ちゃんとしてない夜」
# 第二十話
## 「ちゃんとしてない夜」
その日は、朝からズレていた。
小さなズレが、ずっと直らないまま積み重なっていく日。
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雨宮悠人は現場でミスをした。
大きなミスじゃない。
でも地味に面倒なやつ。
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「お前、今日どうした?」
鬼塚の声が飛ぶ。
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「……すみません」
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悠人は短く答える。
でも頭は別のところにあった。
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(寝不足か)
(いや、違うな)
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## ― 同時刻、家 ―
白石雫は朝から静かだった。
静かすぎるくらい。
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陽翔を保育園に送り出すときも、
「いってらっしゃい」が少し遅れた。
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陽翔が振り返る。
「ママ?」
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白石は一瞬止まってから笑う。
「いってらっしゃい」
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でもその笑顔は、少しだけ薄かった。
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## ― 昼 ―
白石は一人でいた。
家。
静か。
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いつもならやることが山ほどあるのに、
今日は何も進まない。
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(私、何やってるんだろう)
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その思考が、止まらない。
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スマホを見る。
保育園の連絡。
仕事の連絡。
全部「ちゃんとやれてない気がする」。
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白石は小さく呟く。
「……ちゃんとって、何なんですか」
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## ― 夜前 ―
悠人は帰宅途中だった。
電車の中。
ぼーっとしている。
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ふと気づく。
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(今日、一回も“普通の顔”してないな)
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その時。
スマホが鳴る。
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白石から。
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短いメッセージ。
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【今日、ちょっと無理かもしれません】
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悠人は固まる。
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## ― 帰宅 ―
玄関。
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鍵を開けると、静かだった。
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リビング。
白石が座っている。
動かない。
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陽翔はいない。
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「……雫さん?」
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白石はゆっくり顔を上げる。
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「保育園、今日は延長です」
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その声が、少しだけ空っぽだった。
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悠人は一瞬で察する。
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(限界か)
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## ― 崩れた会話 ―
白石はぽつりと言う。
「私、ちゃんとできてますか?」
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悠人は即答できない。
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いつもなら「大丈夫だろ」で終わる。
でも今日は違った。
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「……知らん」
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白石が少し笑う。
「またそれですか」
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悠人は続ける。
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「でもさ」
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少し間。
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「ちゃんとしてるって何だよ」
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白石は黙る。
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悠人は言葉を探す。
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「俺らさ、ずっとそれ気にしてるけど」
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「うん」
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「誰も正解教えてくれねぇじゃん」
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沈黙。
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白石の目が少し揺れる。
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## ― 崩壊 ―
白石が小さく言う。
「じゃあ……私は何を頑張ればいいんですか」
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その声が少し震える。
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悠人は一瞬止まる。
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(やばい)
(ここ、踏み間違えたら終わるやつだ)
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でも言葉は出ない。
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白石は続ける。
「頑張ってるのに、ずっと不安で」
「何もできてない気がして」
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息が少し荒い。
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「ちゃんとしてないと、怖いんです」
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その瞬間。
リビングの空気が落ちる。
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## ― 玄関の音 ―
ドア。
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「ただいまー!」
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陽翔。
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元気すぎる声。
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一瞬で空気が割れる。
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## ― 子どもという現実 ―
陽翔は走ってくる。
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白石を見る。
悠人を見る。
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そして言う。
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「ママ、ないてる?」
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白石が固まる。
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悠人も固まる。
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陽翔は首をかしげる。
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「だいじょうぶ?」
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その一言で。
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白石の中で何かが崩れる。
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## ― 初めての崩壊 ―
白石の目から涙が落ちる。
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「……ごめん」
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小さく。
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「ごめんね……」
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悠人は動けない。
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陽翔は分からないまま近づく。
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小さな手で白石の服を掴む。
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「ママ、いる」
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それだけ言う。
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## ― 悠人 ―
悠人はやっと動く。
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白石の隣に座る。
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何も上手く言えない。
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でも、ひとつだけ出る。
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「……ちゃんとしてなくていいだろ」
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白石が涙のまま見る。
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悠人は続ける。
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「俺ら、もうとっくに家族だろ」
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沈黙。
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陽翔が言う。
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「パパ、いる」
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白石が泣きながら笑う。
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「……いる、ですね」
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## ― ラスト ―
夜。
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三人。
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少し散らかったリビング。
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でも壊れてはいない。
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白石が小さく言う。
「今日、初めて分かりました」
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「何が」
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「ちゃんとしようとしなくても、
ここは壊れないんですね」
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悠人は笑う。
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「遅いな」
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白石も笑う。
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陽翔はもう寝ている。
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その寝顔を見ながら、
二人はようやく気づく。
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“ちゃんとする”より先に、
“もう一緒にいる”が成立していた夜だった。




