第四話「灰色の壁」
警察署の中は、思っていたより静かだった。
もっと慌ただしく、人の声が飛び交っている場所だと思っていた。ドラマで見る警察署は、電話の音や足音や、誰かを呼ぶ声でいつも騒がしい。けれど僕が通された部屋は、外の気配から切り離されたように静かで、白い蛍光灯だけが天井から冷たく光っていた。
壁は白に近い灰色だった。
正面に机が一つ。向こう側に椅子が一つ。こちら側にも椅子が一つ。机の上には、ボールペンと紙、それからまだ湯気の残る紙コップが置かれている。
僕は椅子に座ったまま、両手を膝の上で握っていた。
さっきから何度も、指先が冷たくなる。握って、ほどいて、また握る。何かしていないと、ガラス戸の向こうに見えたものが、すぐに頭の中へ戻ってきそうだった。
棚の陰から伸びていた足。
担架に乗せられて運ばれていく、顔の見えない人。
救急車の赤い光。
耳の奥には、まだサイレンの音が残っている気がした。
ドアが小さくノックされた。
「入るね」
落ち着いた女性の声がして、扉が開く。
入ってきたのは、警察官の女性だった。黒い髪を後ろでまとめていて、背筋がまっすぐ伸びている。制服ではなく、落ち着いた色のスーツを着ていた。
僕を見ると、少しだけ表情をやわらげる。
「待たせてごめんね。小林秋名です」
そう言って、彼女は僕の向かいに座った。
「夏樹隼人くん、で合ってる?」
「はい」
声が思ったより小さく出た。
小林さんは紙の上に視線を落とし、何かを確認してから、もう一度僕を見た。
「今日は、かなり怖い思いをしたと思う。できるだけゆっくりでいいから、わかる範囲で話してくれるかな。わからないことは、わからないで大丈夫」
「はい」
「まず、君は化石堂ミドウに行くつもりだったんだよね」
「はい。ネットで見つけて……化石を見に行こうと思って」
「お店には、何時ごろ着いたか覚えてる?」
僕は答えようとして、少し詰まった。
スマートフォンを見た時間。駅を出た時間。商店街を歩いていた時間。記憶をたどろうとすると、途中で必ずガラス戸の前に戻ってしまう。
「たぶん……十時半を少し過ぎたくらいだったと思います」
「十時半過ぎ」
小林さんは、僕の言葉を紙に書き留める。
「お店に着いたとき、入口はどうなってた?」
「入口には……営業中の札がありました。でも、ドアは開かなくて」
「鍵がかかっていた?」
「はい。引いても開かなくて」
「そのとき、店の中に人の声は聞こえた?」
僕は首を横に振る。
「聞こえなかったと思います」
「物音は?」
「それも……たぶん、なかったと思います」
たぶん、という言葉が自分でも嫌だった。
本当に何も聞こえなかったのか。聞こえていたのに覚えていないだけなのか。
あのときの僕は、ただ混乱していた。
店の扉が開かない。営業中なのに誰も出てこない。中に人の足のようなものが見える。見間違いかもしれない。けれど、見間違いじゃなかったらどうすればいいのかもわからない。
頭の中でいくつもの考えがぶつかって、どれも途中で切れていた。
音を聞こうとしていたのか、店内を見ようとしていたのか、通報しなければと考えていたのか。
自分が何に意識を向けていたのかさえ、はっきり思い出せなかった。
小林さんは、僕の迷いに気づいたように、ペンを止めた。
「今、はっきり覚えていないことは、無理に決めなくていいよ」
「でも、ちゃんと話さないと」
「うん。ちゃんと話そうとしてくれてるのはわかる。でも、記憶って、怖いことがあると抜けたり、前後が曖昧になったりするから。だから、無理に埋めなくていい」
小林さんの声は、警察官らしくはっきりしているのに、どこか母親みたいなやわらかさがあった。
僕は小さく頷く。
「店の周りは見た?」
「はい。入口のドアが開かなかったので、他に入れそうな場所がないかと思って」
「どこを見たか覚えてる?」
「隣の建物との間に、通れるか通れないかくらいの隙間がありました。でも、かなり狭くて……奥まで行くのは無理そうでした」
「そこから中を見た?」
「いえ。通れそうになかったので、また入口に戻って覗き直しました」
「反対側は?」
「反対側には、庭みたいな場所に出る戸がありました。でも鍵がかかっていて、入れませんでした」
「その庭の方から、店の中は見えた?」
「見えなかったと思います。少なくとも、僕は見てません」
小林さんは頷き、紙に書き込んだ。
「じゃあ、店の中を見たのは、入口のガラス戸からだけ?」
「はい」
「そこで、何が見えた?」
喉が急に狭くなる。
あの足のことを、口にしなければならない。わかっているのに、舌が動かなかった。
小林さんは、すぐに続きを急かさなかった。
「ゆっくりでいいよ」
僕は息を吸った。
「人の足が、見えました」
言った瞬間、胃のあたりが重くなった。
「最初から、人の足だと思った?」
「いえ……最初は、よくわからなくて。何か置いてあるのかと思いました。でも、靴みたいに見えて、それで……人かもしれないって」
「そのあと、どうしたの?」
「その場でスマホを出して、119番に電話しました」
「ドアからは離れなかった?」
「はい。たぶん、入口の前にいたと思います。怖くて、でも目を離すのも怖くて」
自分で言いながら、あのときの体の固まり方を思い出した。
逃げたいのに、逃げられない。
見たくないのに、見てしまう。
あの場に自分だけが取り残されたような感覚。
「中には入っていないんだね」
「入ってません」
「ドアにも、窓にも、無理に触っていない?」
「ドアは最初に開けようとして触りました」
僕はそこで言葉を切った。
思い出すと、胸が少しざわついた。
「少し、力強く引いてしまったかもしれません。開かなくて、何度か……すみません」
小林さんは、すぐに首を横に振った。
「謝らなくていいよ。普通にお店に入ろうとしただけでしょう?」
「でも」
「大丈夫。今の確認は、君を責めるためじゃない。どこに触れたかを知るためだから」
「はい……」
「ドア以外は?」
「触ってないと思います」
「うん。わかった」
小林さんは一つずつ確認しながら、紙に書き込んでいく。
ペンの音だけが、部屋の中に響いた。
その音を聞いていると、僕が話したことが一つずつ事件の一部になっていくような気がした。僕の記憶が、紙の上に並べられていく。逃げられない形になっていく。
「救急隊が来てからは?」
「僕は外にいました。消防の人がドアを開けて、中に入って……離れてと言われたので、少し下がりました」
「そのとき、倒れていた人の顔は見た?」
「見てません。担架で運ばれるところは見ましたけど、顔は……よく見えませんでした」
そこまで言って、また声が詰まりそうになった。
顔を見ていない。
名前も知らない。
話したこともない。
それなのに、あの人の足だけが頭から離れない。
小林さんは、少しだけペンを置いた。
「隼人くん」
「はい」
「君は、できることをしたよ」
その言葉に、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「異変に気づいて、通報した。店内にも入らなかった。現場を荒らさなかった。怖かったと思うけど、正しい行動をしてる」
「でも……」
自分でも、何を言おうとしたのかわからなかった。
でも、もっと早く気づいていたら。
でも、もっとちゃんと見ていたら。
でも、あの足を見た瞬間に迷わず動けていたら。
そんな言葉が胸の中にいくつも浮かんで、どれも口に出せないまま沈んでいく。
小林さんは静かに言った。
「君のせいじゃない」
その言葉は、優しかった。
でも、優しいだけでは、胸の奥に刺さったものは抜けなかった。
しばらくして、小林さんは一枚の紙を見た。
その表情が、少し変わる。
僕は反射的に背筋を伸ばした。
「隼人くん。これから話すことは、少しつらいかもしれない」
心臓が嫌な音を立てた。
聞きたくない。
でも、聞かなければならない気がした。
「今日、化石堂ミドウで倒れていた男性は、御堂脩一さん。五十九歳。あのお店の店主です」
御堂脩一。
初めて聞く名前だった。
けれどその名前が、あの足と結びついた瞬間、ただの「倒れていた人」ではなくなった。
「御堂さんは、搬送先の病院で死亡が確認されました」
音が消えたような気がした。
小林さんの声は聞こえている。蛍光灯の低い音も、遠くの足音も、たぶん聞こえていた。それなのに、頭の中では何もつながらなかった。
亡くなった。
死んだ。
僕が見つけた人が。
「……助からなかったんですか」
「うん」
小林さんは、短く答えた。
嘘をつかない声だった。
僕は膝の上で両手を握りしめ爪が掌に食い込む。
「僕が、もっと早く……」
「違う」
小林さんの声が、少しだけ強くなった。
「それは違うよ、隼人くん。君が見つけた時点で、どうにもならなかった可能性が高い。だから、自分を責めないで」
「でも」
「でも、じゃない」
まっすぐな目だった。
怖い目ではなかった。けれど、逃げ道を許さない目だった。
「君は助けようとした。通報した。それは事実。御堂さんが亡くなったことと、君が責任を感じることは、別の話」
別の話。
そう言われても、心は簡単に分けられなかった。
僕は、御堂さんの名前を心の中で繰り返した。
御堂脩一。
化石堂ミドウの店主。
五十九歳。
それでも僕の中に浮かぶのは、やっぱり棚の陰から伸びた足だった。
「それから」
小林さんは、少し言葉を選ぶように間を置いた。
「これはまだ確定したことじゃない。でも、私たち警察は、事件の可能性も考えなくちゃいけない」
事件。
その言葉は、部屋の灰色の壁にぶつかって、ゆっくり僕の方へ戻ってきた。
「事件って……誰かが、御堂さんに何かしたってことですか」
「今は、そういう可能性も含めて調べている、という段階」
小林さんは慎重に答えた。
「断定はできない。けれど、病気や事故だけとして扱っているわけではない」
喉が乾いた。
紙コップのお茶が机の上にある。けれど手を伸ばすことができなかった。
誰かが御堂さんに何かをした。
もしそうなら、あの店には、僕が行く前に誰かがいたことになる。
僕が商店街を歩いていたとき、どこかですれ違っていたかもしれない。
営業中の札。
開かないガラス戸。
隣の建物との間にあった、通れるか通れないかくらいの隙間。
鍵のかかった庭戸。
棚の陰。
知らない人の足。
全部が、さっきまでとは別の意味を持って見え始めた。
「隼人くん」
小林さんが、僕の名前を呼んだ。
「保護者の方に連絡を取りたいんだけど、ご両親は?」
「両親は……今、海外にいて」
「海外?」
「はい。旅行で。連絡は取れると思うんですけど、すぐには帰ってこられないかもしれません」
小林さんは少し考えた。
「近くに、来てもらえそうな身内の方はいる?親戚の人とか。」
親戚。
頭の中に、背の高い男の人の顔が浮かんだ。
母方の叔父。
西田春彦。
年末に親戚が集まると、いつも少し離れたところで酒を飲んでいる人。顔が怖くて、背が高くて、でも僕が恐竜の話をすると最後まで聞いてくれる人。
「叔父がいます」
「連絡先はわかる?」
「はい」
僕はスマートフォンを取り出した。
画面を開く指が、少し震えている。連絡先の一覧から「春彦おじさん」を探すだけなのに、何度も違うところを押しそうになった。
「ゆっくりでいいよ。必要なら、私が代わるから」
小林さんはそう言って、少しだけ体の向きを変えた。
部屋を出ることはなかった。
それだけで、少し安心した。
僕は通話ボタンを押した。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
出なかったらどうしよう。
今からどうしたらいいのだろう。
僕は息を止めるようにして待った。
四回目の途中で、低い声が聞こえた。
『隼人か?』
その瞬間、胸の奥に張りつめていたものが切れた。
「おじさん」
声が震えた。
『どうした。何かあったのか』
「僕……警察署にいて」
『警察署?』
電話の向こうの空気が変わった。
「化石屋に行ったら、人が倒れてて……僕が通報して、それで……その人、亡くなったって」
言葉がうまく出てこない。
順番もめちゃくちゃだった。
それでも春彦おじさんは、途中で遮らなかった。
『場所はどこだ』
「えっと……」
僕は小林さんを見る。
小林さんが静かに手を差し出した。
「代わるね」
僕はスマートフォンを渡した。
「夏樹隼人くんの叔父さんですね。小林秋名と申します」
小林さんは、落ち着いた声で話し始めた。
「はい。現在、隼人くんはこちらで保護しています。事件性の有無も含めて確認中です。ご両親が海外とのことで、来ていただくことは可能でしょうか」
少しの沈黙。
「ありがとうございます。場所をお伝えします」
小林さんは警察署の住所を伝えた。
電話を切ると、僕にスマートフォンを返す。
「叔父さん、来てくれるって。だいたい一時間くらい」
「一時間……」
「それまでは、ここにいて大丈夫」
そう言われて、僕は椅子に座り直した。
けれど、座った途端に、急に怖くなった。
一時間。
その間、また同じ部屋で、御堂さんのことを考え続けるのだろうか。
ガラス戸の向こうに見えた足を、何度も思い出すのだろうか。
「小林さん」
自分でも驚くほど、弱い声が出た。
「はい」
「僕……一人でいたくないです」
言った瞬間、恥ずかしさで視線を落とした。
高校生なのに。
十六歳なのに。
警察署の中にいるのに。
でも、今だけは一人になりたくなかった。
小林さんは、少しも笑わなかった。
「うん。わかった」
そう言って、僕の背中にそっと手を置いた。
強く叩くでも、無理に励ますでもない。ただ、そこにいると伝えるような手だった。
「待合の方へ行こうか。ここより少し人の気配があるから」
僕は頷いた。
小林さんに連れられて、部屋を出る。
廊下の白い光が目に刺さった。どこかで電話が鳴っている。誰かの足音が近づいて、遠ざかる。
待合の椅子に座ると、窓の外が少し見えた。
空は、いつの間にか夕方の色になっていた。
今日、僕は本当なら、化石堂ミドウで化石を見て、帰りに感想をメモして、家に帰って図鑑を開くつもりだった。
新しく見た化石の名前を調べて、冬樹先生に今度話せるかもしれないと思っていた。
そんな一日になるはずだった。
でも今、僕は警察署にいる。
人が死んだ。
事件かもしれない。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
小林さんは、少し離れたところで別の警察官と話していた。けれど、ときどきこちらを見てくれる。
僕は紙コップのお茶を両手で持ったまま、ほとんど飲めずにいた。
どれくらい時間が経ったのかわからない。
自動ドアの開く音がして、顔を上げた。
大きな男の人が、受付の方へ歩いてくる。
黒っぽいスーツ。ネクタイはしていない。短い髪が少し逆立っていて、遠目にも背が高い。肩幅が広く、歩き方だけで周りの人が少し避ける。
春彦おじさんだった。
「隼人」
名前を呼ばれた瞬間、我慢していたものがまたこみ上げてきた。
立ち上がろうとして、足に力が入らない。春彦おじさんの方が先に近づいてきて、僕の前で膝を少し曲げた。
「怪我は」
「してない」
「どこか痛いところは」
「ない」
「そうか」
それだけ言うと、春彦おじさんは大きな手を僕の肩に置いた。
力は強くなかった。
でも、その手があるだけで、少しだけ呼吸ができる気がした。
「よく一人で待ったな」
その言葉で、目の奥が熱くなった。
「僕……」
何か言おうとしたけれど、言葉にならなかった。
春彦おじさんは、それ以上聞かなかった。
小林さんがこちらへ歩いてくる。
「やっぱり、先輩でしたか」
春彦おじさんが顔を上げる。
「秋名か」
「電話の声と、春彦って名前で、まさかとは思いましたけど」
小林さんは、少しだけ眉を寄せた。
「なんで電話で教えてくれなかったんですか。私だって、気づいたでしょう?」
「急いでた」
「そういうところ、変わりませんね」
「お前もな」
二人は知り合いらしかった。
僕は涙をこらえながら、二人を見比べる。
「知り合いなの?」
春彦おじさんが短く答えた。
「昔の部下だ」
小林さんがすぐに言う。
「元後輩です」
「似たようなもんだろ」
「違います」
そのやりとりは、今の状況に似合わないくらい普通で、ほんの少しだけ現実感を取り戻させた。
春彦おじさんは、すぐに表情を戻す。
「隼人から、だいたいの話は聞いた。詳しく聞かせてくれ」
小林さんは一度、僕を見た。
「隼人くん。少しだけ、叔父さんと話してくるね。すぐそこにいるから」
「はい」
二人は少し離れた場所へ移動した。
声は小さくて、内容までは聞こえない。
小林さんが何かを説明し、春彦おじさんが険しい顔で聞いている。途中で、春彦おじさんの眉間に深いしわが寄った。
たぶん、小林さんは「事件の可能性」について話しているのだと思った。
僕の胸がまた重くなる。
自分には聞こえない場所で、自分の見つけたものについて話が進んでいる。
それが少し怖かった。
しばらくして、春彦おじさんが戻ってくる。
「帰るぞ」
「もう、いいの?」
「今日はな。後でまた確認が必要になることはあるかもしれないが、今は帰って休め」
小林さんも近づいてきた。
「隼人くん。今日は本当にありがとう。何か思い出したら、すぐ連絡して。どんな小さなことでもいいから」
「どんな小さなことでも、ですか」
「うん。入口のことでも、店の周りのことでも、見たものでも、見なかったと思うものでも」
僕は頷いた。
「わかりました」
小林さんは、少しだけ表情をやわらげた。
「それと、無理に大丈夫って言わなくていいからね」
僕は何も言えず、もう一度頷いた。
春彦おじさんと並んで、警察署を出る。
外の空気は冷たかった。
昼間とは違う匂いがした。排気ガスと、どこかの店から流れてくる揚げ物の匂い。遠くで自転車のベルが鳴る。道路を車が走っていく。
何もかもが、普通の夕方だった。
春彦おじさんは、僕の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる。
駐車場へ向かう途中、警察車両の赤いランプが目に入った。
胸がざわつく。
ガラス戸。
営業中の札。
鍵のかかった扉。
通れるかどうかもわからないほど狭い、隣の建物との隙間。
反対側にあった、鍵のかかった庭戸。
棚の陰から伸びていた足。
担架。
御堂脩一。
事件の可能性。
全部がばらばらのまま、頭の中でぶつかり合っていた。
「隼人」
春彦おじさんが呼んだ。
「うん?」
「何度でも言うが、お前のせいじゃない」
また、その言葉だった。
小林さんにも言われた。
春彦おじさんにも言われた。
それでも、すぐに信じることはできなかった。
「……うん」
僕は小さく答えた。
警察署の建物を振り返る。
灰色の壁が、夕方の光の中でさらに冷たく見えた。
今日、僕は化石を見に行っただけだった。
少し珍しい店に行って、棚に並んだ標本を眺めて、帰ってからメモをまとめる。それだけの一日のはずだった。
けれど、もう元には戻れない。
僕の知らないところで、何かが起きていた。
僕が見た足は、その一部でしかなかった。
そしてたぶん、まだ終わっていない。
春彦おじさんの隣を歩きながら、僕はそう感じていた。




