第二話「ガラスの向こう」
2026.07.29 誤字脱字を修正し、一部加筆。
土曜日の朝、僕は目覚ましが鳴るよりも先に目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ淡く、部屋には夜の冷たさがわずかに残っている。いつもなら布団の温かさに負けて、もう一度目を閉じてしまうところなのに、今日は不思議なくらい頭が冴えていた。
枕元に置いていたスマートフォンを手に取る。
画面をつけると、昨夜保存した店の情報が表示された。
【化石堂ミドウ】
個人経営の化石販売店。
アンモナイト、三葉虫、恐竜の歯、植物化石、鉱物各種。
昨日から何度も眺めている文字なのに、読み返すたびに胸の奥がそわそわする。
本当に化石を売っている店がある。
しかも今日、僕はそこへ行く。
そう思うと、もう布団の中にはいられなかった。勢いよく起き上がり、そのままクローゼットを開ける。
中には、恐竜のプリントされたTシャツが何枚も並んでいた。ティラノサウルス、トリケラトプス、カルノタウルス。畳まれた服を一枚ずつめくりながら、どれを着ていくか真剣に悩む。
店の人が、僕の服装を気にするとは思えない。それでも、せっかく化石を見に行くのだから、自分が気に入っているものを選びたかった。
数分迷った末、黒地のTシャツを引き出した。胸元には、青白いスピノサウルスの骨格が大きく描かれている。
「よし。今日はスピノサウルスにしよう」
誰に聞かせるでもなく呟き、上から薄手のパーカーを羽織った。
鏡の前に立つと、黒髪の一部が寝癖で跳ねている。手ぐしで何度か押さえてみたものの、指を離すとすぐに元へ戻ってしまった。
しばらく鏡の中の自分と向き合ったあと、
化石を見るのに、髪型は関係ないなと諦めた。
鞄には財布とスマートフォン、それから小さなメモ帳を入れた。店で気になる標本を見つけたら、名前や産地を控えておきたい。買えなくても、店主から話を聞けるかもしれない。
どうやって化石を仕入れているのか。
どの標本が一番気に入っているのか。
恐竜の歯は、本当に置いてあるのか。
質問したいことを考え始めると、じっとしている時間さえもったいなく感じられた。
玄関を出た瞬間、十月の風が頬を撫でる。
空はよく晴れていたけれど、朝の空気には薄い冷気が混じっていた。僕はパーカーの前を軽く合わせ、そのまま駅へ向かって歩き始めた。
普段よりも、足が自然に速くなる。
化石堂ミドウまでは、電車を乗り継いで片道一時間半。あまり遠出をしない僕にとっては、それなりの距離だったけれど、今日は億劫さよりも期待の方がはるかに大きかった。
最初の電車は空いていた。
窓際の席に腰を下ろすと、見慣れた町並みがゆっくりと後ろへ流れていく。住宅街の屋根の向こうに朝の光が広がり、線路沿いの小さな公園では、犬を連れた人がのんびりと歩いていた。開店準備をしているコンビニも、自転車で駅へ急ぐ学生も、すぐに窓の外へ遠ざかっていく。
いつも見ている景色のはずなのに、目的地が違うだけで少し新鮮に見えた。
知らない町へ向かい、知らない店の扉を開ける。
その先には、何億年も前の生き物が残した痕跡が並んでいる。
想像するだけで期待が膨らみ、座っていることさえもどかしくなる。
僕は鞄からメモ帳を取り出し、一ページ目に今日見てみたいものを書き込んだ。
アンモナイト、三葉虫、植物化石、恐竜の歯。
最後の文字を書き終えたところで、ペン先が止まる。
恐竜の歯の化石が、本当に店頭に並んでいるのだろうか。
博物館では、展示ケースを隔てて眺めることしかできない。照明の下に固定され、名前や時代、産地の書かれたラベルとともに展示されている。
けれど販売店なら、もっと近くで見られるかもしれない。
店主の許可がもらえれば、手に取ることだってできるかもしれない。
遠い昔、獲物の肉を引き裂いていた歯。
長い時間を地中で過ごし、石へと変わった過去の命の一部。
その重さを手のひらで感じたとき、自分は何を思うのだろう。
考えているうちに、指先がわずかに熱を帯びていくような気がした。
次に冬樹先生へ会ったら、今日のことを話そう。
化石販売店へ行ってきました、と伝えたら、先生はどんな顔をするだろう。
きっと眼鏡の奥の目を穏やかに細め、僕の話を最後まで聞いてくれる。
――実物を見ることは大切だよ。
そんな声まで聞こえてくるようで、僕は思わず口元を緩めた。
乗換駅に着くと、次の電車は少し混んでいた。空いている座席はなく、僕は扉の近くでつり革につかまる。
車内には遊びに行くらしい学生や、小さな子どもを連れた家族の姿があった。電車が揺れるたび、窓に映ったスピノサウルスの骨格も、水面のようにかすかに歪む。
目的地へ近づくにつれて、期待の中へ小さな緊張が入り込んできた。
高校生が一人で化石販売店へ入って、迷惑に思われないだろうか。
見るだけでもいいのだろうか。
商品の値段を見て驚いたら、失礼にならないだろうか。
そんな心配が次々と浮かんでくる。
それでも、店の紹介文には「初心者歓迎」と書かれていた。
大丈夫。
見るだけでも、きっと追い返されたりはしない。
僕は胸の中で何度もそう言い聞かせた。
目的の駅に着いたのは、十時半を少し過ぎた頃だった。
改札を抜けた先には小さなロータリーがあり、駅前には古い喫茶店と不動産屋が並んでいる。大きな商業施設も、人の波も見当たらなかった。
少し離れた場所には、古びた商店街の入口が見える。
僕はスマートフォンで地図アプリを開いた。
化石堂ミドウまでは、ここから歩いて十分ほど。
画面に表示された青い線を確認し、商店街へ向かって歩き始めた。
アーケードの下には、昔から続いていそうな店が並んでいる。和菓子屋、古本屋、金物店、クリーニング店。色褪せた看板や店先に積まれた商品箱、少し曇ったショーウィンドウには、長い年月の跡が染みついていた。
シャッターを下ろしたままの店も、いくつかある。
人通りは多くなかったけれど、完全に寂れているわけでもない。店先を掃いている人や、自転車の籠へ買い物袋を載せている人の姿があり、どこかの店からはラジオの音も聞こえてきた。
町全体が、外の世界より少しだけゆっくりと時間を刻んでいるように感じられる。
こんな場所に、化石販売店がある。
その不思議さが、僕にはむしろ心地よかった。
地図アプリに表示された残りの距離が、三十メートルを切る。
僕は歩みを緩め、左右の店を見回した。
そして、写真で何度も見た看板を見つける。
【化石堂ミドウ】
木目調の看板に、落ち着いた金色の文字が並んでいた。
入口は茶色い金属枠にはめ込まれたガラス戸で、その横には小さなショーウィンドウが設けられている。中には磨かれたアンモナイトや、透明なケースに入った紫色の鉱物、細かな節がはっきりと残る三葉虫が飾られていた。
「本当にあった……」
思わず声が漏れる。
写真で見るのとは、まるで違った。
ガラス越しであっても、そこにある化石は一つひとつ確かな重みを持って見える。
知らない町の小さな店に、何億年も前の生き物の痕跡が並んでいる。その事実が嬉しくて、胸の奥にじんわりと熱が広がった。
入口のガラスには、昨日目にした白い文字が貼られている。
【化石は過去からの贈り物です】
その下には営業時間の札もあった。
営業日も、時刻も間違っていない。今日は土曜日で、現在時刻は10時40分。
僕はガラス戸の前に立つ。
店内の照明はついており、入口近くの棚には標本箱へ収められたアンモナイトが並んでいる。中央のショーケースにも、小さな化石や鉱物が整然と置かれていた。
念願の店を目の前にして、胸がさらに高鳴る。
僕は取っ手へ手を伸ばした。
「あれ……?」
扉は動かない。
握る位置を変え、もう一度引いてみる。けれど金属の枠が小さく鳴っただけで、ガラス戸は閉じたまま動かない。
僕は営業時間の札を見直した。
休業日の記載はなく、臨時休業を知らせる貼り紙も見当たらない。
「もしかして、今日は休みなのかな……」
そう呟いた直後、ガラス戸に掛けられた小さな札が目に入った。
【営業中】
白い札が、吸盤付きのフックから静かに下がっている。
照明はついている。
営業中の札も出ている。
それなのに、扉には鍵がかかっていた。
古い店だから、建て付けが悪いのかもしれない。
少し強く引けば開く可能性もある。
僕は取っ手を握り直し、今度は先ほどよりも力を込めた。
カタッ、と硬い音が返ってくる。
やはり、鍵がかかっている。
「開かない……」
期待で満たされていた胸の奥へ、薄い影が差し込んだ。
店主が奥で作業をしていて、鍵を開け忘れているだけかもしれない。
あるいは、銀行や郵便局へ短い用事に出ている可能性もある。
そう考えながら、僕は周囲を見回した。
店先に人影はない。
隣の建物との間には、人一人が通れるほどの細い隙間があった。けれど奥は暗く、どこへ続いているのかまでは見えない。
僕はガラス戸を軽く叩いた。
コン、コン。
乾いた音が、静かな店内へ吸い込まれていく。
返事はなかった。
「すみません」
先ほどより少しだけ声を張る。
「今日って、営業していますか」
それでも、何も返ってこない。
商店街の向こうから、自転車のベルが聞こえた。買い物袋を提げた年配の女性が、僕の背後をゆっくりと通り過ぎていく。
遠くでは誰かが笑い、店先を掃く箒の音も響いていた。
その中で、化石堂ミドウの店内だけが、不自然なほど静まり返っていた。
僕はガラスへ顔を近づけた。
表面には、眉を寄せた自分の顔が薄く映っている。両手で外の光を遮り、目を凝らして店内を覗き込む。
入口近くの棚には、小さなアンモナイト。
奥の壁には、鉱物の入ったケース。
中央のガラスショーケースには、標本箱や値札がきれいに並んでいる。
ショーケースの上には、ルーペが置かれたままになっていた。
思い描いていた通りの店だった。
決して広くはない。それでも、一つひとつの標本が丁寧に並べられ、大切に扱われているように見える。
少し前までなら、その光景だけで嬉しくなっていたはずなのに、今は胸の奥が妙にざわついていた。
店内に人の姿がない。
物音も聞こえない。
「奥にいるのかな……」
僕は店の奥へ視線を移した。
ショーケースの向こう側や、棚と棚の隙間を順番に見ていく。商品の並んだ台の下にも目を凝らした。
そのとき、奥の棚の陰に黒っぽいものが見えた。
見えにくくて、他に覗ける場所がないか店の周りの見てみたけど
横の建物との間は狭すぎて入れない。
反対側は庭に通じる庭戸があるけど鍵がかかっている。
諦めて入口に戻り、もう一度覗き込んだ。
最初は、床に置かれた鞄か、商品を包むための布だと思った。
けれど、その先に細長い何かが伸びている。
目を細める。
黒い布地の先に、靴が見えた。
僕の頭はすぐには意味を理解できなかった。
何度かまばたきをする。
見えているものは、消えないし見間違いでもない。
棚の陰から、人の両足が伸びていた。




