第七話「覗く影と光」
裏庭へ戻る足取りは、さっきよりもずっと重かった。
庭側の戸をくぐった瞬間、青臭い草の匂いがまた鼻の奥へ入り込んでくる。
湿った土。
古い植木鉢。
壊れたプラスチックの箱。
建物の陰になった、細長い空間。
全部、さっきと同じだった。
けれど、僕の中だけが違っていた。
さっきは一人でここへ入った。
今は、春彦おじさんと小林さんが後ろにいる。
それだけなのに、裏庭の空気が急に現場らしくなった気がした。
小林さんは、庭側の戸の手前で一度足を止めた。
「隼人くん」
「はい」
「場所を教えて。近づきすぎなくていい。指で示すだけで」
その声はやさしかった。
でも、はっきりと線を引くような響きがあった。
僕は頷いた。
さっき自分が歩いた場所を、もう一度たどる。
置かれた物に触れないように、足場を選びながら奥へ進む。
突き当たりを左に折れると、表の通りの音が少し遠ざかった。
ここだ。
建物の裏側。
白っぽい外壁。
下の方に生い茂った草。
その一部だけが、押しつぶされたように倒れている場所。
僕はそこで足を止めた。
「そこです」
声が少し掠れた。
「草が潰れているところ。その奥の、壁の下の方に……」
僕は指を差す。
「黒い穴みたいなものがあります」
小林さんの顔つきが変わった。
さっきまで僕に向けられていた気遣いが、すっと奥へ引いていく。
代わりに出てきたのは、現場を見る刑事の目だった。
「触ってない?」
「鍵穴には触ってません」
「草は?」
僕は言葉に詰まった。
一瞬、触っていないと言いかけた。
けれど、それは違う。
さっき僕は、見えないからといって、押しつぶされた草を少しかき分けた。
「……すみません。触りました」
小林さんの目が少し鋭くなる。
「どこを?」
「押しつぶされた草のところです。穴をよく見ようとして、少しだけ……」
言いながら、胸の奥が冷たくなっていく。
隠していたことを話した直後なのに、また僕は何かを間違えていた。
小林さんはすぐには怒らなかった。
でも、その沈黙の方が怖かった。
「わかった。正直に言ってくれてありがとう」
そう言ってから、小林さんは続けた。
「でも、次からは絶対にしないで。現場では、草一本でも証拠になることがある」
「はい……」
「悪気がなくても、証拠は壊れる。そこは覚えておいて」
僕は頷くことしかできなかった。
小林さんはすぐにスマートフォンを取り出した。
「小林です。今、庭側で確認したいものが見つかりました。鑑識を戻してください。裏手の外壁です。……はい、触らずに保全します」
電話を切ると、小林さんは僕と春彦おじさんへ向き直った。
「ここから先は、私の指示があるまで動かないでください」
「わかった」
春彦おじさんが答える。
僕も慌てて頷いた。
さっき、すぐに言わなかった。
草にも触ってしまった。
そのことが、今さら重くのしかかってくる。
もし僕が草を踏んでいたら。
もし、知らないうちに何かを動かしていたら。
もし、そのせいで大事なものが消えていたら。
考えるほど、喉の奥が乾いた。
小林さんは僕の顔を見た。
「隼人くん。今は、責める時間じゃないから」
「……はい」
「でも、覚えておいて。現場では、見つけた人が一番危ない。悪気がなくても、証拠を壊すことがある」
その言葉は、静かに刺さった。
少しして、庭側の戸の方から足音が聞こえた。
戻ってきた警察官と、手袋をした人が二人。
一人はカメラを持ち、もう一人は銀色のケースを抱えている。
小林さんが簡単に状況を説明する。
「第一発見は隼人くんです。壁の下部に鍵穴のようなものを確認したとのこと。本人は鍵穴には触れていません。ただ、確認の際に草へ接触しています」
第一発見。
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
まただ、と思った。
また僕が第一発見者なんだ。
昨日は、御堂さんを見つけた。
今日は、壁の下に隠れた鍵穴を見つけた。
見つけたくて見つけたわけじゃない。
でも、僕の目に入ってしまった。
誰かが死んだ場所で。
何かが隠されていた場所で。
僕だけが、それを先に見てしまう。
そのことが、少し怖かった。
鑑識の人たちは、僕よりずっと慎重だった。
草に近づく前に周囲を写真に撮る。
靴を置く位置を確認する。
小さな札を置き、角度を変えながら何度も撮影する。
草。
壁。
土。
穴の位置。
壁の汚れ。
一つずつ、何かの意味を持ったものとして扱われていく。
さっきまで、僕にはただの裏庭に見えていた場所だった。
「隼人」
春彦おじさんが低く呼んだ。
「はい」
「ちゃんと見ておけ」
「何を?」
「鑑識の動きだ」
僕はもう一度、鑑識の人たちを見た。
写真を撮る。
位置を確認する。
記録する。
触る前に、残す。
春彦おじさんは、視線を外壁へ向けたまま言った。
「知りたいなら、まず壊さないことだ」
その声に責める響きはなかった。
でも、僕がさっき何をしてしまったのか、ちゃんと見透かされている気がした。
「……うん」
しばらくして、鑑識の一人が草の倒れた部分を確認した。
「踏み跡かどうかは、ここでは断定できません。ただ、自然に倒れた感じではないですね」
小林さんが頷く。
「穴は?」
「あります。鍵穴に見えます」
その言葉が聞こえた瞬間、僕の心臓が強く鳴った。
見間違いじゃなかった。
やっぱり、そこには鍵穴があった。
小林さんが少し身を乗り出す。
「壁に?」
「はい。下部に縦長の穴があります。ただ、かなり低い位置です。普通の出入口の鍵穴とは違いますね」
春彦おじさんが、それまで黙っていた口を開いた。
「秋名」
「何ですか」
「壁全体を見ろ」
小林さんが春彦おじさんを見る。
「壁全体?」
「ああ。穴だけ見るな」
春彦おじさんは、少し離れた位置から外壁を見ていた。
腕を組み、目を細めている。
いつもの怖い顔だったけれど、その目はただ鋭いだけではなかった。
何かを探している目だった。
小林さんも少し後ろに下がり、外壁へ向き直る。
僕も、つられるように見た。
灰色がかった白い壁。
黒い雨だれの跡。
下の方に伸びた草。
ところどころに汚れとひび。
最初は、何もわからなかった。
ただの壁にしか見えない。
でも春彦おじさんは、静かに言った。
「鍵穴があるなら、鍵で動く何かがあるはずだ」
僕は息を止めた。
鍵で動く何か。
つまり、扉。
でも、そこには扉なんてない。
「この辺りだ」
春彦おじさんが、直接触れないように少し離れたまま、壁の一部を視線で示した。
「雨だれに紛れているが、縦に線がある」
小林さんが目を細める。
鑑識の人がカメラを構え、壁の表面を撮った。
僕も必死に目を凝らした。
すると、見えた。
本当に、うっすらと線があった。
最初は汚れだと思った。
雨の跡か、ひび割れか、壁の模様だと思えば見逃してしまうくらい細い線。
でも、よく見るとそれは、まっすぐ下へ伸びていた。
その横にも、薄い影のような線がある。
草と壁の境目の少し上には、横へ走る線も見える。
鍵穴を中心に、低い四角形がそこに隠れているようだった。
ぞっとした。
壁だと思っていたものが、急に別のものに見え始めた。
「……扉?」
思わず呟いていた。
小林さんは僕を見なかった。
その目は壁に固定されている。
「鑑識、周囲を追加で撮ってください。壁の切れ目らしき線があります」
「了解」
カメラのシャッター音が続く。
僕はその音を聞きながら、昨日の自分を思い出していた。
表の入口は閉まっていた。
隣の建物との隙間は通れなかった。
庭側の戸も鍵がかかっていた。
だから僕は、店には入れないと思った。
誰も出入りできないと思っていた。
でも、もしこの壁が扉なら。
表から見えない入口が、ここにあったのなら。
犯人は、僕が見ていなかった場所から出入りできたことになる。
頭の中で、店の形が少しずつ変わっていく。
ガラス戸のある表の顔。
細い隙間。
庭側の戸。
そして、裏側の壁に隠れた、もう一つの入口。
僕はずっと、店の外側を見ていたつもりだった。
でも本当は、見えているところだけを見ていただけだった。
「開けるんですか」
気づけば、そう聞いていた。
小林さんが僕を見る。
「今ここでは開けない」
「どうしてですか」
自分でも、少し焦った声だと思った。
この奥に何があるのか知りたい。
壁の向こうがどこへ繋がっているのか知りたい。
本当に扉なのか確かめたい。
その気持ちが、喉元まで上がってきていた。
小林さんは落ち着いた声で答えた。
「開けるとしても、手順を踏んでから。鍵穴や周辺に残っているものを確認する前に動かすと、証拠が失われるかもしれない」
「でも……」
言いかけた僕の肩に、春彦おじさんの手が置かれた。
「隼人」
低い声だった。
「焦るな」
僕は口を閉じる。
春彦おじさんは、壁を見たまま続けた。
「急げば、真相も逃げる。証拠も壊れる」
その言葉に、胸の奥が冷えた。
早く知りたいと思った。
自分が見つけたものを、すぐに確かめたいと思った。
けれど、その気持ちは、さっき鍵穴を黙っていたときの気持ちと少し似ていた。
僕が知りたいから。
僕が見たいから。
僕が進めたいから。
それだけで動けば、また間違える。
「……すみません」
僕は小さく言った。
春彦おじさんは、僕の肩から手を離した。
「謝る相手は俺じゃない」
僕は壁を見た。
そして、小林さんを見た。
「すみません」
小林さんは少しだけ息を吐いた。
「気持ちはわかるよ。私たちだって、すぐ確認したい。でも、急ぐことと雑にやることは違う」
「はい」
「隼人くんが見つけたものは、たぶん大事なものになる。だからこそ、ちゃんと扱わないといけない」
ちゃんと扱う。
その言葉が、草の匂いと一緒に胸へ残った。
鑑識の人たちは、その後も壁の周囲を調べ続けた。
草の潰れ方。
土の乱れ。
壁の切れ目。
鍵穴の形。
周囲の汚れ。
全てが写真に撮られ、記録されていく。
僕たちは少し離れたところで待つことになった。
小林さんは現場の人たちと短く話をしている。
春彦おじさんは、黙ったまま外壁を見ていた。
「おじさん」
「何だ」
「本当に、扉なのかな」
「可能性は高い」
「でも、こんなところに?」
春彦おじさんは少しだけ僕を見た。
「お前も、見られたくないものは隠すだろ」
「え?」
「そういうことだ」
胸の奥が、小さく軋んだ。
まるで、すぐに言わなかった僕のことを言われているようだった。
見られたくないもの。
知られたくないもの。
自分だけが持っていたかったもの。
それが何なのか、僕にはまだわからなかった。
けれどこの壁は、誰かに見られたくない何かを隠すために作られたのかもしれない。
見つけられたくない入口。
誰にも知られずに出入りするための場所。
僕の頭の中に、見えない誰かの姿が浮かぶ。
草を踏み、壁の下に手を伸ばし、鍵を差し込む。
低い扉を開け、店の中へ入る。
あるいは、店の中から外へ出る。
昨日、僕が表のガラス戸の前で立ち尽くしていたとき。
その誰かは、この裏庭から出ていったのかもしれない。
もしかすると、僕が商店街へ着く少し前、ここにはまだ犯人がいたのかもしれない。
そう考えた瞬間、足元の草が急に冷たく見えた。
「隼人」
春彦おじさんが言った。
「飲まれるな」
「でも……」
「考えることと、想像に飲まれることは違う」
僕は黙った。
春彦おじさんは、ときどき僕の頭の中を見ているみたいなことを言う。
でも、それはたぶん、探偵だからだけじゃない。
昨日から何度も、僕が怖くなったり、焦ったり、勝手に背負おうとしたりするたびに、春彦おじさんはそれを止めてくれている。
「今わかっているのは、壁に鍵穴らしきものがあること。扉の輪郭のような線があること。草が不自然に潰れていること。それだけだ」
「それだけ……」
「そうだ。そこから先は、まだ決めるな」
僕はもう一度、外壁を見た。
壁。
鍵穴。
線。
潰れた草。
わかっていることだけを見る。
それは、化石を調べるときにも似ているのかもしれないと思った。
骨の一部だけを見て、勝手に全部の姿を決めつけてはいけない。
欠けている部分には、いくつもの可能性がある。
見つかった痕跡を大事にすること。
そこから言えることと、まだ言えないことを分けること。
それは、僕が好きだった古生物の世界でも、きっと同じだった。
「隼人くん」
小林さんが戻ってきた。
「はい」
「今日は、ここまでにする。壁はこのあと正式に確認する。君たちはもう現場から離れて」
「僕たちは、見られないんですか」
「見られない」
はっきりした答えだった。
「ここからは警察の仕事。必要があれば、また話を聞く」
言葉ではわかっていた。
でも、胸の奥に小さなもどかしさが残る。
僕が見つけたのに。
そう思いかけて、すぐに飲み込んだ。
それは違う。
僕が見つけたからこそ、ここから先は正しく扱われなければいけない。
小林さんは、僕の顔を見て少しだけ表情をゆるめた。
「隼人くん」
「はい」
「今日話してくれたことは、大事だったと思う。ありがとう」
その言葉に、胸が詰まった。
怒られるだけだと思っていた。
でも、小林さんは叱ったあとで、ちゃんとそう言ってくれた。
「でも、次はすぐに言います」
「うん。そうして」
春彦おじさんが、横で小さく頷いた。
「行くぞ」
「うん」
僕たちは、裏庭を出た。
庭側の戸をくぐると、商店街の音が一気に戻ってきた。
車の音。
買い物客の話し声。
どこかの店から流れる音楽。
パンの焼ける匂い。
そこには、昨日と同じように普通の日曜日があった。
けれど、僕にはもう、同じ景色には見えなかった。
化石堂ミドウの外壁には、隠された線があった。
誰にも見つからないように、草の陰に隠された鍵穴があった。
昨日の僕は、それを知らなかった。
見えていなかった。
でも、一度見えてしまったものは、もう見えなかったことにはできない。
車に戻るまで、春彦おじさんは何も言わなかった。
僕も何も言えなかった。
助手席に座り、シートベルトを締める。
金具がはまる音が、やけにはっきり聞こえた。
春彦おじさんはエンジンをかける前に、少しだけ僕を見た。
「今日の発見は大きい」
「……うん」
「だが、お前が黙っていた数分間も、忘れるな」
胸の奥が痛くなった。
「ごめんなさい」
「謝るだけなら簡単だ」
厳しい声だった。
僕は俯いた。
でも、次の言葉は少しだけ静かだった。
「失敗したなら、次に繰り返すな。それだけだ」
僕はゆっくり頷いた。
「うん」
春彦おじさんはそれ以上言わず、車を発進させた。
窓の外で、化石堂ミドウが遠ざかっていく。
白い外壁。
規制線。
店の前に立つ警察官。
そして、裏側に隠された、細い線。
壁は、最初からそこにあった。
鍵穴も、きっと昨日からそこにあった。
ただ、僕には見えていなかった。
見えていなかったものが、一度見えてしまうと、もうただの壁には戻らない。
僕は窓の外を見つめたまま、膝の上で拳を握った。
事件は、まだ入口に立ったばかりだった。




