19『二人だけの夜』
私は兄の言う『愛』を、見縊っていたのだろうか?
それともそれは『家族愛』だと、勝手に思い込んでいたからなのか?
何も分かっていなかった。
兄の甘やかしは私を堕落させて、自分の足ではもう二度と歩けない程に依存させるものだったなんて……この頃の私には到底、見抜く事は出来なかった。
今日は嬉しくて、たくさん泣いてしまった。ちょうど週末で助かったなと思う。泣き腫らした目で登園などしたものなら、また余計な憶測を呼んでしまうから。
「明後日までには少し引くかな?」
「後で氷をお持ち致しますね。……奥様の治癒が効けば一番よろしいのですが」
鏡に映る自分の顔とにらめっこしながら呟けば、後ろで私の髪を丁寧に梳かすナタリアの艶やかな唇からため息が零れ落ちた。
「そう言えば……どうして私にはお母様の魔力が効かないのかしら……?」
肩を骨折した時も、その場では効かなかった。でも徐々に効いてきて、数日後にはすっかり治っていた──それも不思議だ。
「お嬢様がご幼少の砌にはきちんと効いておりましたので、もしかしたらお嬢様のご成長に関係する事なのかもしれませんね」
ウェルシーが言っていた、人間の身体を妖精のそれへと書き換えていく過程で、人の魔力を受け付けなくなってきたという事なのだろうか?
「うーん、お兄様なら何かご存知かもしれないけれど」
ウェルシーと色々と話し込んでいた様子の兄、何か知っていれば教えてくれるだろうかと思っての独り言だったのだが。
「あの、お嬢様……その、若様の事なのですが……」
「うん? お兄様がどうかしたの?」
珍しく言い淀むナタリア。鏡越しに顔を見てみれば、眉が八の字になっている。
どうしたのだろう? 重ねて問おうとした、その時。
「フィー、入るぞ」
寝室の扉の向こう、『良いか?』ではなく『入るぞ』と言う、兄の声。
「お兄様? はい、どうぞ」
返事をすればすぐに兄が顔を出した。私から少し離れて深く頭を下げるナタリアがまるで目に入っていないよう、一顧だにせず、滑るような足取りで私の側へと寄った。
「どうなさったのですか? このような時間に」
見上げて訊ねれば、甘い眼差しが降ってきた。どんな宝石よりも美しい蒼の瞳がとろりと溶けたように潤って、滴って、私の髪に、瞳に、頬に、……唇に、灼熱の口付けを落とす。その濃密な気配に息が詰まりそうになって、私は短く喘ぐ。
「ナタリア・ユーベ、下がれ」
そんな私に微笑を向けたまま、だけど酷く凍えた声で兄はそう告げた。それは決して否を赦さない絶対君主の如き声音。
ぐっと唇を噛むナタリアは僅かばかりの逡巡の後、もう一度、深々と頭を下げてから扉へと歩き出した。目一杯の不足を抱え込んだその背に、
「そこに落ちている者も連れて行け」
そう追い討ちを掛ける兄の声は無情だ。
……落ちている、者?
なんの事?
でも扉の向こうにいるのはチェインだけだしなぁ。
じゃあ、チェインが落ちているの?
……何故?
ナタリアには理解出来ているらしい。苦虫を噛み潰したような顔を一度こちらに向けてから、そっと部屋を出ていった。
「あの、それで、お兄様はどうしてこちらに?」
二人っきりの部屋、なんだか少し緊張する。
「ああ、母上に叱られてな。『自分の部屋にフィーを閉じ込めるのはいい加減お止めなさい』と、それはもう鬼の形相でな。困ったものだ」
母の口調を真似ながら、しかつめらしく言う兄に、私の頬も自然と緩む。
「お兄様ったら。そのような事を仰っては、またお母様に怒られてしまいますよ?」
口元を隠して笑う私に、兄の眦も下降していく。
だが不意に、二人の間に沈黙が訪れた。
途端に胸がざわざわと騒いで落ち着かない。
兄が、眩しそうに目を眇めて私を見るから。
どうして、そんな目をして私を見るのだろう?
まるで、焦がれて止まないものを目の前にした時の、期待と不安、喜びとほんの僅かな苛立ちを綯い交ぜにしたような揺らめきを灯した瞳で。
それはとても純粋で歪で、きらきらしているのにどろどろしていて、美しいのか汚れているのかも分からない程に入り乱れていて。
私の心を簡単に攻略して、捕らえて、離さない。
何か言わなくては……、そう焦れば焦る程、言葉は喉の奥に貼り付いて上手く出てきてはくれない。
先に沈黙を破ったのは、兄。
「……まだ、少し腫れているな」
「え? あ、ええと、……はい」
少し掠れた声で、そう囁いた。
……ああ、恥ずかしい。
兄は私の腫れぼったい瞼を心配して見ていただけなのに。
都合良く勘違いするなんて。
恥ずかしい。
「週明けまでには少し治まってくれれば良いのですが」
照れ隠しに私は殊更に明るく振る舞う。つられたように笑う兄に少しだけ、胸の支えが和らいだ。
「フィー、目を瞑ってごらん」
「? はい、お兄様」
言われるがままに目を閉じた。そうしたら、
「……素直過ぎるのも考えものだな……」
とか、
「よもや、私以外の男にも同じ態度を取るのか……?」
とか、何やらぶつぶつ言っている。
素直って良い事じゃないの?
「! わ、冷たい……」
じっとしているようにと告げられて、その通りにしていると、閉じた瞼に影が落ちた。心地好い冷気を纏った兄の手が、そっと瞼に添えられたのだとすぐに気付いた。
「どうだ?」
「とっても気持ちいいです」
本当に気持ちいい。ひんやりとした手は優しい手、大好きな人の手。
ああ、やっぱり……、
「好き……」
……だなぁ。
「っ、……フィー……」
「はい?」
気のせいだろうか。
兄が息を呑んだような気がしたのは。
私の名前を呼ぶ声に、形容し難い熱が絡んでいたのは。
私に触れる手が、少し震えたのは。
そう感じた、次の瞬間。
何かが触れた。
私の唇に。
暖かくて、柔らかい何かが。
目の前に気配と息遣い。
それに、兄の香り。
どくん、と鼓動が跳ねた。
突然の出来事に動揺して固まっていると、一旦離れた唇がまた私の唇に重ねられた。
「フィー、可愛い私のフィオネッタ」
離れる都度、愛を囁く声が耳朶を打ち、私は体温が急上昇するのを自覚する。
……私、キス……されてる?
え、どうして?
戸惑うばかり。
だけど止めてくれない。
次は顎を掴まれて、更に上向かされた。
目が合えば殊更に嬉しそうに微笑む兄の、形の良い薄い唇に私の目は釘付けだ。
この……艶めく唇が、私の唇に……?
ボンッ、と爆発音がごく近くで聞こえた気がした。
ああ、お兄様が面白い顔をしている……
「フィー? フィオネッタ」
遠くで兄が私を呼んでいる。
だけと、もう駄目だ。
もう限界です。正気を保てません。
お願いですから、このままそっとしておいて下さい。
そうして耐えきれず色々なものが弾けてしまった私は、ものの見事に気絶したのである。
因みに。後に衝撃の事実を知るまでは、これが私の嬉しくも恥ずかしい初めてのキスの思い出なのであった。




