いていく事を。
それが堪らなく嬉しい。
「固よりそのつもりでしたから。妖精王の忠告などなくともね」
少しだけ目を伏せて、笑う。作り物ではない、本当に美しい笑みに、エメンダは自分の子ながら見惚れてしまった。
フィオネッタだけ。
最愛の妹を想う時だけ、オルディアスは人間になれる。
人としての優しさや愛情を惜しみなく注げる唯一の存在。
あの子がいれば、オルディアスは人でいられる。
その事に多大に安堵し、エメンダの口元もやんわりと緩む。
「そうか……いや、お前がきちんと決めた事なら私達は何も言うまい」
カインシェスも同じ思いだったようだ。
広くおおらかな心で子供達を深く愛する父と、まるで恋する乙女のように瞳を輝かせて夫の横顔を見つめる母に、オルディアスはこの両親で良かったと──決して言葉にはしないが、心底そう思った。
だが。
「ところで、妖精王って誰だい?」
この一言は頂けない。
しかも妻と息子の冷ややかな眼差しを受けても、鈍い彼はきょとんと首を傾げるだけ。
「……はぁ、やはりフィーは旦那様に似てしまったのね……」
「ええ、残念ながらそのようです」
『ウェルシー……さん、て、不思議な方でしたね?』
然り気なくを装ってオルディアスの胸から距離を取ると、フィオネッタは兄を見上げてこう言った。
さてはこれは、妖精だろうとは気付いていても、ウェルシーと妖精王がイコールになってはいないな。
『……フィーの目には、どう映った?』
『え? ええと、意地悪な人でしょうか? ああ、でも……なんだか少しだけ、お父様に似ていらっしゃいました』
鈍いくせに時折、妙な鋭さを見せるものだと、思いがけない決断力や行動力も含めて、彼女の全てにこっそり感心するオルディアスであった。
「おや、母上は感付かれておいででしたか?」
「だってねぇ……そっくりだったわよ、あの瞳」
ウェルシーとカインシェスのフィオネッタを見つめる瞳は、色は全く違うのに、娘を溺愛する父親のそれという確かな共通点を持っていた。話し振りも含めて、少し考えれば分かりそうなものだが。
なのに。
最愛の一人娘が自分似だと言われたのが余程、嬉しかったのか。鉄壁と誉れ高い冴え冴えとした麗容を非常に残念な感じに崩壊させて、身をくねらせている。
はっきり言って、大の男が気持ち悪い。
「それにしても、本当に、あの妖精王は余計な事をしてくれたものだわ」
痛むのか、額を押さえてエメンダは苦いため息を吐いた。脳内お花畑状態の夫は完全無視である。
「全くです」
オルディアスも珍しく渋い顔だ。
その夜、王族貴族を始め国中の人達が同じ夢を見た。
映像ではない、ただただ声が聞こえるだけ。
その声の主は自らを妖精の王だと言った。
そして、愛娘をある貴族に預けている事。
愛娘とは誰なのか、半年後に彼女が十五になれば誰の目にも明らかになる事。
万が一、愛娘に危害を加えた者には、妖精族が総力を上げて相応の報いを受けさせる事。
オルディアスへの意趣返しを大いに含む文言を高らかに宣言したものだから、この数日、モンドレイの面々は各方向への対応に追われているのである。迷惑、甚だしい。
「翌日にはアレク──王太子が私の所に来ました」
「え? 殿下が直々に法務院にいらっしゃったの?」
「ええ。これまでも私の目を盗んでこそこそとフィーに接触していましたが、これを機に本気で王太子妃候補の一番手に据えると、そう私に宣戦布告しましたよ」
「それはまあ、なんとも……豪胆と言うか、命知らずと言うか……」
エメンダは天を仰いだ。
成る程、合点が行った。
朝から人目も憚らず、フィオネッタの頬にしつこくキスをしてご満悦で出勤した筈が、帰宅時には何故だか随分と不機嫌だった。珍しく感情を露にしていると思ったら……成る程、である。
『我が国の始祖には妖精姫がいた。三千年の長きを経て現れた妖精王の愛娘が、その血の流れに添うのは至極当然の事では?』
とでも宣ったのだろう、そのさまが目に浮かぶようだ。
「はぁ……わたくしも、また王妃様から呼び出されているのよ……」
明日も根掘り葉掘り訊かれるのかと思うと、もう既に気が滅入っているエメンダであった。




