第六話「草は揺れない」
目が覚めたとき、一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
見慣れない天井。
古い丸い照明。
カーテンの隙間から入ってくる朝の光。
布団の匂いも、自分の部屋のものとは違っていた。
僕は数秒間、ぼんやりと天井を見上げていた。
それから、昨日のことが一気に戻ってきた。
化石堂ミドウ。
鍵のかかったガラス戸。
棚の陰から伸びていた足。
警察署の灰色の壁。
御堂脩一という名前。
春彦おじさんの事務所。
ノートに書かれた、最初の問い。
――御堂脩一は、なぜ殺されたのか。
胸の奥が、ゆっくり重くなる。
ここは春彦おじさんの家だ。
事務所のある雑居ビルの、さらに上の階。
昨日の夜、事務所で事件について話したあと、僕はそのまま春彦おじさんの家に泊まった。
ほとんど眠れないと思っていた。
けれど実際には、布団に入った途端、体の方が限界だったらしい。
朝まで時間が飛ぶように過ぎていた。
布団から起き上がると、体が少し重かった。
昨日、走ったわけでもないのに、肩や背中が痛い。
畳の上に置かれたスマートフォンを見る。
画面には、日曜日の朝を示す時刻が表示されていた。
日曜日。
本当なら、今日は家で昨日買った化石の写真を眺めているはずだった。
化石堂ミドウで見た標本の名前を調べて、メモ帳にまとめて、次に博物館へ行く予定でも考えていたかもしれない。
でも、鞄の中にあるメモ帳は、まだ開けないままだった。
襖の向こうから、物音がした。
食器が置かれる音。
お湯が沸く音。
僕はゆっくり立ち上がり、部屋を出た。
小さな台所の方に、春彦おじさんがいた。
昨日と同じような黒いシャツに、少し皺のついたズボン。寝起きなのか、短い髪がいつもよりさらに跳ねている。
「起きたか」
「うん。おはよう」
「眠れたか」
「たぶん」
正直に言うと、自分でもよくわからなかった。
眠ったような気もする。
ずっと夢の中で同じ場所に立っていたような気もする。
春彦おじさんは、それ以上深く聞かなかった。
「顔洗ってこい。飯は食えるだけでいい」
「うん」
洗面所で顔を洗うと、冷たい水が皮膚に刺さった。
鏡の中の自分は、ひどく疲れた顔をしていた。
目の下が少し暗い。
髪も乱れている。
昨日までの自分と同じ顔のはずなのに、何かが違って見えた。
台所へ戻ると、テーブルにトーストと目玉焼き、それから温かいお茶が置かれていた。
「無理に全部食うな」
春彦おじさんはそう言い、自分の分のコーヒーをすすった。
僕は椅子に座り、トーストを小さくちぎった。
食欲はあまりなかった。
けれど、一口食べると、空腹だったことに気づいた。
しばらく二人とも黙って食べた。
テレビはついていない。
窓の外から、遠くを走る車の音だけが聞こえる。
昨日の夜のことを思い出す。
僕が化石堂ミドウへ着いてから119番へ通報するまでの行動を、もう一度ゆっくり確認しながら話し合った。
駅から歩いて店へ向かったこと。
入口には営業中の札があったこと。
ドアを引いたけれど鍵がかかっていたこと。
最初は隣の建物との間にある、通れるか通れないかくらいの隙間を見たこと。
でも無理そうだったので入口へ戻ったこと。
反対側には庭へ出る戸があったけれど、そこも鍵がかかっていて入れなかったこと。
そして、ガラス越しに店内を覗き直したこと。
棚。
標本。
薄暗い店内。
その陰から伸びていた足。
春彦おじさんは、それを一つずつノートへ書いていった。
入口。
隣の建物との隙間。
庭側の戸。
入口へ戻る。
ガラス越しに足を発見。
119番通報。
自分の行動が短い言葉になって並んでいく。
それを見ると、昨日の自分を、まるで他人のことみたいに感じた。
「足に気づいたのは、入口へ戻ったあとだな」
「うん」
「最初に店内を覗いたときは何を見てた?」
「棚とか標本とか、そういうのを見てた。鍵を開け忘れたのかと思って、人がいないか確認しながら。そのときに、カウンターの床に何か置いてあるのに気づいて……足だとわかったのは、覗き直したときだったと思う」
「思う?」
その一言で、僕は言葉に詰まった。
「ごめんなさい……頭の中がぐちゃぐちゃで……」
春彦おじさんは首を横に振った。
「謝る必要はない。曖昧なものは曖昧でいい。あとから思い込む方が危ない」
小林さんにも似たようなことを言われた。
怖いことがあると、記憶は抜けたり、前後が曖昧になったりする。
僕は自分の記憶を信じたい。
でも、信じ切るのも怖かった。
そんなことを思い出していると、テーブルの上で春彦おじさんのスマートフォンが鳴った。
画面を見た春彦おじさんの表情が少し変わる。
「秋名だ」
そう言って電話へ出た。
「西田だ」
僕は自然と背筋を伸ばした。
春彦おじさんは短く相槌を打ちながら話を聞いている。
「ああ……今からか。……本人にも確認させる必要がある、ということだな」
本人。
たぶん、僕のことだ。
「わかった。連れて行く。……ああ、わかった」
電話を切ると、春彦おじさんは僕を見た。
「今日、現場でお前の行動を確認したいらしい。どこから店内を見たのか。庭側の戸や隣の隙間をどこまで見たのか。昨日の証言と現場の位置を合わせる」
胸が少し冷たくなった。
「化石堂ミドウに、行くの?」
「そうだ」
昨日の店に戻る。
そう思っただけで、手の中のトーストが急に重くなった。
またあのガラス戸の前に立つ。
あの足が見えた場所を見る。
御堂さんが倒れていた店へ戻る。
呼吸が浅くなる。
春彦おじさんは、僕の変化を見逃さなかった。
「無理なら断る」
「でも、警察が必要だって言ってるんだよね」
「必要ではある。ただし、お前を壊してまでやることじゃない」
僕は膝の上で手を握った。
怖い。
でも、行かなければならない気がした。
昨日、僕は春彦おじさんに言った。最後まで知りたい、と。
その最初の一歩が、もう目の前に来ている。
「行く」
声は少し震えていた。
春彦おじさんは数秒、僕を見た。
「途中で駄目だと思ったら、すぐ言え」
「うん」
「現場では秋名の指示に従え。俺もそばにいる」
「わかった」
春彦おじさんは頷き、コーヒーを飲み干した。
「準備しろ」
僕は残っていたトーストを、無理やり口に入れた。
味は、ほとんどわからなかった。
でも、飲み込んだとき、不思議とほんの少しだけ覚悟が固まった気がした。
化石堂ミドウの前に着いたのは、10時頃だった。
昨日と同じ商店街なのに、まるで違う場所に見えた。
日曜日の朝で、通りには家族連れや買い物客がいる。
近くの店はシャッターを上げ、パン屋から焼けた匂いが流れていた。
その中で、化石堂ミドウだけが切り取られたように静かだった。
入口には規制線が張られている。
店の前には警察官が数名立ち、近づく人へ目を向けていた。
ガラス戸の奥は薄暗い。
昨日、僕が覗き込んだ場所。
足が見えた場所。
胸の奥がきゅっと縮んだ。
「隼人」
春彦おじさんの声がした。
「無理するな。下を見るな。俺の声だけ聞け」
僕は小さく頷いた。
規制線のそばに、小林さんがいた。
昨日と同じスーツ姿で、髪はきっちり後ろでまとめられている。
「隼人くん。来てくれてありがとう」
「はい」
「今日は、昨日の行動を現場で確認させてほしい。つらくなったらすぐに言って。途中でやめても大丈夫だから」
「わかりました」
小林さんは春彦おじさんにも軽く頭を下げた。
「先輩、同行ありがとうございます」
「保護者代わりだ。余計なことはしない」
「お願いします。本当に、余計なことはしないでくださいね」
「信用ないな」
「ありますよ。だから言ってます」
二人のやりとりはいつも通りに見えた。
けれど、小林さんの目は仕事の目だった。
昨日待合で見せたやわらかさとは違う。現場を見る警察官の顔をしている。
まず、僕は入口の前に立たされた。
昨日、僕が最初にドアを引いた位置。
足がすくみそうになる。
「昨日は、ここから入ろうとしたんだね」
小林さんが確認する。
「はい」
「ドアは手前に引いた?」
「はい。少し、力を入れてしまったかもしれません」
「大丈夫。確認だから」
小林さんは、近くにいた警察官に何かを伝えた。
僕はガラス戸を見ないようにしようとした。
けれど、視界の端にどうしても入る。
店内は昨日と違って、人の気配があった。
警察官が出入りし、床には何かを示す小さな札のようなものが置かれている。
それでも、棚の配置を見るだけで、胃の奥が重くなった。
「次に、隣の建物との間を見たんだね」
「はい」
僕たちは建物の横へ移動した。
そこには、確かに通れるか通れないかくらいの細い隙間があった。
大人が横向きになっても厳しそうな幅。
壁と壁の間には古い配管が通り、足元には落ち葉や空き缶が挟まっている。
「ここは奥まで入っていない?」
「はい。無理そうだったので、すぐ戻りました」
「わかった」
小林さんはそう言い、警察官に位置を記録させた。
次に、反対側へ回る。
庭側の戸があった場所だ。
昨日は鍵がかかっていて、僕は中に入れなかった。
でも今日は、その戸が開いていた。
僕は思わず足を止めた。
「あれ……」
小林さんが僕を見る。
「どうしたの?」
「昨日、ここ、鍵がかかってました。でも、今日は開いてる」
「ああ。ここは今朝、不動産屋さんに開けてもらったの。現場確認のためにね」
そう言われて、僕は開いた戸を見た。
昨日は、ここから先へ入れなかった。
入れなかった場所。
それだけで、胸の奥がざわつく。
庭というには狭い場所だった。
建物の横に残された細長い空間は、突き当たりを左に折れる形で、建物の裏側まで続いているようだった。
地面には雑草が伸び、壁際には古い植木鉢や壊れたプラスチックの箱が置かれている。
手入れされている庭ではない。
使われなくなったものを、ただ置いているだけの場所に見えた。
「入ってもいいですか」
自分でも、なぜそう言ったのかわからなかった。
小林さんは一瞬、僕を見る。
「昨日、君はここには入っていないんだよね」
「はい。でも、どこまで見えたか、確認したくて」
小林さんは少し考えた。
それから、庭の入口付近を見ていた警察官に何か耳打ちをした。
警察官が頷く。
小林さんは僕に向き直った。
「少しだけなら大丈夫。でも、物には触れないでね。足元にも気をつけて」
「はい」
湿った土の匂い。
靴の下で、細い草が擦れる音がする。
昨日は外から見ただけだった場所に、自分が入っている。
それが少し不思議だった。
ここから店の中は見えない。
窓もない。
少なくとも、中の売り場を覗けるような場所はなかった。
置かれた物に触れないように、ゆっくりと足場を選びながら建物の裏側まで歩いた。
突き当たりを左に折れると、入口からは死角になって見えなくなる。
手入れをすれば、小さい家庭菜園くらいならできそうだなと、ぼんやり考えていた。
外壁は灰色がかった白い壁で、雨だれの黒い跡が縦に伸びている。
下の方には草が生い茂り、壁の境目を隠していた。
何の変哲もない外壁。そう思った。
けれど、目が止まった。
草の一部だけが、不自然に潰れている。
風で倒れたような感じではなかった。
誰かが踏んだような、あるいは何度もそこだけ押し倒されたような潰れ方だった。
僕は息を止めた。
しゃがみたい。
近づいて確かめたい。
でも、勝手なことをしてはだめだともわかっている。
僕はその場で体を少し傾け、草の隙間を見ようとした。
壁の下の方。
影になっているところ。
そこに、黒い小さな点のようなものがあった。
でも、よく見えない。
僕は静かに、入口の方を覗いた。
春彦おじさんと小林さんは、まだ話をしている。
春彦おじさんは腕を組み、小林さんは手帳を見ながら何かを説明している。
他の警察官も、表の入口や店内の方にいる。
今なら大丈夫だ。
僕は急いで戻り、押しつぶされた草をかき分けた。
そこには、小さな穴があった。
縦長の小さな穴。
それはまるで、
「……鍵穴?」
建物の壁に、鍵穴。
そんな場所に鍵穴があるはずがない。
普通の扉なら、取っ手がある。
蝶番がある。
段差がある。
けれど目の前にあるのは、ただの外壁に見える場所だった。
その下の方に、草で隠れるように小さな穴がある。
僕はまた壁面から少しだけ顔をのぞかせ、庭側の戸の方を見た。
小林さんと春彦おじさんは、まだ話していた。
今すぐ言わなきゃ。そう思った。
小林さんを呼ぶだけでいい。
春彦おじさんを呼ぶだけでいい。
「ここに鍵穴があります」と言えば、それで済む。
なのに、声が出なかった。
もし今言ったら、警察がすぐに調べる。
そこに何かあったとしても、僕はもう近づけなくなる。
春彦おじさんと一緒に考える前に、全部、警察のものになってしまう。
そんな考えが、頭の中をよぎった。
駄目だ。
小林さんは「どんな小さなことでも」と言った。
春彦おじさんもだ。
それでも僕は、立ち尽くしたまま動けなかった。
これは、僕が最初に気づいたことだ。
そう思ってしまった。
その瞬間、自分が少し嫌になった。
御堂さんが死んだ場所で、何を考えているんだろう。
でも、声はまだ出ない。
頭の中で複数の僕が揉めてるような感覚。
「隼人くん」
小林さんが庭側の戸から、僕を呼んだ。
「大丈夫?」
「はい」
自分でも驚くくらい、普通の声が出た。
「庭の方からは、店内は見えなかった?」
「……はい。見えませんでした」
嘘ではなかった。店内は見えなかった。
それは本当だった。
でも、鍵穴を見つけたことは言っていない。
胸の奥が、じわりと嫌な熱を持つ。
僕はゆっくり入口の方へと戻った。
足元の草を踏む音が、やけに大きく聞こえた。
それからの現場確認のことは、あまり頭に入ってこなかった。
入口の前に立つ。
昨日どこにいたかを説明する。
どの角度からガラスの中を見たかを確認する。
足が見えた位置を指で示す。
僕は言われた通りに答えた。
けれど、頭の中ではずっと、あの壁の下の黒い穴が浮かんでいた。
鍵穴。
草に隠された鍵穴。
あれは何だったのか。ただの古い設備かもしれない。
でも、草が潰れていた。人が何度もそこに触れたように。
「隼人」
春彦おじさんの声で、現実に引き戻された。
「顔色が悪い」
「大丈夫」
言った瞬間、春彦おじさんの眉が動いた。
昨日も同じ言葉を言いかけて、見抜かれた。
今もたぶん、見抜かれている。
でも春彦おじさんは、その場では何も言わなかった。
ただ、僕の顔をじっと見たあと、小さく頷いただけだった。
現場確認が終わるころには、昼に近くなっていた。
小林さんが、警察官たちへ指示を出している。
「今日はここまでにします。隼人くん、協力ありがとう。つらかったでしょう」
「いえ……」
「無理をさせてごめんね」
「大丈夫です」
警察官たちが片づけを始める。
一人、また一人と車の方へ向かっていく。
小林さんも戻ろうとしていた。
そのとき、春彦おじさんが声をかけた。
「秋名」
小林さんが振り返る。
「はい?」
「少し残れ」
その言い方に、小林さんの表情が変わった。
仕事の顔になる。
「何かありましたか」
春彦おじさんはすぐには答えず、僕を見た。
胸が強く鳴る。
やっぱり、気づかれていた。
小林さんは周囲を確認し、近くにいた警察官へ声をかけた。
「先に戻っていてください。私はもう少し話てから戻ります」
「わかりました」
警察官が離れていく。
化石堂ミドウの前に、僕と春彦おじさんと小林さんだけが残った。
通りの向こうでは、普通に人が歩いている。
車が走り、店の看板が揺れている。
でも僕たちの間だけ、空気が静かになった。
春彦おじさんが、低い声で言う。
「隼人。今、話せ」
僕は唇を噛んだ。
小林さんが、僕を見る。
「隼人くん?」
もう黙っていられなかった。
黙っていた数分間が、胸の中で鉛みたいに重くなっていた。
「すみません」
小林さんの眉がわずかに寄る。
「何か見つけたの?」
僕は頷いた。
「庭に入って奥に進んで、店の裏側の外壁を見てました」
春彦おじさんは何も言わない。
ただ、まっすぐ僕を見ている。
「一部だけ、草が潰れてました。風とかじゃなくて、誰かが踏んだみたいに」
小林さんの表情から、やわらかさが消えた。
「それで?」
「壁の下の方に、黒い小さな穴みたいなものがありました」
喉が乾く。
僕は一度息を吸い、言葉を続けた。
「たぶん……鍵穴だと思います」
小林さんの目が鋭くなる。
春彦おじさんは、静かに僕の肩へ手を置いた。
怒られると思った。
でもその手は、責めるためのものではなかった。
「見つけたとき、どうしてすぐ言わなかった」
春彦おじさんの声は低かった。
僕は視線を落とす。
「言わなきゃいけないって、わかってました。でも……今言ったら、警察が調べることになって、僕はもう何もできなくなる気がして」
言葉にして、自分がどれだけ身勝手なことを考えていたのかがわかった。
「すみません」
小林さんはすぐには何も言わなかった。
春彦おじさんも黙っている。
通りのざわめきだけが、遠くから聞こえてくる。
やがて小林さんが、静かに言った。
「話してくれてありがとう」
僕は顔を上げた。
怒られると思っていたから、その言葉に胸が詰まった。
「でも、次からは見つけた時点で言って。どんな小さなことでも。自分で判断して抱え込まないで」
「はい」
「それが重要かどうかを判断するのは、私たちの仕事だから」
その言葉は厳しかった。
けれど、突き放す冷たさではなかった。
春彦おじさんが、僕の肩に置いた手に少しだけ力を込める。
「お前は見つけた。そこまではいい。だが、隠すな」
「……はい」
「一緒に追うっていうのは、一人で抱えることじゃない」
その言葉が胸に刺さった。
昨日、春彦おじさんは言ってくれた。
俺は聞く、と。
それなのに僕は、最初の小さな発見を、一人で抱えようとした。
小林さんは庭側の戸の方へ視線を向ける。
「見に行きましょう」
僕は頷いた。
三人で、裏庭に向かう。
昨日は鍵がかかっていて入れなかった場所。
今朝、初めて入った場所。
そして、僕が黙ってしまった場所。
青臭い草の匂いが、何かを言いたげに僕の全身を包んだ気がした。




