第五話「踏み出す夜」
春彦おじさんの車へ乗り込み、助手席の扉を閉めた。
警察署の玄関まで見送ってくれた小林さんの姿が、窓の向こうに見える。
僕たちの車が動き出すまで立っているつもりなのか、こちらを見ながら小さく頭を下げた。
車内には、微かに煙草の残り香が漂っていた。
灰皿はきれいに空になっており、吸い殻は一本も残っていない。
僕は鞄を膝の上に置き、シートベルトを締めようとする。
金具を差し込もうとした指がうまく動かず、一度目は受け口から外れてしまった。
小さな金属音が車内へ響く。
二度目で、ようやく固定された。
春彦おじさんは何も言わない。
運転席に座ると、バックミラーの角度を確かめ、エンジンをかける。
低い振動が足元から伝わり、暗かった計器類に淡い明かりがともった。
車はゆっくりと駐車場を出る。
窓の外では街灯が歩道を照らし、信号の光が濡れてもいない道路へ長く伸びていた。
コンビニや飲食店の看板も明るく浮かび、仕事帰りらしい人たちがコートの裾を揺らしながら歩いている。
振り返ると、警察署の玄関前に立っていた小林さんの姿が、次第に小さくなっていく。
角を曲がると、もう見えなくなった。
歩道では、親子が仲良さそうに手を繋いで歩いている。
どこにでもありそうな、普通の夜の景色だった。
けれど、車の中だけ空気が止まっているように感じられた。
誰かが笑いながら歩いている。
信号が変わるのを待っている。
コンビニの前では、学生たちが楽しそうに談笑している。
この人たちは今日、誰かが死んだことを知らない。
僕がその人を見つけたことも、化石堂ミドウが警察に調べられていることも知らず、それぞれの一日を終えようとしている。
僕は窓の外から目を離し、膝の上に置いた鞄へ視線を落とした。
中には、行きの電車で使ったメモ帳が入っている。
朝の僕は、あの店でどんな化石を見られるのか、そればかりを考えていた。
今では、メモ帳を開くことさえためらわれる。
あの文字を見れば、棚の陰から伸びていた足まで一緒に思い出してしまいそうだったから。
「隼人」
運転席から低い声がした。
僕は顔を上げる。
春彦おじさんは前を向いたまま、ハンドルを握っていた。
「秋名から、どこまで聞いた」
「御堂さんが亡くなったことと……事件の可能性もあるって」
「そうか」
短く答えたあと、春彦おじさんは何も言わなくなった。
赤信号で車が止まる。
フロントガラスに、前の車の赤いブレーキランプが映り込んだ。
春彦おじさんの指が、ハンドルをトントンと一定のリズムで叩いている。
何かを考えているときの癖なのかもしれない。
「おじさんは、何を聞いたの」
僕が尋ねると、指の動きが止まった。
春彦おじさんは、すぐには答えない。
信号が青に変わる。
車を発進させ、交差点を通り過ぎてから、ようやく口を開いた。
「詳しい捜査内容までは聞いていない。秋名も、話せないことは話さない」
「うん」
「ただ、御堂は単に店の中で倒れたわけじゃない。警察は、病死や事故だけを考えて動いているわけではないそうだ」
横顔が、街灯の光に照らされる。
無骨な顔に浮かんでいるのは、いつもの近寄りがたい表情ではなかった。
警察署で小林さんから話を聞いていたときと同じ、険しい顔をしている。
「殺人事件の可能性が高いと思っておいた方がいい」
その言葉が、ゆっくりと胸の底へ沈んでいった。
警察署で小林さんから聞いたときには、まだ「可能性」という言葉の周りに逃げ道があるような気がしていた。
もしかしたら違うかもしれない。
調べた結果、病気だったとわかるかもしれない。
けれど、春彦おじさんの言い方には、その逃げ道がなかった。
「誰かに、殺されたってこと?」
「まだ決まったわけじゃない」
「でも、可能性は高いんだよね」
「ああ」
車内が急に狭く感じられた。
僕は鞄の持ち手をぎゅっと握る。
御堂さんは誰かに殺された。
まだ決まったわけではない。
それでも、その言葉が頭の中へ入り込むと、化石堂ミドウで見たものが違った形に見え始める。
鍵のかかった扉。
営業中の札。
明かりのついた店内。
棚の陰から伸びていた足。
誰かが御堂さんを殺したのなら、あの店には犯人がいたことになる。
僕が着く少し前まで、そこにいたかもしれない。
もしかすると、僕が商店街を歩いている間にすれ違っていたのかもしれない。
その考えに行き着いた瞬間、首筋が冷たくなった。
僕は反射的に窓の外へ目を向けた。
暗い歩道。
信号待ちをする人影。
細い路地の入口。
先ほどとは打って変わって、全てが闇に包まれているように感じる。
どの顔も知らない。
誰が何を考えているのかもわからない。
「怖いか」
突然尋ねられ、肩が小さく跳ねた。
「……わからない」
正直に答えた。
人が殺されたかもしれない。
その場所を僕は覗き込み、被害者を見つけた。
犯人と擦れ違っていた可能性まである。怖くないわけがない。
それでも、胸の中にあるものは恐怖だけではなかった。
もっと重くて、喉の奥に引っかかり続けるものがある。
「ずっと、考えてる」
「何をだ」
「僕がもっと早く気づいていたらって」
春彦おじさんの眉がわずかに動いた。
「小林さんからも言われた。僕のせいじゃないって」
「ああ。お前のせいじゃない」
「わかってる……!」
言葉が思ったより強くなった。
僕は視線を膝へ落とす。
「頭では、わかってるんだ。でも、あの店に行ったのは僕で、最初に御堂さんを見つけたのも僕だから……」
声が小さくなっていく。
「何も知らないまま、終わるのが嫌なんだ」
自分でも聞き取れるかどうかわからないほど、小さな声しか出なかった。
それでも、春彦おじさんには届いたらしい。
すぐに返事はなかった。言葉を選んでいるように見えた。
車は大きな道路を外れ、住宅や小さな商店が並ぶ通りへ入る。
家まで帰る道とは違う。
僕は何度か窓の外を確かめてから、運転席へ顔を向けた。
「おじさん、僕の家ってこっちじゃないよ」
「知ってる」
「じゃあ、どこに行くの?」
「事務所だ」
前を向いたまま答える。
「今のお前を、そのまま一人で家に帰すわけにはいかない」
「でも、僕は大丈夫――」
言いかけたところで、小林さんの言葉が浮かんだ。
大丈夫じゃないときまで、大丈夫と言わなくていい。
僕は口を閉じる。
春彦おじさんは、ちらりとこちらを見た。
「秋名の前でも、それを言っていたのか」
「何を?」
「大丈夫ですって」
図星を刺され、返事ができなかった。
「姉貴たちが帰るまで、一人で過ごすつもりだったんだろう」
「うん」
「無理だ」
あまりにもはっきりと言われて、僕の心臓がきゅっと縮んだ。
「警察署から出て少し安心しただけで、お前の中では何も終わっていない。今の状態で一人になれば、同じことを朝まで考え続ける。違うか?」
さすが探偵というべきなのだろうか。
これまでは年末に顔を合わせる程度で、二人きりで長く話した記憶すらほとんどない。
それなのに春彦おじさんには、僕が口にできずにいることまで、すべて見透かされているようだった。
家へ帰り、自分の部屋へ入ったところを想像する。
電気を消せば、棚の陰から伸びる足が浮かぶだろう。
物音がすれば、誰かがいるのではないかと考えてしまうかもしれない。
眠れるとは思えなかった。
「事務所で、もう少し話す」
春彦おじさんの声が、先ほどより低くなる。
「それから、姉貴たちが帰るまで、当分は俺の家に泊まれ」
「おじさんの家に?」
「ああ。一人にさせるつもりはない」
「仕事は?」
「今はお前の方が先だ」
迷いのない言葉だった。
僕は何も言えなくなり、再び窓の外を見た。
昔から無口で、顔も怖い。
親戚が集まったときも、皆の輪の少し外側に座り、酒を飲みながら静かに話を聞いていることが多かった。
それでも、僕が恐竜の話を始めると、途中で立ち去ることはなかった。
知らない言葉が出れば質問し、僕が見せた写真を一枚ずつ眺めてくれた。
優しい人だとは知っていた。
けれど、その優しさを真正面から受け取ると、どう反応していいのかわからなくなる。
車は古い雑居ビルの前で止まった。
三階建ての建物で、一階には既に閉まっている印刷店が入っている。
二階の窓には明かりがなく、外壁には雨の跡が黒く残っていた。
「着いたぞ」
春彦おじさんがエンジンを切る。
車内を満たしていた低い振動が消え、急に静かになった。
僕たちは車を降り、建物の横にある細い階段を上った。
春彦おじさんが先に歩く。
一段上がるたび、大きな背中が階段の照明を遮り、影が揺れた。
二階へ着くと、曇りガラスのはめ込まれた扉があった。
ガラスには、黒い文字で名前が書かれている。
【西田探偵事務所】
春彦おじさんが鍵を差し込み、扉を開けた。
事務所は、想像していたよりも狭かった。
奥に大きな事務机があり、その上にはパソコンと電話、書類の入ったトレーが並んでいる。
壁際には金属製の棚が置かれ、厚いファイルや封筒が隙間なく収められていた。
反対側には二人掛けのソファが低いテーブルを挟み二つあり、その横には小さな冷蔵庫と電気ケトルが置かれている。
テレビドラマに出てくる探偵事務所のような、秘密めいた雰囲気はなかった。
誰かが毎日ここで働き、電話をかけ、書類を書いている。
そんな生活の匂いがする場所だった。
「そこに座ってろ」
春彦おじさんはソファを指し、自分は事務机の横へ鞄を置いた。
僕が腰を下ろすと、古いソファの座面がわずかに沈む。
鞄を足元へ置いたところで、急に全身の重さを感じた。
朝から張りつめていたせいか、肩も首も固くなっている。
春彦おじさんは冷蔵庫から水のペットボトルを取り出し、僕の前へ置いた。
「飲め」
「ありがとう」
蓋を開けて一口飲む。
冷たい水が喉を通り、胃へ落ちていった。
警察署で飲んだお茶よりも冷たいはずなのに、少しだけ息がしやすくなる。
春彦おじさんは僕の向かいのソファーへは座らず、事務机の椅子をソファの横に持ってきて座った。
威圧感を与えないためなのか、僕をゆったり座らせてくれるためなのかはわからない。
ただ、気を使ってくれていることは間違いなかった。
大きな体を椅子に沈め、両手を膝の上で組む。
「今から話すことは、よく考えて答えろ」
声音が変わっていた。
車の中で僕を気遣っていた叔父ではなく、依頼人から話を聞く探偵の顔になったように見える。
「うん」
「まず、はっきりさせておく。御堂が死んだのは、お前の責任じゃない」
また同じ言葉だ。
僕が「でも」と言おうとすると、春彦おじさんが片手を上げて制した。
「最後まで聞け」
僕は口を閉じる。
「お前が店へ行くと決めたことも、扉の前で迷ったことも、すぐに人の足だと気づけなかったことも、御堂の死とは関係ない。お前は異変に気づき、通報した。それだけだ」
低い声が、狭い事務所へ響いた。
「だが、頭でわかっていても納得できないことはある。自分だけが何も知らずに日常へ戻ることが、逃げているように感じることもな」
僕は春彦おじさんを見た。
まるで、頭の中の僕を覗いているかのようだった。
「おじさんも、そういうことがあったの?」
聞いた瞬間、春彦おじさんの目がわずかに細くなった。
何かを思い出したようにも見えたけれど、すぐにいつもの表情へ戻る。
「昔の話だ」
それ以上は話さなかった。
僕も、聞いてはいけない気がして口を閉じた。
春彦おじさんは机の端にあった新しいノートを取り、最初のページを開いた。
黒いペンで、中央へ名前を書く。
御堂脩一
その下へ、
化石堂ミドウ
白い紙の上に並んだ文字を見た瞬間、胸の奥がざわついた
。
今日まで、御堂さんは僕にとって、名前も知らない化石販売店の店主だった。
話したこともないし、顔すらはっきり見ていない。
それでも、その人の死が、目の前で一つの事件として書き留められている。
「警察は捜査をする」
春彦おじさんが言った。
「現場を調べ、死因を調べ、関係者から話を聞く。それは警察の仕事だ。俺たちが勝手に現場へ入り込んだり、証拠へ触れたりすることはできない」
「じゃあ、おじさんは何ができるの?」
「御堂という人間を調べる」
ペン先が、紙の上の名前を軽く叩いた。
「どんな仕事をしていたのか。誰と付き合いがあったのか。金銭や取引で揉めていた相手はいないか。恨みを買っていなかったか。警察とは違う立場から確認できることはある」
「誰かに頼まれたの?」
「誰にも頼まれていない」
「じゃあ、どうして調べるの?」
春彦おじさんは僕を見た。
「お前が巻き込まれたからだ」
短い答えだった。
「殺人の可能性が高い以上、犯人がお前の存在に気づいている可能性もある」
背中がわずかに強張った。
「僕も、狙われるかもしれないってこと?」
「今の段階では、その可能性は低い」
春彦おじさんは、すぐに否定した。
「お前は犯人を見たわけじゃない。店内にも入っていない。ただし、低いからといって何もしない理由にはならない。犯人がお前を見た可能性も、ないとは言い切れない」
落ち着いた口調だった。
怖がらせるためではなく、危険を正しく伝えようとしている。
「しばらく、一人であの店の周辺へ行くな。知らない人間から事件について連絡が来ても返事をするな。何か思い出したら、まず俺か秋名へ話せ」
「わかった」
春彦おじさんは頷き、ノートを閉じようとした。
けれど、その手が途中で止まる。
しばらく黙ったあと、ノートを開いたままテーブルへ戻した。
「もう一つ、聞く」
春彦おじさんは、ふぅと深呼吸をして、今までとはまた違う鋭い目で僕を見た。
その目が自然と僕の背筋を伸ばす。
「お前は、この事件を忘れて普段の生活へ戻りたいか」
予想外の質問に、すぐには答えられなかった。
忘れられるなら、その方がいいのかもしれない。
化石堂ミドウへ行く前に戻れるなら、昨日までの自分に戻りたい。
大学のことを調べ、博物館へ通い、恐竜や化石のことだけを考えていたかった。
けれど、もう御堂さんを見てしまった。
あの足も、担架の上の姿も、なかったことにはできない。
「わからない……忘れたいとは思ってる。でも、忘れたら駄目な気もする」
「なぜだ」
「僕が見つけたから」
「それはお前の責任じゃない」
「わかってる。でも……」
僕は言葉を探した。
自分が何を求めているのか、まだはっきりとはわからない。
犯人を捕まえたいのか。
御堂さんが殺された理由を知りたいのか。
それとも、自分が店へ行ったことに意味があったと思いたいだけなのか。
「御堂さんは、僕が行くまで、ずっとあそこにいた」
口にすると、胸が詰まった。
「助けられなかったかもしれない。でも、見つけたのに、そのあとは全部警察に任せて、自分だけ知らないふりをするのは嫌だ」
春彦おじさんは黙って聞いていた。
「御堂さんがどんな人だったのかも、誰に殺されたのかも、何も知らないまま終わったら……僕は……」
声が震えそうになり、膝の上で手を握った。
「僕は、これからも後悔し続けることになると思う」
御堂さんが良い人だったのか、悪い人だったのかも知らない。
どんな声で話し、どんな化石が好きで、なぜあの場所で死ななければならなかったのかもわからない。
けれど、生きていた人だった。
棚の陰から伸びていた両足だけで終わらせたくなかった。
春彦おじさんは、しばらく僕の顔を見ていた。
やがて椅子へ深く座り直し、腕を組む。
「なら、選べ」
「選ぶ?」
「このまま俺に任せるか、一緒に追うかだ」
「僕も、調べていいの?」
「勘違いするな」
春彦おじさんの声が少し厳しくなった。
「お前を殺人現場へ連れ回すつもりはない。怪しい人間のところへ一人で行かせる気もない。」
「じゃあ、一緒に追うって……」
「お前が見たこと、感じたこと、思い出したことを俺に話す。必要なことがあれば教える。俺が調べたことも、お前に話せるものは話す」
春彦おじさんは、御堂の名前が書かれたノートを僕の方へ少し押した。
「お前を一人で抱え込ませない。その代わり、勝手な行動はするな。危険だと判断したことには関わらせない。俺がやめろと言ったら、必ず止まれ」
「それで、一緒に事件を調べられるの?」
「ああ」
春彦おじさんは頷いた。
「だが、これは遊びじゃない」
低い声に、先ほどまでとは違う重みがあった。
「知りたくなかったことを知る可能性がある。人間の嫌な部分を見ることにもなる。御堂が、お前の思っていたような化石を愛する店主ではないかもしれない」
その言葉に、胸がわずかに痛んだ。
化石堂ミドウのホームページ。
初心者歓迎という文字。
化石は過去からの贈り物です、と書かれた紹介文。
僕は勝手に、御堂さんを良い人だと思っていた。
化石が好きで、訪れた人にその魅力を教えてくれる店主なのだと想像していた。
実際にどんな人だったのかは、何も知らない。
「それでも知りたいか」
春彦おじさんが尋ねる。
僕は御堂脩一と書かれた文字を見つめた。
怖い。
本当は今でも、布団を被り、今日のことを全部忘れたいと思っている。
それでも、知らないままでは終われない。
僕が見つけた人が、なぜ死んだのか知りたかった。
誰かに殺されたのなら、その人を捕まえてほしい。
そして、自分にできることが少しでもあるのなら、何もしないままにはしたくなかった。
「一緒に追いたい」
言葉にした瞬間、胸の奥が強く脈打った。
「僕にも、事件を解決する手伝いをさせて」
春彦おじさんの表情は変わらなかった。
けれど、その目だけがわずかに細くなる。
「責任を感じているからか」
「それもあると思う」
「自分のせいだと思っているなら、認めない」
「僕のせいじゃないっていうのは、わかってる」
完全に納得できたわけではない。
それでも、今ここで嘘をつけば、春彦おじさんにはすぐに見抜かれる気がした。
「御堂さんを助けられなかった責任じゃない。見つけた僕が、最後まで知りたいんだ」
「最後まで、か」
「うん」
春彦おじさんは長く息を吐いた。
天井を見上げたあと、困ったように眉間を押さえる。
「姉貴に知られたら、俺が殺されるな」
「お母さんに?」
「高校生の息子を殺人事件へ関わらせたとなれば、当然だ」
「でも、おじさんから聞いた話を一緒に考えるだけなら……」
「そういう言い訳が姉貴に通じると思うか」
少しだけ冗談のような響きが混じっていた。
今日初めて、胸の奥にあった重さがわずかに緩む。
春彦おじさんは僕を見て、もう一度ため息をついた。
「まあ、俺から提案したんだ。仕方がない」
「じゃあ……」
「ただし、条件はある」
春彦おじさんは、指を一本立てる。
「一人で調べない」
二本目。
「一人で怪しい人に会わない」
三本目。
「勝手に現場へ近づかない」
さらに指を立てながら、低い声で続ける。
「学校と普段の生活を優先する。何か気づいたら、どれだけ小さなことでも俺に話す」
「うん」
「それから、自分が危ないと思ったら、意地を張らずに逃げろ。真相より命の方が大事だ」
「わかった」
「本当にわかってるか」
「わかってる」
春彦おじさんは数秒間、僕の顔を見つめた。
やがて諦めたように肩を落とすと、閉じかけていたノートを再び開いた。
御堂脩一
化石堂ミドウ
その下に、新しい線を引く。
「なら、最初から整理するぞ」
春彦おじさんは、ペンを握り直した。
「まず知るべきなのは、御堂脩一が何者だったのかだ」
「店主じゃないの?」
「それは表から見える肩書きにすぎない」
黒いペン先が、紙の上で止まる。
「人が殺されたとき、理由は死んだ瞬間だけにあるとは限らない。昨日や今日ではなく、何年も前に始まっていることもある」
その言葉を聞きながら、僕は化石を思い浮かべた。
地面へ埋もれた骨。
土や岩に覆われ、長い時間を経て石へ変わった過去の痕跡。
今見えている形だけでは、その生き物がどんな場所に暮らし、どんな最期を迎えたのかはわからない。
周囲の地層や、骨の並び方、残された傷を一つずつ調べて、過去に起きたことを読み解いていく。
人の事件も、少し似ているのかもしれない。
目の前に残ったものから、見えなくなった過去を探していく。
「おじさん」
「何だ」
「僕、ちゃんと役に立てるかな」
春彦おじさんは、すぐには答えなかった。
手元のノートへ視線を落としたまま、静かに言う。
「役に立つかどうかは、まだわからん」
正直な答えだった。
「だが、お前にしか気づけないことがある可能性は否定しない」
顔を上げ、僕を見る。
「だから、気づいたことを勝手に小さなことだと決めつけるな。俺は聞く」
その言葉を聞いたとき、胸の奥に残っていた冷たさが、ほんの少しだけ薄くなった。
春彦おじさんは、僕が無邪気に話す恐竜の話をすべて理解できていなかったと思う。
それでも、いつもずっと聞いてくれていた。
高校生だからとすべてを遠ざけるのではなく、今も昔も僕の言葉を聞こうとしてくれている。
春彦おじさんは、そういう人なんだ。
「うん」
僕は大きく頷いた。
春彦おじさんが、ノートの新しい行へペンを置く。
「それじゃ、始めるぞ」
白い紙の上に、最初の問いが書かれた。
――御堂脩一は、なぜ殺されたのか
その答えは、まだ何も見えない。
犯人が誰なのかも、御堂さんがどんな人だったのかも、僕にはわからなかった。
ただ一つわかるのは、僕がもう、ガラスの外から眺めているだけではないということ。
僕と春彦おじさんは、この夜から同じ事件を追うことになった。




