第2話 騎士団長の、十年分の痛み
「王宮騎士団長、アイリス・ローレンだ。ここに、痛みを引き受ける治療師がいると聞いた」
治療院の小さな待合室が、しんと静まりかえった。
銀の鎧。
腰まである長い銀の髪。
背筋をまっすぐのばした、背の高い女の人が立っていた。
王国でいちばん強い騎士。
悪魔との戦いで、何百人もの兵を救ったという英雄だ。
待合室の患者たちが、あわてて立ち上がって頭を下げた。
「ほ、本当に来た……」
リーネが、俺の袖をつかんでふるえている。
「俺が、ペインです」
俺は、一歩前に出た。
アイリスは、俺をじっと見下ろした。
鋭い目だった。でも、その目の下には、濃いくまがあった。
「……若いな」
「よく言われます」
「単刀直入に言う。私の痛みを、引き受けてもらいたい」
アイリスは、左の肩の鎧を外した。
待合室の誰かが、小さく息をのんだ。
白い肩に、黒いひびのような傷が走っていた。
ひびは、肩から首の近くまで、木の根みたいに広がっている。
傷のまわりの肌が、ときどき、どくん、と脈を打つように動いた。
「十年前、悪魔との戦いで受けた傷だ。呪いがかかっていて、どんな回復魔法でも治らない」
アイリスは、淡々と言った。
「痛みは、十年間、一日も止まったことがない。眠る時もだ」
「十年……」
リーネが、口元を押さえた。
「王宮の治療師は、みんなさじを投げた。だから、うわさを聞いて来た。笑ってくれていい。騎士団長が、町の治療院に泣きついているんだからな」
「笑いませんよ」
俺は、首を横にふった。
十年。
俺が二年で抱えた痛みの、五倍。
それを、この人は一人で、ずっと我慢してきた。
「ただ、先に言っておきます」
「なんだ」
「呪いの傷を引き受けたことは、ありません。どうなるか、わかりません」
「それでも構わない」
アイリスは、まっすぐ俺を見た。
「少しでいい。一晩でいい。痛くない夜を、もう一度だけ知りたいんだ」
―――
診療室の寝台に、アイリスが横になった。
俺は、黒いひびの上に、そっと手を当てた。
【痛みの肩代わり】。
「——っ!」
来た。
肩が、焼けた鉄をおしつけられたみたいに熱くなった。
熱いのに、骨の奥は凍るように冷たい。
その痛みが、どくん、どくんと、脈を打つたびに押しよせてくる。
二年間、いろんな痛みを引き受けてきた。
斧の傷も、毒も、骨折も。
でも、これは違う。
(これを……十年……?)
歯を食いしばった。
額から、汗がぽたぽた落ちる。
「ペインさん!」
リーネの声が、遠くに聞こえた。
その時。
痛みの奥に、何かが見えた。
黒い影だった。
形のない、煙のような影。
その中で、赤い目だけが二つ、こっちを見て笑った気がした。
《……ほう。この痛みを、吸う人間がいるとはな》
頭の中で、低い声がした。
《その痛みは、我の食事だ。十年かけて、じっくり育てた、上等な痛みだぞ》
(お前が……この呪いを……)
《我が名はグラシオ。痛みを食らう者。体は持たぬ。痛みと、恨みのある人間に宿るのだ。……お前のまわりには、いい恨みの匂いがするな》
声が、すうっと遠ざかった。
―――
「……ペインさん! ペインさん!」
気がつくと、リーネが俺の肩をゆさぶっていた。
「だ、大丈夫だ……」
俺は、ふらつく頭を押さえて体を起こした。
左の肩に、黒いひびが浮かんでいる。
アイリスの肩と、同じ形の。
痛い。
でも、耐えられないほどじゃない。
二年間で、痛みには慣れている。
寝台の上で、アイリスが、ゆっくり目を開けた。
「…………」
彼女は、自分の左肩に、そっと触れた。
黒いひびが、消えていた。
白い肌だけが、そこにあった。
「……痛く、ない」
アイリスの声が、かすれた。
「十年間、一度も、消えなかったのに……」
それから、王国最強の騎士団長は、子どもみたいに、声を上げて泣いた。
―――
その夜。
俺は、治療院の裏の井戸で、肩に冷たい水をかけていた。
じんじんと、黒いひびが痛む。
でも、引き受けた時ほどじゃない。
少しずつ、俺の体になじんできている気がした。
「ペイン」
ふり返ると、アイリスが立っていた。
鎧を脱いで、白いシャツ一枚。
昼間よりずっと、やわらかい顔をしていた。
「……ありがとう。礼を言いに来た」
「いえ。仕事ですから」
「仕事で、十年分の呪いを引き受けるやつがいるか」
アイリスは、少し笑った。
それから、真剣な顔になった。
「お前、引き受けた時、何か見なかったか」
「……煙みたいな影を見ました。グラシオ、と名乗っていました。体はない、痛みと恨みのある人間に宿る、と」
アイリスの目が、すっと鋭くなった。
「やはりか。十年前、私に呪いをかけた悪魔だ。人の痛みを食べて、力にする。あの時は、戦場で仲間を恨んでいた兵士に宿っていた」
「『お前のまわりには、いい恨みの匂いがする』と言っていました」
「…………」
アイリスは、夜空を見上げた。
「お前のまわりの、恨み……」
アイリスは、何かを考えるように、目を細めた。
「ペイン。お前を恨んでいる人間に、心当たりはあるか」
俺は、少し考えてから、首を横にふった。
「恨まれる覚えは、ないですね。……追い出したのは、向こうですから」
「来るなら、来ればいいです」
俺は、肩の黒いひびに触れた。
「この痛みは、もう俺のものですから」
その時の俺は、まだ知らなかった。
二年間、そして今夜、引き受けてきた痛みが。
俺の中で、静かに、たまり続けていることを。
面白いですか? どうですか?




