第八話「掛け違えたガラス」
月曜日の朝、教室の中はいつも通りだった。
前の席では、誰かが小テストの範囲を確認している。
窓際では、眠そうな顔をした男子が机に突っ伏している。
廊下からは、隣のクラスの笑い声が聞こえてきた。
何も変わっていない。
黒板。
机。
椅子。
教科書。
先生の声。
でも、僕だけがそこにうまく戻れていない気がした。
一時間目の数学で、先生が黒板に式を書いていく。
白いチョークの線が、黒板の上を滑る。
数字と記号が並んでいく。
けれど、僕の頭の中に浮かぶのは、別の線だった。
化石堂ミドウの裏側の外壁。
雨だれに紛れた、細い縦の線。
草の陰に隠れた、小さな鍵穴。
ノートを開いているのに、授業の内容はほとんど入ってこなかった。
気づくと、ページの端に短い言葉を書いていた。
入口。
庭側の戸。
鍵穴。
壁の線。
御堂脩一。
書いてから、慌ててシャーペンを止める。
こんなものを書いて、どうするつもりなんだろう。
消しゴムでこすろうとしたけれど、手が止まった。
消したところで、頭の中から消えるわけではない。
「夏樹」
突然名前を呼ばれ、肩が跳ねた。
顔を上げると、数学の先生がこちらを見ていた。
「ここ、解けるか」
黒板には、途中まで書かれた式がある。
僕は立ち上がった。
「えっと……」
教室中の視線が集まる。
黒板の文字は見えている。
でも、何を聞かれているのかが一瞬わからなかった。
数字の列が、壁の線みたいに見える。
僕は何も答えられなかった。
先生は少し眉を寄せたあと、ため息をつくでもなく、別の生徒を指した。
「じゃあ、佐々木」
隣の席の佐々木が答える声を聞きながら、僕はゆっくり座った。
顔が熱い。
でも、恥ずかしさよりも、自分が教室にいながら別の場所にいることの方が怖かった。
休み時間になっても、周りの会話にうまく入れなかった。
友達が週末に見た映画の話をしている。
スマートフォンで動画を見せ合って、笑っている。
僕も笑うふりをした。
でも、笑い声の向こうで、ずっと考えていた。
警察は、あの扉を開けたのだろうか。
あの壁の向こうには、何があったのだろうか。
御堂さんは、あの入口を知っていたのだろうか。
犯人は、そこから入ったのか。
それとも、そこから出たのか。
机の端に置いたスマートフォンが、何度も気になった。
春彦おじさんから連絡は来ていない。
小林さんからも、もちろん来ていない。
昨日の隠し扉のことを、僕に教えてくれるはずがない。
それはわかっていた。
ここから先は警察の仕事。
小林さんは、そう言った。
でも、何も知らないまま授業を受けていると、自分だけが外へ追い出されたような気持ちになる。
僕が見つけたのに。
そう思いかけて、また飲み込んだ。
違う。
その考えは危ない。
春彦おじさんにも言われた。
黙っていた数分間を忘れるな、と。
知りたい気持ちだけで動けば、また間違える。
午後の授業も、ほとんど頭に入らなかった。
先生の声。
教科書をめくる音。
チョークの音。
シャープペンシルの芯が紙に引っかかる音。
全部が遠く聞こえる。
窓の外では、グラウンドで体育の授業をしていた。
誰かがボールを蹴り、別の誰かがそれを追いかけて走っている。
月曜日の学校。
普通の日常。
その中にいるはずなのに、僕の頭の中だけが、まだ日曜日の裏庭に残っていた。
放課後になっても、すぐには帰る気になれなかった。
教室から人が少しずつ減っていく。
部活へ向かう声。
階段を降りる足音。
廊下に残るざわめき。
僕は鞄を持って教室を出た。
そのまま家へ帰っても、机に向かったまま昨日の鍵穴のことを考え続けるだけだと思った。
博物館へ行きたい。
そう思った。
困ったとき、僕は昔から博物館へ行っていた。
大きな骨格標本の前に立つと、自分の悩みが少しだけ小さくなる気がした。
何千万年も前の骨を見ていると、今の自分の時間が、ほんの一瞬のものに思える。
けれど、校門を出る前に足が止まった。
勝手に動くな。
春彦おじさんの声が、頭の中で聞こえた。
一人で調べない。
一人で怪しい人に会わない。
勝手に現場へ近づかない。
何か気づいたら、どれだけ小さなことでも話す。
博物館へ行くこと自体は、事件現場へ行くことではない。
でも、黙って行くのは違う気がした。
僕は校門の横でスマートフォンを取り出し、春彦おじさんへメッセージを送った。
『学校終わった。少しだけ博物館に寄ってもいい?』
送信してから、画面を見つめる。
すぐには返事が来なかった。
春彦おじさんは仕事中かもしれない。
誰かと会っているのかもしれない。
校門の横を、生徒たちが通り過ぎていく。
何人かが僕の方を見たけれど、すぐに友達との会話へ戻っていった。
数分後、スマートフォンが震えた。
『現場には近づくな。怪しい人間にも会うな。博物館だけならいい。帰る前に連絡しろ』
僕はその文字を読んだ。
それから、もう一つメッセージが届いた。
『一人で抱えるな』
短い文だった。
春彦おじさんらしい、飾りのない言葉。
でも、その一文を見たとき、胸の奥が少しだけ温かくなった。
『わかった』
そう返して、僕はスマートフォンを鞄へしまった。
博物館は、学校から電車で数駅の場所にある。
駅から歩いていくと、見慣れた建物が見えてきた。
ガラス張りの入口。
広い階段。
休日よりは少ない人影。
入口の横に貼られた、次の企画展のポスター。
何度も来ている場所だった。
小学生の頃、初めて恐竜の全身骨格を見た場所。
中学生になってからも、暇さえあれば通っていた場所。
展示の解説を何度も読み返し、標本の角度を変えながら眺め、わからないことを質問してきた場所。
僕にとって、博物館はただの施設ではなかった。
自分が好きなものを、好きだと言っていい場所だった。
入口を通ると、少し冷えた空気が体に触れた。
外のざわめきが遠くなる。
代わりに、足音が高い天井に響く。
展示室に入ると、最初に大きな骨格標本が見える。
長い尾。
湾曲した肋骨。
鋭い歯の並ぶ頭骨。
照明に照らされたティラノサウルスは、静かにそこに立っていた。
死んだもののはずなのに、今にも動き出しそうに見える。
それが、いつも不思議だった。
ガラスケースの中には、歯の化石や爪、椎骨の一部が並んでいる。
大きな全身骨格に比べれば、小さな破片に見えるかもしれない。
でも、そこには確かに生き物の痕跡がある。
食べたもの。
歩いた場所。
傷ついた骨。
折れて、治った跡。
残されたものから、見えない過去を考える。
昨日、春彦おじさんに言われたことを思い出した。
今わかっていることだけを見る。
僕はガラスの中の歯を見つめた。
「今日は、ずいぶん難しい顔をしていますね」
背後から声がして、僕は振り返った。
薄いグレーのジャケットを着た男の人が立っていた。
穏やかな目をしていて、口元にはいつものように小さな笑みがある。
冬樹翔真先生。
この博物館の館長で古生物学者だ。
年齢は、三十代半ばくらい。
そういえば聞いたことなかったな。
背は高いけれど、細身で春彦おじさんと真反対の見た目。
声も動作も静かで、展示室の空気に溶け込むみたいな人だった。
僕が中学生の頃から、冬樹先生はここにいた。
最初は、僕が展示の前でずっとメモを取っているのを見て、声をかけてくれた。
それから何度も、僕の質問に答えてくれた。
羽毛恐竜について。
獣脚類と鳥の関係について。
化石からわかることと、わからないことについて。
子供扱いせず、難しいこともかみ砕いてとことん教えてくれる。
僕にとって冬樹先生は、恐竜の話を本気で聞いてくれる、数少ない大人だった。
「冬樹先生」
「学校帰りですか」
「はい」
冬樹先生は、僕の手元を見た。
「今日はノートを持っていないんですね」
言われて、僕は鞄の中のメモ帳を思い出した。
まだ開けないままのメモ帳。
「今日は……ちょっと」
僕の返事が曖昧だったからか、冬樹先生は少しだけ目を細めた。
「何かありましたか」
その一言で、胸の奥に溜まっていたものが揺れた。
何かありましたか。
そう聞かれること自体は、昨日から何度もあった。
小林さんにも。
春彦おじさんにも。
でも、冬樹先生に聞かれると、少し違って聞こえた。
博物館で、展示の前で、いつもの声で聞かれたからかもしれない。
僕はすぐには答えられなかった。
「話しにくいことなら、無理には聞きません」
冬樹先生はそう言った。
その言い方が、余計に話してもいい気にさせた。
僕は獣脚類の歯へ目を戻した。
「先生、化石堂ミドウって知ってますか」
「ええ。知っていますよ」
「行ったことありますか」
「何度か。古い標本を扱っている店ですね。個人店としては、少し珍しいものも置いていました」
やっぱり知っているんだ。
そう思った。
博物館の人なら、化石を扱う店を知っていてもおかしくない。
「そこに、土曜日、行ったんです」
冬樹先生は黙って続きを待っていた。
僕は少しずつ話した。
化石堂ミドウへ行ったこと。
入口には営業中の札があったこと。
でもドアには鍵がかかっていたこと。
店の周りを見たこと。
隣の建物との間には通れないくらいの隙間があったこと。
反対側の庭側の戸も鍵がかかっていたこと。
そして、ガラス越しに店内を覗き直したこと。
棚の陰から、人の足が伸びていたこと。
言葉にしているうちに、喉の奥が詰まってきた。
展示室の照明は明るい。
近くでは、親子連れが骨格標本を見上げている。
小さな子供が「歯、大きい」と言って笑っている。
それなのに、僕の声だけが少し暗い場所から出ているみたいだった。
冬樹先生は、一度も途中で遮らなかった。
僕が言葉に詰まるたび、静かに待ってくれた。
「それで、救急車を呼んで……警察にも話を聞かれて……御堂さんは、亡くなっていたって」
「御堂さんが」
冬樹先生は、小さく言った。
その声には、はっきりした驚きがあった。
「ニュースには、まだ出ていませんでしたね」
「たぶん、まだ……」
「そうですか」
冬樹先生は少し視線を落とした。
その横顔は、悲しんでいるようにも、考え込んでいるようにも見えた。
「それは、つらかったでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、目の奥が少し熱くなった。
昨日から、何度も気遣われていた。
でも、冬樹先生にそう言われると、自分がどれだけ怖かったのか、急に思い出してしまった。
「怖かったです」
ようやく、そう言えた。
「でも、それだけじゃなくて……何も知らないまま終わるのが嫌で」
冬樹先生は、ゆっくり頷いた。
「春彦さんには話しましたか」
僕は少し驚いた。
「おじさんのこと、知ってるんですか」
「前に、君が話してくれましたよ。探偵をしている叔父さんがいると」
「あ……そうでした」
たしかに、何度か話したことがある気がする。
冬樹先生以外に、恐竜の話を真剣に聞いてくれるのは、春彦おじさんだけだったから。
「春彦おじさんには、話しました。今、春彦おじさんの家に泊まってます。両親が帰ってくるまで」
「ご両親は今旅行中でしたね。それなら、安心です」
冬樹先生の声はやわらかかった。
「隼人くんが一人で抱えるには、重すぎる出来事ですからね」
その言葉に、春彦おじさんからのメッセージを思い出した。
一人で抱えるな。
僕は少し迷った。
どこまで話していいのか。
小林さんは、事件のことを誰にでも話していいとは言っていない。
春彦おじさんにも、知らない人間から事件について連絡が来ても返事をするなと言われている。
でも冬樹先生は、知らない人間ではない。
ずっと信頼してきた先生だ。
それに、ここは博物館だ。
僕が安心できる場所だ。
「昨日も、現場確認に行ったんです」
気づけば、そう続けていた。
冬樹先生の目が、僕へ戻る。
「現場確認?」
「警察から呼ばれて、土曜日に僕がどこを見たのか、もう一度確認するために」
「なるほど」
「そこで……裏庭に入って」
話しながら、少し胸がざわついた。
でも、止められなかった。
「壁の下の方に、小さな穴を見つけました。鍵穴みたいな穴です」
冬樹先生は、不思議なものを見たかのような目をした。
「……壁に、鍵穴ですか」
「はい。春彦おじさんが見たら、壁にも線があるって。扉の輪郭みたいな」
冬樹先生は、展示ケースのガラスへ視線を向けた。
ガラスに、先生の横顔が薄く映る。
「それは……興味深いですね」
「やっぱり、変ですよね」
「変です」
冬樹先生ははっきり言った。
「そのようなものがあるのは変ですね。少なくとも、普通の店舗に必要な構造ではありません」
その言葉に、僕は少し息を呑んだ。
普通の店舗に必要な構造ではない。
春彦おじさんや小林さんから聞くのとは違って、博物館の館長である冬樹先生がそう言うと、別の重みがあった。
「店の裏に、隠し入口みたいなものがあったってことですよね」
僕が言うと、冬樹先生は少し考えるように目を伏せた。
「それだけでは扉かどうかは、まだ断定できないですね。ただ、何度か足を運んだことはありますが、いたって普通のお店に見えました。そんな構造があったのなら、驚きです」
「やっぱり、普通じゃないんですね」
「ええ。見えているのは、鍵穴のようなものと、扉の輪郭のような線。それが本当に出入口なのか、何のために作られたのかは、確認しなければわかりません」
その言い方は、春彦おじさんに少し似ていた。
でも、春彦おじさんほど厳しくはない。
冬樹先生は、いつもそうだ。
考えを急がせず、今わかることと、まだわからないことを分けてくれる。
「化石と同じですね」
ガラスの反射がまるで歯の化石を輝かせているようだった。
「歯が一本見つかっただけで、すべてがわかるわけではありません。でも、その一本を丁寧に見ることで、食性や分類、個体差の手がかりが見えてくることがある」
僕は頷いた。
「わかっていることだけを見る」
「そうです。焦って物語を作ると、見えるはずのものを見落とします」
その言葉が、胸に静かに入ってきた。
そのとき、展示室の奥から足音が近づいてきた。
硬い靴音。
僕が振り返ると、黒い服を着た男の人が廊下の方から歩いてきていた。
細身で、背は高いのだろうけど、かなりの猫背だ。
長めの前髪の奥から見える目つきは鋭く、何を考えているのかわからない。
片手には、資料の入った箱のようなものを抱えている。
黒瀬蓮司さん。
僕は名前だけ知っていた。
この博物館に所属する研究員。
あまり表には出てこないから、たまにしか見かけない。
ただ、いつも不愛想で、話しかけられる雰囲気ではなかった。
展示室ですれ違っても、こちらを見ることはほとんどない。
見たとしても、一瞬だけ。
その髪の間から覗く目が妙に冷たくて、僕はいつも少しだけ身構えてしまう。
冬樹先生が顔を上げた。
「黒瀬君」
黒瀬さんは足を止めた。
「次の子どもワークショップの準備、あとで手伝ってもらえますか」
黒瀬さんは、冬樹先生を見た。
それから、僕の方を一瞬だけ見た。
視線が合う。
何かを言われたわけではない。
なのに、胸の奥が少し硬くなった。
「……うす」
黒瀬さんはそれだけ言うと、箱を抱え直し、すぐに廊下の奥へ歩いていった。
足音が遠ざかる。
僕は、その背中を見送った。
「僕、ずっとここに通ってるけど、黒瀬さんとちゃんと話せたことないです」
思わずそう言うと、冬樹先生は小さく笑った。
「不愛想ですからね」
「ちょっと怖いです」
「そう見えるかもしれません。でも、悪い人ではありませんよ」
冬樹先生は、黒瀬さんが消えた廊下の方を見た。
「獣脚類の研究では、光るものがあります。特に歯や顎の形を見る目はいい。ああいう人は、標本の前にいるときの方がよく喋るんです」
「そうなんですか」
「人より骨の方が話しやすい人もいますから」
冬樹先生の言い方が少しおかしくて、僕は小さく笑った。
今日、初めて自然に笑えた気がした。
「黒瀬さんも、恐竜が大好きなんですね」
「ええ、もちろんです」
そう言われると、黒瀬さんの印象が少しだけ変わった。
怖い人。
不愛想な人。
何を考えているのかわからない人。
でも、僕と同じ恐竜が大好きな人。
冬樹先生は、再び僕の方を向いた。
「隼人くん」
「はい」
「事件のことを知りたい気持ちは、わかります。君が最初に見つけたのなら、なおさらです」
僕は黙って頷いた。
「でも、君自身が壊れてしまっては意味がありません」
春彦おじさんにも、似たようなことを言われた。
お前を壊してまでやることじゃない。
同じような言葉なのに、冬樹先生が言うと少し違って聞こえる。
春彦おじさんの言葉は、僕を止めるための壁みたいだった。
冬樹先生の言葉は、僕の横に置かれた手すりみたいだった。
「わかってるつもりです。でも、学校にいても、ずっと考えてしまって」
「考えないようにするのは、難しいでしょうね」
「はい」
「なら、考え方を決めることです」
「考え方?」
冬樹先生は展示ケースを軽く指した。
「恐竜の骨を見るとき、私たちは想像を使います。でも、想像だけでは研究になりません。根拠のある想像と、根拠のない不安を分けなければならない」
根拠のある想像。
根拠のない不安。
僕はその言葉を頭の中で繰り返した。
「隼人くんが今できるのは、見たことを正確に覚えておくことです。わからないことを、わからないままにしておくこと。そして、一人で決めつけないこと」
「春彦おじさんにも、似たようなことを言われました」
「良い叔父さんですね」
「怖いですけど」
「怖い人ほど、頼りになることもあります」
冬樹先生はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔を見ていると、胸の奥の緊張が少し緩んだ。
話してよかった。
そう思った。
誰かに話すだけで、事件そのものが軽くなるわけではない。
御堂さんが亡くなったことも、鍵穴を見つけたことも、僕が黙ってしまったことも変わらない。
でも、頭の中で絡まっていたものが、少しだけほどけた気がした。
「先生」
「はい」
「御堂さんって、どんな人だったんですか」
冬樹先生の目が、わずかに細くなった。
「私は、深く知っていたわけではありません」
「でも、何度か行ったことがあるんですよね」
「ええ。店主としては、知識のある人でした。扱っている標本にも、面白いものがありました」
「良い人でしたか」
自分で聞いておいて、少し変な質問だと思った。
良い人かどうかなんて、簡単に答えられるものではない。
一度か二度話したくらいで、人間全部がわかるはずもない。
冬樹先生は、すぐには答えなかった。
展示室の照明が、先生の眼鏡の縁に小さく反射する。
「人を一言で決めるのは、難しいですね」
静かな声だった。
「化石を愛していたことは、確かだと思います。ただ、化石を愛する人が、いつも正しい人間であるとは限りません」
その言葉が、胸の中に残った。
化石を愛する人が、いつも正しい人間であるとは限らない。
御堂さんのホームページにあった、初心者歓迎の文字。
化石は過去からの贈り物です、という紹介文。
勝手に想像していた、優しい店主の姿。
「御堂さんは、悪い人だったんですか」
冬樹先生は首を横に振った。
「それも、私にはわかりません」
「わからないことばっかりですね」
「わからないことを、わからないと言えるのは大切です」
先生はやさしく言った。
「それでも、知りたいと思う気持ちは悪いものではありません。ただし、扱い方を間違えると、人を傷つけることも、自分を傷つけることもあります」
僕は頷いた。
それは、昨日の僕がもう知っていることだった。
鍵穴を見つけたのに言わなかった。
草にも触ってしまった。
知りたい気持ちは、簡単に間違った方向へ行く。
「何か思い出したら、また話してください」
冬樹先生が言った。
「どんな小さなことでも。話すことで整理できることもありますから」
その言葉に、春彦おじさんのメッセージが重なった。
一人で抱えるな。
「はい」
僕は頷いた。
「ありがとうございます、先生」
「いえ。君が少しでも落ち着いたならよかった」
冬樹先生は時計を見た。
「私はそろそろ、ワークショップの準備に戻らないといけません」
「子ども向けのやつですか」
「ええ。模型で恐竜の大きさを見比べるんですよ」
「楽しそう」
「君なら、手伝う側に回れそうですね」
その言葉に、少しだけ胸が明るくなった。
「いつか、やりたいです」
「そのときはお願いしますね」
冬樹先生はそう言って、展示室の奥へ歩き出した。
僕はしばらく、その背中を見ていた。
春彦おじさんとは違う背中。
大きくて怖い背中ではない。
静かで、安心できる背中。
僕はもう一度、歯の展示を見た。
歯はガラスの中で、黙ったまま並んでいる。
何かを噛み砕くためにあったもの。
生きるために使われていたもの。
長い時間を越えて、今はただ、形だけが残っているもの。
残されたものから、過去を考える。
それは、事件も同じなのかもしれない。
僕は博物館を出る前に、春彦おじさんへメッセージを送った。
『今から帰る』
すぐに返事が来た。
『寄り道せず帰れ』
少し遅れて、もう一つ届く。
『何かあったか』
僕はスマートフォンの画面を見つめた。
冬樹先生と話した。
化石堂ミドウのことも、鍵穴のことも、壁の線のことも話した。
それを書こうとして、指が止まった。
悪いことをしたつもりはなかった。
一人で抱えないために、信頼できる人へ話しただけだ。
僕は少し迷ってから、短く返した。
『ううん。何もないよ。』
送信した直後、胸の奥が小さく沈んだ。
何もなかったわけじゃない。
勝手にいろんな話をしてしまったのだから。
博物館の外へ出ると、夕方の光が階段に長く伸びていた。
ガラスの自動ドアに、自分の顔が一瞬映る。
話せてよかった。
そう思っているはずなのに、映った自分の顔は、少しも安心した顔をしていなかった。




