18『皆、意外とよく泣く』
ウェルシーと別れの挨拶を済ませた後、まだ少し彼と話があるからと言った兄を残して部屋に戻った私が見たのは、母を宥める父の姿だった。
「エメンダ、少し落ち着いて。大丈夫だよ」
「でも、でも……」
「お母様、どうなさったのですか!?」
青褪める母に驚く私の声は、思った以上に大きく部屋中に響いた。
「ああ! フィー!!」
だが母は私に気付くと、父の制止を振り切って駆け寄り。
「く!? 苦しい……苦しいです、お母様ぁ……」
か細いその身体の一体どこにそんな力があるのか。全力で抱き締められて私は悲鳴を上げた。
すんすんと鼻を啜る母の背を摩りながら、私は視線だけで父を問い質した。
「いや、君がね、代理人殿の後を追いかけて行っただろう? そうしたら急に、君がこのまま彼に付いて行ってしまうのではないかって考えたらしくてね……」
苦笑いで、言いにくそうに告げる父。そんな事、考えもしなかったからびっくり。
「どうして、そのような」
「だって、だって……わたくし達よりも、やっぱり本当の両親の方が良いって、フィーが思ったら……うう、わたくし、きっとフィーに棄てられてしまうのだわぁ!!」
とうとう大声で泣き出してしまった母に、私と父は顔を見合せ途方に暮れた。だがその間にも泣きじゃくる母の、私を締め上げる力は増す一方で、私の意識は次第に遠退いて──と、その時。
「一体、何をなさっているのですか? 母上」
いつの間に戻ったのか、兄が私の後ろからひょっこり顔を出して、そう訊ねた。
「お……お兄様、」
そして呻く私の、青を通り越して白くなっているであろう顔を見るなり呆れた様子で小さくため息を吐き出して、
「母上、フィーを離して下さい」
一つ、ぱちん、と指を鳴らした。
「! ルディ、貴方、母に何をするの!? ああ、嫌、フィー!!」
見えない力で私から引き剥がされた母は何やらじたばたと抵抗していたが、後ろから父に抱き締められて耳元で何か囁かれたならば、ものの数秒で頬を赤らめて大人しくなってしまった。
おお!! お父様、凄い。
などと私が的外れな感心をしている間に父から事情を聞き出して兄は、それは杞憂だと母の不安を一笑に付した。
「母上もご承知の通り、私がフィーを手離す事など万が一にも有り得ません。それに近い将来、私が爵位を継げばこの子は公爵夫人となるのですから、益々、離れようがありません。まあ……もし父上に、私を廃嫡し放逐なさる心積もりがおありならばその限りではありませんが、そうでないのならばフィーはずっとこの家におりますよ」
そして、『私の側に……ね?』と、私へ流し目を送る。その色気たっぷりの視線は止めて頂きたい。心臓が跳ねて暴れ回って、身が持たない。
「え? そんな、廃嫡なんてしないよ!! いくら君の良識が壊滅的に破綻していても、間違いなく公爵家の正統な跡取りなんだから」
と父が真顔で言えば。
「そう……ですわね。確かにルディは粘着型妄執系変質者ですけれど、次期当主としてはこの上なく優秀ですもの」
と硬い表情の母が頷く。
……お父様、お母様。最早それは辛口の評価ではなくて悪口なのではないでしょうか?
「でも、そうだね。確かに、ルディを押さえておけばフィーを私達の手元にずっと置いておけるね」
「それですわ、あなた!! この際ルディの癖その他諸々には目を瞑って、わたくし達で後押ししてあげれば良いのではないかしら?」
「ああ、それは手間が省けて有り難いですね。皆で囲い込めば逃げられません」
何故だろう……美男美女三人が私に向けるお揃いの笑顔が、とんでもなく怖いのだが。
と言うより、私抜きで私の将来が次々と決められているような気が……あの、そこに私の意志は? 意見は? 選択の自由は!?
……あり、ませんよね……?
私の頭上を激しく行き交った話し合いの結果は上々だったようで、三人は満足げ。
「では、父上、母上。これで最初の約束通り、フィーを私に任せて頂けますね?」
だが、女神様も見惚れるだろう魅惑の微笑みを浮かべる兄に、父は急いで渋面を作る。
「ううっ、……仕方、ない。仕方ないけど、フィーの気持ちを最優先に考えるんだよ?」
「当然です。言われるまでもありません」
お兄様。その笑顔、妙に嘘臭いです。
母はなんだか不服そう。ぷくっと頬を膨らませて、また私に抱き付いた。
「でも、こんな幼いフィーに無茶はさせられないわ!!」
「往生際が悪いですよ、母上。誓って無茶など致しません。精々、可愛がって撫でる程度です。……まあ、半年間は私も自制しますが、その後は……」
うん? 半年後? それって私の誕生日の事かなぁ?
でも、無茶って、誰が?
撫でるって、……何を?
そんな風にたくさんの疑問符を浮かべる私に気付くと、兄は殊更に艶っぽく笑った。
「ふふ、これでまた、ずっとお前を私の側に置いておける。私の可愛いフィー、愛しているよ」
言うなり、母の手から容易く私を奪い取り、その腕の中に閉じ込めた。逞しい胸に顔を埋めた私は兄の香りと甘い声音に酔ってしまい、ふわふわとまるで夢心地。耳元に寄せられた唇から零れる吐息の熱さと、痛いくらいに激しく打つ胸の鼓動が、これが現実なのだと教えてくれるけれど。
だけど、とても幸せで。
ずっと、こうしていられたなら良いのに。
ああ、でもいけない。
その為には、ちゃんと訊かなくては。
ちゃんと、確かめなくては。
そして私はなんとか兄を説得し、その腕から逃れ、未だ胸中で滞る苦い気持ちを思い切って吐き出した。
「あ、あの、私、その……本当に、これからも、此処にいても良いのでしょうか……?」
きょとんとする三人。
そんな顔も、よく似ていて。
羨ましく思う。
父や母、兄が、それを望んでくれていると知って、とても嬉しかった。
だけど、他の皆はどうなのだろうと今更ながら不安になる。
執事長と侍女頭を筆頭に大勢いる使用人達。彼等が妖精の子の私を認めて受け入れてくれるのか……不安で仕方ないのだ。
くすくすと、笑ったのは誰なのか。いや、三人供かな?
「フィー、見てごらん」
父が指差す方、言われるがままに目をやれば──
「え? ジョセフ!?」
目にした光景は私を大いに驚かせた。
執事長を務めるジョセフ・ウッズバルト。寡黙で温厚、どのような事態に直面しても泰然と職務を全うする彼が、号泣している。それも凄い勢いで。なんなら魚が遡上出来そうなくらいの涙を流して。
「うふふ。ほら、フィー、あちらもご覧なさいな」
鈴を転がすように軽やかに笑いながら、母は私の肩を優しく抱き寄せた。
……扇で兄の手を強かに払い落とすさまは殺気立っていて、ちょっとだけ……怖かったけれど。
そうして教えられた通りに見てみれば。
「……セシアンヌまで?」
侍女頭まで、まさかの大号泣である。
セシアンヌ・コッツア。名門貴族の出である彼女は礼儀作法に厳しく、私の淑女教育に関しては母より熱心なくらいだ。
淑女たるもの、いついかなる時も感情を露にしてはいけないと口酸っぱく言い、それを自ら実践しているそんな彼女が手にしたハンカチは、既に役目を果たせなくなっていた。
「皆、嬉しいのです。お嬢様がまだまだ私達のお嬢様でいて下さる事が、泣いてしまう程に嬉しいのですよ」
「ナタリア……」
何が起こっているのか分からず、呆然と立ち尽くす私の手をそっと取って、優しい彼女が微笑んだ。
「私も同じです。またお嬢様にお仕え出来る事が幸せで堪らないのです」
「お、お嬢様ぁ!! ううっ、お嬢様ぁぁぁ!!」
「うぐぅっ!? ……チ、チェイン?」
感動的な場面だったのに。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしたチェインが私の腰の辺りに突然、横から、しかも結構な勢いで飛び付いてきたのだ。衝撃で妙な呻き声が出てしまって恥ずかしい。
と言うか、いつ復活したの?
少し前に見た時は、ナタリアによって部屋の端に転がされていたのに。
「お嬢様ぁ、私、私だって、嬉しいんですぅ!! 私だって、お嬢様が大好きなんですよぉ!!」
全力で愛の告白。私よりお姉さんなのに私より年下みたいに思えて、しがみついたままのチェインの頭をなでなでしてみた。そうしたら、また感涙に咽び、腕の力が強くなって。
「い、痛い、痛たたた」
悶絶していると、兄が近寄りチェインの首根っこを無造作に掴んで。
ぽーん。
と乱暴に放り投げた。
「これで分かっただろう? この家の者は皆、お前を必要としている。フィーがこれまで私達に与えてくれた愛と、これから与えてくれる愛に勝るものなど何もないのだ」
後ろで、猫のように毛を逆立てているチェインに見向きもせず、氷の美貌をとろとろに蕩けさせて兄は微笑む。
「フィーへの愛の前では血の繋がりなど些末な事だ。だからどうか、もっと素直に私の愛を受け入れておくれ?」
兄の綺麗な指が、私の頬から顎までをそっとなぞった。
髪を一房、掬い取って、キスを落とした。
そして、鼻先が触れ合う手前まで麗しい顔を寄せた。
何もかも美しい人。
私の目は釘付けで。
優しく、甘く笑んでいるのに。
私の胸はどきどきと鳴るのに。
どうしてなのか。
つぅ……と、冷たい汗が背筋を滑り落ちていった。




