第三話「サイレン」
僕は、ガラス戸の前から動けなくなった。
棚の陰から伸びている両足を見つめたまま、何度も瞬きを繰り返す。けれど、目を閉じて開き直しても、そこにあるものは消えてくれなかった。
黒っぽいズボンの裾と、革靴の先。
見えているのは、それだけだ。
床に座り込んでいるのかもしれない。棚の下へ落としたものを拾おうとして、そのまま眠ってしまったのかもしれない。
そんなはずはないと思いながらも、僕は必死に別の理由を探した。
倒れているとは限らない。
ただ、見えないところで作業をしているだけかもしれない。
けれど、足は少しも動かなかった。
店内の照明は明るく、中央のショーケースには小さな化石や鉱物が整然と並んでいる。ルーペも値札も、そのまま置かれていた。
入口近くのアンモナイトも、さっきと変わらず標本箱の中に収まっている。
店は、今にも営業を始めそうに見えた。
ただ、人の声だけがなかった。
「すみません」
喉の奥が張りつき、思っていたよりも小さな声しか出ない。
僕は息を吸い直し、もう一度ガラス戸へ顔を近づけた。
「すみません。大丈夫ですか」
返事はなかった。
商店街からは、誰かが話している声や自転車の走る音が聞こえてくる。少し離れた店では、ラジオから明るい音楽が流れていた。
土曜日の朝は、何事もなかったかのように続いている。
その日常と、ガラス一枚向こうの静けさが、まるで別の場所のように感じられた。
僕は入口の取っ手をつかんだ。
力を込めて引く。
カタッ、と鍵のかかった硬い音が返ってきただけで、扉は開かなかった。
もう一度引いてみる。
やはり動かない。
「開いてよ……」
自分でも、誰に向かって言ったのかわからなかった。
中に人がいる。
倒れているかもしれない人がいるのに、僕はガラスの外から眺めることしかできない。
焦りが喉元まで込み上げてきた。
僕は手のひらでガラスを強く叩いた。
「聞こえますか!」
店内に声が響く。
「大丈夫ですか! 返事できますか!」
何も聞こえない。
足も動かない。
その瞬間、胸の奥にあった不安が、はっきりとした恐怖へ形を変えた。
急病かもしれない。
心臓の発作や脳の病気で、突然倒れたのかもしれない。詳しいことはわからないけれど、このまま放っておいていいはずがなかった。
僕はパーカーのポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を開こうとした指が震え、違うところに触れてしまう。一度閉じた画面を慌ててつけ直し、震える指先で119と押した。
数回の呼び出し音のあと、落ち着いた声が聞こえてきた。
「火事ですか、救急ですか」
「あ、救急です」
自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
「人が……人が倒れてるみたいなんです」
場所を尋ねられ、僕はスマートフォンに保存していた住所を読み上げた。
古い商店街の中にある、化石堂ミドウという店。
営業中の札が出ていること。
照明もついていること。
それなのに入口には鍵がかかっていて、中へ入れないこと。
棚の陰から人の足が見えており、何度呼びかけても返事がないこと。
頭の中がうまくまとまらず、同じ説明を繰り返してしまった気がする。それでも電話の向こうの人は、僕の話を遮らず、一つずつ確認してくれた。
「救急車と消防車が向かいます。お店の前で、安全な場所にいてください」
「はい」
「中には入らないでください。倒れている方に変化があれば、また教えてください」
通話が切れたあとも、僕はスマートフォンを握りしめていた。
画面が暗くなっても、手から離せない。
ガラス越しに、何度も店の奥を確認する。
足は、やはり動かなかった。
店内へ入る方法がないかと周囲を見回してみたけれど、隣の建物との細い隙間は暗く、奥に扉があるのかどうかさえわからない。
勝手に入ってはいけない。
電話でも、そう言われた。
わかっている。それでも、ただ待っている時間が苦しかった。
もし一分遅れたせいで助からなかったら。
もっと早く気づいていれば。
そんな考えが浮かぶたび、心臓が強く脈打った。
どれほど待ったのかは、わからない。
実際には数分だったのかもしれない。けれど僕には、その時間が異様に長く感じられた。
やがて、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
最初は商店街のざわめきに紛れるほど小さかった音が、次第にはっきりと近づいてくる。
赤い光がアーケードの壁をちらちらと照らした。
商店街の入口に救急車と消防車が停まり、隊員たちが慌ただしく降りてくる。周囲にいた人たちが足を止め、一斉にそちらへ顔を向けた。
「通報した方ですか」
駆け寄ってきた隊員に尋ねられ、僕は何度も頷いた。
「はい。僕です」
乾いた喉から出た声は、ひどく掠れていた。
「中に倒れている方がいるんですね」
「奥の棚のところに足が見えて……何度呼んでも、返事がなくて」
僕が指差すと、消防隊員の一人がガラス越しに店内を確認した。手で外の光を遮りながら覗き込み、すぐに別の隊員へ何かを伝える。
「中の方、聞こえますか! 救急です!」
大きな声が、ガラスを隔てた店内へ向けられた。
「聞こえたら、返事をしてください!」
返答はなかった。
消防隊員の一人が取っ手を確認し、鍵がかかっていることを告げた。別の隊員は、入口の構造やガラスの厚さを慎重に調べ始める。
「君は危ないから、もう少し下がっていてください」
促されるまま、僕は数歩後ろへ下がった。
消防隊員が車両から工具を運んでくる。先端が平らになった、重そうな金属製の器具だった。
左右のガラス戸の合わせ目へ工具が差し込まれる。
ギィ、と金属が擦れる嫌な音が響いた。
茶色い扉の枠がわずかに歪み、ガラスの表面に細かな振動が走る。
もう一度、力が加えられた。
店内のショーケースへ音が反射し、低く震える。
僕は息を止めたまま、その様子を見つめていた。
何度目かで、鍵の付近から鋭い音がした。
片側のガラス戸がわずかに開き、消防隊員ができた隙間を慎重に広げていく。
人が通れるほどになると、救急隊員たちがすぐに店内へ入った。
「大丈夫ですか!」
「聞こえますか!」
開かれた扉から、切迫した声が外へ響く。
僕の立っている場所からは、棚と隊員たちの背中しか見えなかった。
奥で何が行われているのかは、まったくわからない。
バッグのファスナーが開く音。器具同士が触れ合う硬い音。短く交わされる指示の声。
見えない店の奥から、いくつもの音だけが続けて聞こえてくる。
何をしているのか、僕にはわからない。
ただ、隊員たちが懸命に助けようとしていることだけは伝わってきた。
僕はスマートフォンを握ったまま、祈るような気持ちで店内を見つめた。
どうか、間に合ってほしい。
ただ意識を失っていただけであってほしい。
しばらくしたら目を覚まし、驚かせてすみませんと笑ってほしい。
僕が勝手に大騒ぎしただけだったなら、それでいい。
恥ずかしい思いをしても、叱られても構わない。
どうか、この人が無事であってほしかった。
けれど、店内から聞こえてくる声は、時間がたつにつれて硬く、短いものへ変わっていった。
「担架、お願いします」
一人がそう言うと、別の隊員が外へ走ってくる。
その頃には、商店街の人たちが店の周囲へ集まり始めていた。
八百屋の前にいた女性。
自転車を押していた男性。
僕の背後を通り過ぎた、買い物袋を提げた年配の女性。
皆、少し離れた位置から、化石堂ミドウの入口を見つめている。
「何があったの」
「中で人が倒れてたらしいよ」
「あの子が見つけたんだって」
抑えた声が、背中へ貼りついてくるようだった。
振り返ることができない。
僕はただ、開かれたガラス戸の向こうを見ていた。
やがて、担架が店内へ運び込まれた。
少しして、救急隊員たちが奥から戻ってくる。
担架の上には、一人の男性が横たわっていた。
店の写真や紹介文に店主の顔は載っていなかった。
それでも、ほかに誰もいなかったことから、この人が店主なのだろうと思った。
短めの七三分けの髪。
ポロシャツにスラックス。
年齢は、六十歳に届くかどうかくらいに見えた。
顔は横を向き、目は閉じられている。
口元には救急用の器具が当てられ、体の大部分は毛布のようなもので覆われていた。
血が見えたわけではない。
傷は見えないからわからない。
それでも、その姿を見た瞬間、息が止まりそうになった。
男性の体から、すべての力が抜け落ちているように見えたからだ。
あの足は、この人のものだった。
そう理解した途端、膝の力が急に弱くなった。
足元が揺れたわけではないのに、地面が頼りなく感じられる。
冷たいものが胸の内側へ流れ込み、指先から体温が抜けていった。
赤い回転灯の光が、店のガラスや担架の金属部分に反射している。
商店街に集まった人たちの声も、救急隊員の指示も、次第に遠ざかっていった。
薄い膜を何枚も隔てた向こうから聞こえてくるようで、言葉の意味が頭に入ってこない。
目の前の出来事が、本当に起きていることだと思えなかった。
映画の大きなスクリーンを通して、知らない誰かの出来事を眺めているような感覚だった。
けれど、スマートフォンを握る手の震えだけは止まらない。
担架が救急車の中へ運び込まれた。
後部の扉が閉じる。
その音だけが、やけに大きく耳へ響いた。
「君」
突然声をかけられ、僕は肩を震わせた。
振り向くと、警察官が立っていた。
いつ到着したのか、店の前にはパトカーも停まっている。複数の警察官が、消防隊員や商店街の人たちに話を聞き、こじ開けられた入口の周辺を確認していた。
僕の正面に立った警察官は、厚い胸板をした強面の男性だった。
険しく見える顔つきに反して、声は思ったよりも穏やかだった。
「通報してくれた子かな」
「あ、はい」
「名前を教えてもらえる?」
「夏樹隼人です」
声が震えていた。
警察官は手帳を開き、名前を書き留める。
「年齢は?」
「16です」
僕の答えを聞くと、警察官の表情がわずかに和らいだ。けれど、手帳へペンを走らせる動きは変わらない。
「店の中には入っていないね?」
「はい。鍵がかかっていて、開かなかったので」
「入口には触った?」
「取っ手を何度か引きました。あと、ガラスを叩いて、中の人に声をかけました」
「それ以外には?」
僕は首を横に振った。
「店の横も少し見ました。でも、奥には入っていません」
「わかった。教えてくれてありがとう」
警察官は一度頷き、手帳に何かを書き加えた。
その向こうでは、救急車の赤い光が回り続けている。
僕は反射的にそちらへ目を向けた。
店主を乗せた救急車は、まだ出発していなかった。閉じた車内で、隊員たちが動いている気配がする。
どうなったのだろう。
助かるのだろうか。
尋ねたかったけれど、喉から言葉が出てこなかった。
「夏樹くん」
警察官の声が、先ほどより少し低くなった。
僕はゆっくりと顔を上げる。
「君には、このあと詳しく話を聞かせてもらうことになると思う」
「僕に……ですか」
「ああ。最初に店の中の人を見つけたのは、君だからね」
最初に見つけた人。
その言葉が、頭の中へ落ちてきた。
すぐには意味を理解できず、何度も胸の内で繰り返す。
最初に見つけた人。
ニュースやドラマで聞いたことがある。
自分とは何の関係もない、遠い世界の言葉。
―第一発見者。
その言葉が形になった瞬間、背中に冷たいものが走った。
救急車がゆっくりと動き始める。
集まった人たちが道を空け、遠ざかっていく車両を目で追っていた。
警察官たちは店の前に残り、入口やガラス戸の取っ手、店内の様子を確認している。こじ開けられた扉は、片側だけが少し歪んだ状態で開いていた。
ついさっきまで、僕が何度引いても開かなかった扉。
あの向こうに、あの人は倒れていた。
僕には、まだ何が起きたのかわからない。
事件だと聞かされたわけではない。
店主がどうなったのかも知らない。
それでも、自分がただ救急車を呼んだだけの通行人ではなくなったことだけは理解できた。
最初に見つけた人。
第一発見者。
その言葉だけが、遠ざかるサイレンよりも長く、僕の耳の奥に残り続けていた。




