# 第十一話 ## 「パパって、呼ばれた日」
# 第十一話
## 「パパって、呼ばれた日」
その日は、何でもない朝だった。
雨宮家の朝は、基本的に“何でもない”ことが存在しないのだが、この日は少しだけ静かだった。
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雨宮悠人は、子どもの靴を履かせていた。
小さな足。
まだうまく力が入らない指。
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「ほら、動くなって」
言いながらも、声は柔らかい。
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白石雫は後ろで荷物を確認している。
「お弁当よし、水筒よし、タオルよし……」
完全にチェックリスト化されている。
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子ども――雨宮陽翔は、
リビングをうろうろしている。
落ち着きがない。
というより、世界そのものに興味がある顔だった。
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「今日も元気だな、お前」
悠人が笑う。
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白石が横から言う。
「元気すぎて毎朝大変です」
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それでも、どこか嬉しそうだった。
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## ― 保育園の朝 ―
いつもの風景。
泣く子ども。
急ぐ親。
先生の笑顔。
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陽翔は、今日は少しだけ機嫌がいい。
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白石がしゃがむ。
「いってらっしゃい」
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陽翔は笑う。
そして――
悠人のほうを見る。
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その瞬間。
ほんの一瞬だけ、時間が止まる。
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悠人は思う。
(なんだ、この間)
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陽翔が口を開く。
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小さく。
まだはっきりしない声で。
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「……ぱ」
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白石が気づく。
「ん?」
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「ぱ……」
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悠人は笑う。
「パンダでも見えたか?」
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白石も軽く笑う。
「何でしょうね」
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でも次の瞬間。
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陽翔は、はっきり言った。
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「……パパ」
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空気が止まる。
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悠人の動きが完全に止まる。
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白石も一瞬、固まる。
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「……今の」
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もう一度。
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「パパ」
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陽翔は、当たり前みたいな顔で言った。
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悠人は、少し間を置いてから言う。
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「……今、俺のこと?」
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白石が小さく笑う。
「そうですね」
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悠人は、しゃがみ込む。
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子どもと同じ目線になる。
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「おい……今の、もう一回言ってみろ」
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陽翔は首をかしげる。
そして、もう一度。
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「パパ」
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その瞬間。
悠人の中で、何かが音を立てて変わる。
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(ああ)
(俺、ほんとに父親なんだな)
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軽い言葉なのに、重かった。
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白石が静かに言う。
「ちゃんと聞こえましたね」
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悠人は笑う。
「聞こえすぎだろ」
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でも目が少しだけ赤い。
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## ― 保育園の帰り道 ―
三人で歩く。
いつもの道。
いつもの風景。
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ただ一つ違う。
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陽翔が時々振り返って言う。
「パパ」
「パパ」
「パパ」
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悠人は笑う。
「うるせぇよ」
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でも否定はしない。
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白石が横で言う。
「なんか今日、ずっと呼ばれてますね」
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悠人は空を見る。
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「悪くないな、これ」
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白石は少し笑う。
「慣れると重くなりますよ、それ」
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「もう重いわ」
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## ― 夜 ―
寝かしつけ。
成功。
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リビング。
静か。
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悠人はソファに倒れる。
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「疲れた……」
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白石が隣に座る。
「でも今日、いい日でしたね」
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悠人は少し黙る。
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「……あいつさ」
「うん?」
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「初めて俺のこと、
“役割”で呼んだ気がした」
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白石は少し考える。
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「役割、ですか」
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悠人は笑う。
「父親ってやつ」
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白石は静かにうなずく。
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「じゃあ今日は、
一歩進んだ日ですね」
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悠人は天井を見ながら言う。
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「だな」
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## ― ラスト ―
夜の静けさ。
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子どもの寝息。
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白石が小さく言う。
「ねぇ、悠人さん」
「うん」
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「これからもっと呼ばれますよ」
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悠人は笑う。
「勘弁してくれ」
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でも少し嬉しそうだった。
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白石も笑う。
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その夜。
雨宮家に初めて、
「パパ」という言葉が住み始めた。




