強さの果てを求めて
軍事力は国家にとって欠かす事の出来ない要素である。それを構成する正規兵士の力や兵器の力により、国力と言うものは決まって来る。
その一方で、沖矢俊才の様に個人としての強さを求める人間もいる。そう言う人種を戦人とすると、彼等の存在は果たして国家にとってプラスかマイナスかと言う議論が出て来てもおかしくはない。
彼等の意思を上手く誘導出来れば、国家にとってプラスに作用するのであり、それが出来なければ、マイナスに作用するだろう。非常に単純明快でシンプルな事である。
戦人にとっても、戦場はパフォーマンスの場であり、表現する場所である。極論を言ってしまえば、戦場に辿り着けるのなら、何も正規兵士である必要は無い。正規兵士である事で戦場に辿り着けると言うのが、ポピュラーな方法だから従軍しているだけの事であり、民間軍事会社や傭兵なる民の力でアプローチする選択肢もある訳である。
強さを求める事は悪い事では無い。否定されるものでもない。とは言え、だからと言って多くの犠牲者を出してしまっても良い事にはならない。戦場では一人でも多くの人間を殺せと命じられる。平時では一人でも殺せば犯罪者だが、有事の時は何人でも多くの人間を殺せば英雄になる。
これは、どちらが正しくて、どちらが悪いと言う二元論では語れない問題と言える。国益と私益は必ずしも一致するとは限らない。寧ろ、正規兵士よりも私兵(民兵)でいた方が個の強さを満たす為にはプラスに作用する事もある。
結果的に沖矢俊才にとっては、外国人部隊と言う居場所を見つけられたが、そこが彼にとっての最良の場所であったかは分からない。少なくとも自分の力を精一杯発揮する事は出来そうであり、沖矢俊才の力なら必ずや結果を出すだろう。
インディアーセン共和国は、日本連邦や中華人民共和国の様な強大な力は無いが、地域の中心国として、これから繁栄するだろう。決して沖矢俊才が歴史の表舞台に立つ事は無いが、そんな事など構わずに強さの果てを求めて戦い続ける筈だ。




