12『隕石? いいえ、侍女です』
『おい。お前、名前は?』
不意に問われ私は目を瞬かせた。
……名前?
なんとなくだけど答えたくなかった。答えたら後々、大事になるような気がして。だが口を噤む私に男は獰猛に笑って、とんでもない脅し文句を寄越してきた。
『言わねぇなら、も一回、噛むぞ?』
『フィオネッタ! ……です……』
『ふぅん。で、家名は?』
さすがにそれは言えない。
男も取り敢えずは名前だけで満足してくれたらしい。が、何故か私の名前を呟く。
『……フィオネッタねぇ? どこかの公爵家にそんな名前の娘がいたような気もするが、まあ少なくともラングスの高慢ちきじゃねえって事は確かだな』
──え? まさか気付いているのだろうか? しかしフィオネッタなんて名前、別に珍しくもないと思うのだが。それに自分で言うのもなんだが、今日の質素な服装も相俟って、私を見て貴族令嬢だと思う人はまずいないだろう。
『わ、私は貴族ではありません。私は騙されて、あの馬車に乗せられただけです』
それらしく訴えてみたのだが男の反応は今一つ、どころか寧ろ呆れられたような気がする。憐れみをたっぷりと含んだ眼で私を見て、言った。
『お前、馬鹿なのか? それともただの世間知らずか? フィオネッタなんて名前、平民が付けられる訳ねえだろうが?』
え? ……そうなの?
『純粋培養が過ぎんだろうがよ。……成る程なぁ、噂は本当だったって事か』
ぽかんとする私に露骨に嘆息する男は小さく何かを呟いた後、急に私の顎を掴んで上向かせ、鼻先が触れ合う程に自分の顔を近付けた。
『な、何を、』
『ああ、残念だな、もう戻っちまったか。それにしても一体お前、何が混ざってるんだ?』
……私を知らない筈の、出会ったばかりの人でさえそんな違和感に辿り着く程、私の外見はやはりおかしいようだ。意地悪な従姉妹が言った、おかしな色の子という表現が正に的を射ていて、泣きたいのか嗤いたいのかそれすらも分からなくなる。
私は出来損ないなのだと、
改めて思い知らされて、
私の心は停滞するのだ。
だが突然の変異で、私の時間はまた動き出す。
『なんだ? 何か……降って……、!?』
ドゴーーーーン!!!
それは隕石の墜落を彷彿とさせた。遠方より飛来した何かが轟音を立てて着地し、激しく地面を揺らしたのだ。
その衝撃の凄まじさに居合わせた全員が絶句した。あの屈強な男達が──である。
『お嬢様から離れろ』
地を這うように低く重い声。そこには小さな人影が確かにあるのだが、もうもうと立ち上がる土煙が邪魔をしてはっきりと見えない。だけど、この声には聞き覚えがあって。
長いような短いような静寂。誰もが固唾を飲んで見守る中、次第に収まる土煙の向こうに現れたのは。
『チェイン!』
やっぱり。ほんの少し前に別れた、私の愛らしい侍女が、なんともその容姿に適わない形相で仁王立ちしていた。陥没しひび割れる足元も加わって大変に恐ろしい様相を呈している。
『誰だお前? ……その格好、侍女か? いや、なんで侍女が空から降ってくるんだよ?』
私を背後に庇いながら首を傾げる男に、私は心の中だけで大いに同調する。
『お嬢様から離れろと言っている』
『はあ? 惚れた女を抱くのになんで誰かの許可がいる?』
それだけで人を射殺せそうなチェインの眼差しをさらりと受け流して、男はわざとらしく軽薄に笑う。更に続ける言葉には挑発的な響きが色濃く滲む。
『……チェインって言ったか? その眼、その名前。そうか、お前……山猫だな?』
ぴくり、とチェインの形の良い耳が動いた。それに気を良くしたのか、男はくつくつと喉の奥を鳴らして嗤う。
『十年程前に本業でしくじって消去された──って話だったが、まさかこんな小娘の御守りをしてるとはな。一族始まって以来の傑作とまで褒めそやされた狂った山猫がなぁ』
『黙れ!! これ以上、お嬢様の耳を穢す事は赦さない』
『はっ。そうやって汚いもんを他人が勝手に片付けちまうから、こいつはなんにも知らない馬鹿のままなんだ。護るのと、甘やかすのは、別だろうが?』
『はぐれ如きが、お嬢様を侮辱するなっ!!』
激昂するチェインの周りが不安定に揺らめいた。魔力を持たない私にも分かるそれは、激しい憤りに自身の支配を振り切って顕現してしまった魔力だ。完全に制御を失ってしまえばそれは枯渇するまで放出を続け、最後は──
『チェイン、駄目です! 落ち着いて──きゃあっ!?』
とにかくチェインを止めなくてはと男の前に飛び出した私だったがすぐに捕まり、そのまま後ろから羽交い締めにされてしまった。
『は、離して下さい』
『こんな物騒なもんをここまで手懐けてるとは、さすがモンドレイのご令嬢だなぁ?』
耳元で低く囁く声に、私は言葉を失い青褪める。だが男はお構いなしにこう続けた。
『悪いな、盾にさせてもらうぜ』
『その汚い手でお嬢様に触れるな!!』
『おいおい、良いのか? そんな大雑把な制御じゃ、こいつまで傷付けるぞ?』
その一言にチェインが息を呑んだ。男に対する苛立ちは膨れ上がる一方なのに、完全に足が止まってしまった。
『は、離して! 離して下さい!』
大変な事になってしまった。だが暴れても、男の拘束力が強まるばかり。なんとしてでも逃れなければ──しかし私が無様にもがく程にチェインの焦りは増し、魔力の揺らぎは一層、激しくなる。
『暴れんなって。別にお前を傷付けさせるつもりはねえ』
──盾にすると言った口でよく言うものだ。
顔だけ振り返って睨めば、男は少しだけ困った風に笑う。
『なあ、……お前も一緒に来ないか?』
『……え?』
私にだけ聞こえるように小さく囁かれた問い掛け。それは驚く程に優しく穏やかで、なのにとても、淋しく響いた。
『何を……、馬鹿な事を、』
『辛いんだろ? 魔力も持てず嗤われ蔑まれ、自分だけが皆と違うと、独り泣いていたんだろ?』
抱き締める腕に力が込められる。苦しくて顔を顰めるが、それ以上に心が苦しかった。
だって男が、まるで、自分がそうだったんだと叫んでいるようで。
『俺と来い。お前を煩わせるものは全て棄ててしまえ。こんな下らないものに振り回されて人生、終わらせるな。俺の手を取れ、フィオネッタ』
激しく、心が揺さぶられた。
差し伸べられた手が酷く甘美に感じられた。この手を取れば私は笑って暮らせるのかもしれない、だけど私は──
『何処へでも行けば良い。だが、その子は返して貰う』
その酷薄な声を切っ掛けに突如、強い冷気が足に絡み付いた。
『!? なんだ? 足が、』
男が驚愕の声を上げた。見れば男の足は、足首を掴んだ透明な氷によって地面に縫い付けられていた。
『迎えに来たよ、フィー。さあ、一緒に帰ろう』
氷点下にもなる真冬の、痺れる程の冷気を彷彿とさせる気配を漂わせながら、まるで麗らかな春の陽射しのように微笑む。
『……お兄様……』
僅かに掠れる声に兄の笑みは一層、深さを増す。誰も彼もを魅了する美貌に極上の甘さを載せているというのに、私は形振り構わず今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られた。
『……チェイン・ヴィード』
『ひぃっ!! は、はい、わ、若様、あの、私、あの』
全てを凍結させるような声にチェインは竦み上がった。気の毒なまでに青褪め、小さな身体をガタガタと震わせている。あまりの恐怖に魔力の暴走も鎮まったようだ。
『お前には懲罰を与える』
告げる声の抑揚のなさが余計に恐ろしさを増幅させるのだろう、とうとうチェインは悲鳴を上げて座り込んでしまった。
『まさか歴代最強と誉れ高い次期当主様までお出ましとはなぁ。……あの山猫が腰抜かすなんざ、一体どれだけのバケモノなんだよ』
そう軽口を叩くが、男の声は確かに震えていた。
『……私のものに軽々しく触れたお前を幾ら切り刻んでも腹は収まらぬが、フィーに血など見せたくはないのでな。歯向かわぬのならば、手は出さん』
『はっ、お優しい事で。だがこうやって、こいつを前に出されたら手出しは出来ねぇだろうが』
『関係ない。私の氷刃は寸分違わずお前を貫く。フィーの髪一本にも触れずにな』
そう言って手を翻せば、兄の周囲に数え切れない程の氷柱が浮かび上がった。極めて殺傷能力の高い鋭利な尖端が、一斉に男の方に向けられている。奥歯をぎりりと噛み締めて、男は低く唸った。
『くそったれが。……見逃すってのは、本当だな?』
『ああ、約束しよう』
とんっ、と男が私の背を軽く押した。数歩、たたらを踏んだ私は、待ち構えていた兄に受け止められた。
『じゃあな、お嬢ちゃん。ああ、それと、あの馭者を殺したのは俺達じゃねえからな』
私が振り返った時には男の姿は馬上にあって、同じようにそれぞれ馬に跨がった男が数人、彼の周りに。
『ま、待って、──貴方の名前は?』
我ながら、なんと素っ頓狂な問い掛けかと思うが、どうしても訊いておきたかった。私ととても似ていて、私とは真逆の彼の、名前を。
思いがけない質問だったのだろうか、男は一度だけ大きく瞠目して、
『シュヴァルツ……いや、ヴァルだ、俺の名前はヴァル。なんもねぇ、ただのヴァルだ』
それから笑って、そう言って。遠ざかる後ろ姿がなんだか少しだけ嬉しそうだったのはきっと、私の気のせいじゃないと思う。
こうして私の、大変な一日は終わりを告げたのだった。
過去話、一応、終了です。思ったより長くなりました……。




