14『犬か猫か』
オルディアス・モンドレイという人物を評する時、誰もが口を揃えて『冷静沈着で常に先を見ている』と言う。
きっと、そうなのだろう。
どんな時でも、口元には余裕の笑みを絶やさない。
私の、どのような些細な言動も全て把握していて、いつだって私を驚かせる。
今日もそうだ。
私が家を出ようと計画していた事を知っていた。
私が本当の妹ではないと知っても驚かなかった。
……まあ後者に関しては、最初から疑っていたのだろうから単に納得しただけだとは思うけれど。
そんな人だからこそ余計におかしいのだ。
そんな人が、この程度の事で取り乱すだろうか?
こんな事で激昂し声を荒立てたりするのだろうか?
私にとって兄は……意地悪な人である。
いつも私を軽やかに翻弄しては、私の反応を観察し愉しげに笑むような人だ。私が赤面して涙ぐめば、目を細め恍惚とするような人だ。
だけど誰よりも私を愛して甘やかしてくれる、優しい人。
そんな人が、今日は何故か執拗に私を追い詰める。
強い言葉を投げ掛け、私の怒りを引き出そうとする。どう言えば私が傷付くのか怒るのか、熟知している彼ならば誘導するのは容易いだろう。
そう、まるで怒りに任せて私が口を滑らせるのを狙っていたように。
でも、まさか。だってなんの為に? 私を怒らせて一体、何を言わせたいのか。
……あれ、私、言わされた?
まさか、まさか。私にあの言葉を言わせる為だけに、わざと私を怒らせたなんて?
「お……お兄様、あの……」
恐る恐る見上げて私は、自分がまんまと罠に嵌まったのだと悟った。
「勿論、知っている。お前に恋慕う男がいる事を。そしてそれが誰なのか──という事も、全て」
ゆったりと笑う。そのなんと美しい事か、傾国の美女でさえ裸足で逃げ出すだろう。
私もそうしたい。
回れ右して全速力で逃げたい。手を離してくれそうにもないから無理だけど、
逃げたい。
「いつから……ですか? いつから、全部ご存知で、あのような言葉を、」
「ふむ。いつ? との特定は些か難しいが、敢えて言うならば……最初から」
ぞわりと、全身が粟立った。
最初から──と言った。
では全て、演じていただけだと言うのか?
あの怒りは、私にそう見せていただけ?
「ああ、予め分かっていたとて、お前の口から直接あのような言葉を聞けば腹が立たぬ訳はないぞ?」
魅惑的に微笑して告げられれば一層、恐ろしさが込み上げる。
どうしてそうも的確に私の胸の内を読み当てるのか。
──怖い、人。
今更だろうか? やっと気付いた、この人は決して私を手離すつもりはないのだと。
そして、怯む私の後退りを見逃してくれる人でもない。
流れるように滑らかに、兄の腕が私の腰に回された──と思った瞬間には強く引き寄せられ、抗議の声を上げる間もなく腕の中に閉じ込められてしまった。そのまま優しく抱きすくめられたなら、もう私に抵抗するだけの気概など残されていない。細身のくせによく鍛えられている逞しい胸は、非力な私がどれだけ押し返そうとしてもびくともしないのだから。
以前に一度だけこの胸板を思いっきりぽこぽこ叩いてみたのだが、兄にとっては仔猫にじゃれつかれた程度の事だったみたいだ。だって鉄壁の筈の無表情を完全崩壊させて、可愛い、可愛いと連呼しては歓喜に震えていたもの。
二度とやるまいと心に誓ったのは言うまでもない。
お願いだから、こんな風に抱き締めないで欲しい。腕の力は強いのにとても優しくて、まるで壊れ物を扱うみたいに繊細で慎重で、なのに触れている部分からは狂おしい程の熱が伝わってきて。
彼にとって自分が特別なのではと、勘違いしてしまう。
「どうした? 今日は爪や牙を出して暴れないのか?」
「ひゃあっ!?」
突然、耳元で囁かれ、私の口からは変な声が飛び出した。
熱い吐息が掛かって擽ったいし、心臓はばくばくと跳ねるし、得体の知れない何かが背筋を這い上がってきてぞくぞくして足に力が入らないし。
むむぅ……爪とか牙とか、やっぱり愛玩動物扱いじゃないか。
涙目になっているのを自覚しつつ、悔しい私は精一杯の非難の視線を上へと送った。
そうしたら、まあ、なんとも嬉しそうだ事。
何がそんなに面白いのか。切れ長の目を細め、薄い唇で弧を描き、喉を鳴らして笑う。そして、腹立たしいくらいに綺麗な顔をとろっとろに蕩けさせて、整った長い指で私の頬を繰り返し撫でながら、まさかの一言を放った。
「さて、確かに知っているとは言ったが、ちゃんとお前の口から聞かせて貰いたいものだな? フィー、お前の心にある男の名前を」
「……はい?」
驚いた。驚いてきっと間抜けな顔になっている。
知っているなら訊かなくてもいいでしょう? なんでそこを蒸し返す!?
兄の性格上、実は知らなかったのに知っているフリをしました──なんて事は絶対にあり得ないから、これは単に羞恥に悶える私を観賞したいだけなのだろう。
本当に性格悪い!
なんて意地悪なんだ!
全然、優しくなんてない!!
「……お兄様には、絶対、絶対に、言いません!!」
意地でも言うもんか──そう強く目で訴えたならば。
「……ふっ、はは、あははは!」
「ええ!?」
まさかまさかの大爆笑。あの兄が、声を上げて、笑っている。……なんならちょっと怖い。
珍しいなんてものではない。私だってまず見た事がないのだから、ほら、お父様もお母様も目が点、ぽかーんてなっていますよ?
「……見たかい? エメンダ。僕達の息子はあんな風に笑えるんだねぇ?」
「……ええ、驚きましたわ。ルディもちゃんと人間だったのですわね」
あれ……? お二人共なんだか結構、酷い事を仰ってませんか?
「ああ、やはりフィーは私の心を弄ぶのが上手い」
「!? なんですかそれ! 私がお兄様のお心を弄んだ事なんて一度もありません!!」
一頻り笑い転げた後、目尻の涙を拭いながらの大変ご機嫌な一言に、私は猛然と反論した。弄ばれているのは私の方でしょう?
「ふふ、まあいい。後はゆっくりと聞き出す事にしよう」
「え? きゃあっ!?」
ふわりと身体が宙に浮いた。軽々と抱き上げられ驚いた私がとれだけ暴れても兄は平然としている。その澄ました顔がなんとも憎らしい。そのまま部屋を出ようとする兄を、しかし母が泡を食って引き留めた。
「ちょ、ちょっとお待ちなさい! フィーをどこに連れて行くつもりなの!?」
「私の部屋にですが、それが何か?」
しれっと答える兄に母は柳眉を逆立てた。
「貴方ねぇ!! フィーに逃げられそうになる度に自分の部屋に監禁するのはお止めなさい!!」
「監禁など、人聞きの悪い。私はフィーに不自由な思いをさせた事などありません」
いえ、お兄様。確かに不自由はしませんでしたが、世間一般ではあれは監禁と呼ぶのだそうです。ステイシアがお腹を抱えて爆笑しながら教えてくれましたから。
「とにかく! 貴方の話は終わったのだから、早くわたくしにフィーを返して頂戴!!」
「そうだよ。言っておくけれど、実の息子だろうとそんなに簡単にはフィーはあげないからね!?」
なんだろう……返せとかあげないとか、やっぱり私って愛玩動物なのかなぁ?




