13『愛妾になんてなりませんから』
私は一度、軽く頭を振った。
「忘れた訳ではありません。ですからどうか、そんなに怒らないで下さい」
見上げて懇願すれば、とても美しいロイヤルブルーの瞳が揺らめいた。苦虫を噛み潰した──というやつだろうか、端整な顔を歪ませて短く息を吐くと、私の手を掴む力を少しだけ緩めてくれた。……出来れば離して欲しかったのだけど、まあ仕方ない。
「二年前の事は、忘れられません。とても恐ろしかったから……今でも夢に魘される程に」
そう。
本当に恐ろしかったのだ。
静かに怒り狂うお兄様が何よりも恐ろしかった。
それはあの日の翌日だった。
サラーティカが突然、なんの前触れも寄越さず私を訪ねて来たのだ。これは貴族にあるまじき行為だ、先方の都合も訊かずに押し掛けるなど言語道断である。当然、兄は激怒して──表情を繕う事を完全に放棄した。無表情の兄くらい恐ろしいものはないのに。
しかも、サラーティカの言い分がこれまた酷かった。
『フィオネッタが急に眠ってしまって驚いたわ』と悪びれもせず言い。
『早く帰宅したいって言っていたから馬車を呼ぼうと思ったのだけど、ほら……随分と貧相なもので来たでしょう? あれでは乗り心地も悪いでしょうから、うちの馬車に乗せてあげたの』と軽やかに笑い。
そうして最後に言い放ったのが。
『だからきっと私と間違われたのね、不運で可哀想なフィオネッタ! でも無事で本当に良かったわ』
完璧に作り上げられた笑顔で、目には涙まで浮かべて、歓喜の抱擁を求めたのだ。あり得ないだろう?
あの時の兄の姿は、未だに強烈に私の心に残っている。勿論トラウマとして。
私以外の人にはどうやら無表情に見えるらしい兄だが、私からすれば大変に表情豊かである。嬉しい時と怒っている時の落差が激しいし、ちょっとした事でよく不貞腐れている。一度、不機嫌になると、私が頬にキスをするまでいつまでも不機嫌で困るけれど。
それで、この時の兄はと言うと。
路傍の枯れ花を眺める時でさえ人は何かしらの感情を抱くだろう、なのにそれすら見当たらない程に『無』だった。あんなに無機質な『氷の眼差し』は初めて見た。
しかしよく観察すれば、綺麗な額には青筋。髪から覗く形の良い耳は赤黒く染まり。ほっそりとした顎は僅かに震えている。
……まさしく激怒である。
怖い。とにかく怖かった。
思わず兄の服の袖を強く握れば、気付いた兄が私を見下ろしてほんの少しだけ表情を和らげた。その瞬間の、安堵したような、泣き出してしまいそうな表情に、いつも私の胸はぎゅうっと締め付けられるのだ。
それが歪んだ優越感なのだと今はもう、知っているけれど。
「フィー、私達もルディと同じ気持ちだよ。正直あの子とはこれ以上、関わって欲しくない」
掛けられた言葉に、私は我に返った。
「お父様……、いいえ」
父の言う事は尤もだと分かっている。こんな私をまだ娘として案じてくれている優しさが胸に沁みた。だけど私は静かに、首を横に振る。
「幸いに、あれからは何も起こっていません。それに……あの件にサラーティカが関与していた証拠は何も出なかったのですよね? お父様も、きっとお兄様もお調べになられたのでしょう? だけれども何も出なかった。それが全てです」
そう言うと、私の発言が余程意外だったのか父も兄も沈黙してしまった。やはり彼等にとって私はいつまで経っても無知で愚かな子供のままなのだろうか。それとも、その方が都合が良いのだろうか?
私だって、ずっとお父様の娘で、お兄様の妹でいられるのなら、それでも良かった。いずれ家の為にどなたかに嫁ぐまで何も知らないままでいられたのならその方が良かった。
だけど、あの時に出会った彼が教えてくれた。ヴァルと名乗った彼の存在が、私に大いに影響を与えたのは確かだ。
馬鹿だ馬鹿だと連呼してくれたお陰で、私は自分の無知に気付けた。勉学以外にも学ぶべき事があると知った。
知らない事、分からない話、気になるものは全て調べた。父や兄は私の意欲にあまり良い顔をしなかったので、家の蔵書を読み尽くした後は王立図書館や学園の図書室で色々な書物を手に取った。
ちょうどその頃、臨時教員として学園に来られていた教諭が見兼ねて手伝いを申し出て下さった。
まだお若いのに大変に博識でいらして、察しの悪い私にも根気よく丁寧に指導して下さった。
……はぐれが蔑称なのだと、この時に初めてその意味と謂れを教わった。
それから、知識以外にも知恵を得た。この先、独りで生きて行く為に必要な知恵を。
視野が広がれば選択肢も増える。
あの時に差し出された手を、今でも私が取る事はないけれど、私が自立を考えたのはあの出会いがきっかけだった。辛いなら逃げても良いのだと教えてくれたから、今以上に辛くなる前に離れようと思った。
「関わるつもりなど本当になかったのですが背に腹は代えられません。会うのは少し……怖かったですが、にこやかに対応して頂きました。家を出たいのだと告げると二つ返事で協力を約束してくれました、とても嬉しそうに」
「あの女はそうだろう! だが何故アインベイクにまで頼ったのだ!? あいつがお前にどのような感情を抱いているか分かっているのか!?」
「少なくともアインが私に何か危害を加えようとした事は一度もありません。妙に絡まれる事は何度かありましたが、」
「……交換条件に何を出してきた?」
鋭い声に私は内心、舌を巻く。アインベイクの性格上、無条件で協力するなどあり得ないのだから当然こういった可能性を考えるのだろうけれど。
「……アインは、その、私に……」
言い淀む私に何を察したのか、兄の蒼い瞳に昏い炎が灯る。それはいつも、容赦なく私を追い詰める。
仕方ない、どうせこのまま押し通せるとは思っていなかったし。
からかっただけでしょうけれど──と一つ前置きして、
「彼は、公爵家を出るならば生活も大変だろうから、私に、その……自分の愛妾になれば面倒を見てやる、と……」
「!? ひっ!! ひぃぃぃぃっ!!」
と、当然チェインの絶叫が部屋中に響き渡った。何事かと見れば、真っ青な顔で泡を吹き失神していた──のだが、何故か誰も気にも留めていない。どうやら皆揃って放置を決め込んだようだ。
というか皆の顔が怖いのだが。
どうしたのだろうか……? そう困惑していると。
「愛妾って……どういう事だい?」
お父様、目が据わってます。
「あの子とは少し話し合いが必要なようね?」
お母様、笑顔が怖いです。
「人間如きが……身の程を弁えろ!」
……いえ、あの、どうして貴方まで怒っているのですか?
『代理人』の男が誰よりも激怒している。何故?
しかも目が合えば凄い形相で睨まれ、盛大に舌打ちされた挙げ句、勢いよく顔を背けられた。
よく分からないが──理不尽だ。
「そうまでして……」
「え? ……お兄様?」
不意に耳を掠めた声に私は顔を上げ、そして驚く。
兄が、今まで見た事のない、酷く傷付いたような顔をしていたから。どうしてそんな顔をするのだろうか?
「フィーは、そんな要求を呑んでまで、私から離れたいのだな。……そんなに私の側にいたくないのか?」
澄んだ蒼の瞳が揺れ惑い、儚げに滲んだ。
ああ、なんて残酷な人なのだろうか。
離れたい訳がないでしょう?
ずっと側にいたい。
ずっと、ずっと貴方の側にいたいだけなのに。
あの出会いがもたらしたもう一つの大きな私の変化、それは痛烈に自覚したこの人への想い。
だけどその想いが膨れ上がれば膨れ上がる程に、辛く苦しくて。
だって、奇跡が起こって、私がこの家の本当の子供だったとして、実の兄への恋慕など赦されるものではない。
やっぱり他人だったならば、あまりにも身分が違いすぎる。限りなく王家に近い首席公爵家の嫡男と釣り合いの取れる女性などほんの一握りで、それは決して私ではない。
そんな想いを抱いて側にいる事は、私にはどうしたって出来ない。
「アインにはちゃんと断りました。私はきちんと自立して生きて行きたいのです、愛妾など私には」
「だがお前を欲しがる男なら他に幾らでもいるのだぞ?」
はあ? なんですかそれ? 嫌味ですか? それとも皮肉?
お兄様と違って私には鑑賞に堪えうるような美貌も華やかさもないのだから、手元に置いたってすぐに見飽きますよ。だから余程の酔狂でもない限り私なんかを欲しがる人なんていません!!
だけど私が睨んでも兄は痛痒など少しも感じないのだ。恐ろしく冷めた瞳で私を見下ろし、背筋も凍る笑みを口元に添えて更に責め立てる。
「ああ、それとも別の誰かの愛妾にでもなるのか?」
私の話、聞いてましたか? なんでそこに拘るの!?
「それにアインベイクは諦めが悪いからな、隙あらば口説く」
ああもう、しつこい! 愛妾なんかになる訳ないじゃないですか!! だって私、
「心からお慕いしている方がいるのに、他の人の愛妾なんて出来ません!!」
……あれ、なんだ? 何か……おかしい。
言い放ってやっと、私は大いなる違和感に気付いた。




