15『お父様は狡い』
「お兄様……降ろして下さい」
「何故? 別にこのままでも問題はないだろう?」
問題は……ないと言えばないのだけれど、私の精神衛生上あまりよろしくはないのです。それに何故かは分からないのだけれど『代理人』の男がずっとこちらを睨んでいて、どうにも落ち着かないのです。
「私は逃げません。ずっとお兄様のお側にいますから」
見つめて哀願すれば、兄は僅かに表情を変化させた。それは多分、私しか気付かない程度の、ほんの僅かな変化。
……ああ、また不貞腐れている。本当に面倒で困った人。なのにとても、愛しい人。
側にいると伝えた手前、残る事は大前提なのだが、残るにせよ……もし去るにせよ、私はきちんと両親と話し合わなくてはならない。
その気持ちは兄にも充分に伝わっている筈だ。だから実に渋々とではあったが、彼は私のお願いを聞いてくれたのであった。
真正面に向き合うと、緊張して言葉が上手く出せない。そんな私を気遣って先に切り出したのは母だった。
「フィー、貴女はね、わたくしの宝物なの」
母は私の手を取ると自分の両手でそっと包み、労るようにあやすように、私の手を繰り返し撫でた。その手が柔らかくて暖かくて、とても優しくて、私は泣き出してしまいそうになる。そんな私の顔が可笑しかったのか、母の目元がふわりと和らいだ。
「貴女が、わたくしを母親にしてくれたのよ?」
それから母はちらりと私の背後の兄に視線をやって、
「ルディはほら、なんと言うのかしら……放っておいても勝手に大きくなっていたし、可愛げもないし、今も昔も変な子なのだけど」
何気に母の兄への評価は辛口だ。大変に優秀な、自慢の息子だろうに、何故だろう?
「赤ちゃんの頃の貴女はとにかく身体が弱くてね。おっぱいは吐き戻すし、よく熱を出して、夜泣きもしたわ。毎日、本当に目が回る程に忙しかったの」
「私も出来るだけ仕事を早く終わらせて、急いで帰って来たものだよ」
母に寄り添い父がそう言えば、二人は顔を見合わせて笑った。
「歩き出したならまた、全然じっとしていない子だったわ。よく転ぶし色々ぶつけては痣を作るし、毎日わたくしやナタリアを困らせたものよ。ああ、池に落ちたと聞いた時にはもう……心臓が止まるかと思ったわ」
ううっ、なんだか過去の恥ずかしい話が次々と暴露されているのだけれど。
……お兄様、声を殺して爆笑するのはお止め下さいませ!
「どんな小さな出来事でも全て覚えているわ。貴女がくれたこの十四年の一日一日が、全てわたくしの宝物なの」
母の、燃え盛る炎のようなカーマインの瞳がじわりと滲んだ。少女のように愛らしい顏を淡く色付かせ、晴れやかに微笑んだ。
「貴女が、わたくしを育ててくれたの。何も出来なかったわたくしを母親にしてくれたのは貴女なのよ。貴女と一緒に育ってきた日々は全てわたくしの大切な思い出なの」
「お母様……、でも、でも……」
だけどそれは、私でなくともよかったのではないのか?
私だから作れた思い出では、決してないのだもの。
「そうね……、きっと貴女でなくったって思い出は作れたのでしょうね」
「──っ!!」
私の卑屈な胸の内など簡単に見透かす母の苦笑に、私は身を竦ませた。だけど母は静かに首を振る。
「でもね、それでも十四年を一緒に過ごしたのは──家族なのは、やっぱり貴女なの。他の誰にも代わりは出来ないし、他の誰ともこの思い出は作れないのよ」
母の手に熱が増した。私の手を握る手にまた力が込められたのだ。
「フィー、有り難う。たくさんの思い出をくれて、わたくしの娘になってくれて本当に有り難う。貴女はわたくしの自慢の娘、たった一人の最愛の娘よ、フィオネッタ」
まるで大輪の花が咲き誇るようだ。鮮やかに華やかに、美しく微笑んだ。
「でも……でも、フィオネッタという名前も、お母様の本当の娘であるリリーナ様に付けられるべきもので、私の身には余る名前で……」
「それは違う」
静かに、しかしはっきりと、兄は私の言葉を否定する。
「お前の名前だ。私が付けたその名前は『父上と母上の娘』ではなく、お前の名前だ」
「お兄様……が、私にこの名前を付けて下さったのですか……?」
「ええ、そうよ。貴女が産まれた時にね、ルディが『その子の名前はフィオネッタです』って、断言したのよ。だからその名前は間違いなく貴女の為の名前なの」
茶目っ気たっぷりにウインクされてしまえば、いよいよ私には逃げ道がなくなってしまった。それでも胸には、喜びや幸福感よりもリリーナへの罪悪感が勝って、居たたまれなくて、辛くて。
「私……でも私、私が、居座ってしまったら……リリーナ様のいるべき場所を私が奪ってしまったら」
「そうじゃないよ、フィー」
優しく諭す声は父のもの。
「これはね、私達の我が儘なんだ。私もお母様も君を手離したくなくて……、君がたくさん悩んで苦しんで考えて、そうやって決めた心を、振り絞った勇気を踏みにじってでも、側に置いておきたいんだ」
自嘲気味に言って父は、私の空いている方の手を取って、母と同じように自分の両の手で包み込んだ。その手は母の柔らかい手とは違って硬くてごつごつとしていて、ペンだこのある手。だけど暖かくて、とても優しい手。
「君に軽蔑されてしまうかもしれないけれど、一度しか会った事のない実の娘よりも君の方がずっと大切なんだよ。彼女と話していてもね、ああ、フィーならこう言うなあとか、どう思うのかなあとか、そんな事ばかり考えてしまうくらい私の頭の中は君の事で一杯なんだ。それくらい、君を愛してるんだよ?」
父の、兄と同じ切れ長の眦が甘い弧を描く。その奥の瞳に浮かぶ深い愛情が、私の胸を強く貫いた。
ぽろぽろ、ぽろぽろと、頬を伝った涙が熱い。
ああ、もう駄目だ。
誰かの犠牲の上にある幸せだと知っているのに。
身体が喜びに打ち震える。
「!? フィー、どうしたの!? ……もしかして、わたくしの事、冷たい、酷い母親だって幻滅した? 嫌いに……なってしまったの?」
突然、泣き出してしまった私に母は青褪め、おろおろと狼狽えた。
「違い……ます、違う……けど、だけど……私……」
嬉しくて、ただただ嬉しくて。
だけどそんな自分が酷く醜悪に思えて、恥ずかしくて、父母の顔が見れなくて。
その時、不意に、父が軽やかに笑った。顔を上げた私をじっと見つめて、
「フィー、一つだけ訊かせておくれ。君は、こんな身勝手な私は嫌いかな?」
これは狡い。そんな、眉尻と目尻をぐんと下げて、捨てられそうな仔犬みたいな顔で訊ねられたなら、私のちっぽけな自己嫌悪など簡単に吹き飛んでしまうのに。
「……お父様のそういう所、お兄様にそっくりです……」
「つまり、それは?」
どうあっても言わせたいらしい。私の恨みがましい視線を受けてもどこ吹く風、目を輝かせる父に不安げな母まで加わって、二人して私の返事を今か今かと待つ。ああ、もう、そんなの訊くまでもないくせに、やっぱり兄と一緒で意地悪だ。
「……好きです、大好きです、私もお父様とお母様が大好きで、……愛しています」
言葉にすればなんと単純で、素直に胸に落ちてくるのか。一人で悩んでいたのが馬鹿らしくなるくらいに、両親はその深く大きい愛で私を包み込んでくれていたのだ。
しかし根比べで父に勝てる人なんているのだろうか?
結局いつもこうやって、私が先に白旗を掲げる事になるのだもの。
「さて、これでご理解頂けたかな?」
感極まった母による、息も出来ないくらいの激しい抱擁に悶絶する私の側で、父がそう問い掛けた相手は自称『代理人』の男だった。
「……では、全てを納得の上で、今まで通り『家族』を続けると?」
男は低く呻き、鋭く父を睨み付けた。そんな視線など微風のように受け流す父は、肯定の代わりとばかりに晴れやかに微笑んだ。
「……なんだよ、この大団円はさぁ? ああ、つまんねぇ」
暫くの沈黙の後、男は整えた髪をぐしゃぐしゃに掻くと、ため息と共にそんな言葉を吐き出した。
……ん? 急に態度と口調、悪くなっていませんか?




