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第6話 円満な婚約解消

第6話 円満な婚約解消


あの騒乱の年末夜会から数日後、アストレイ侯爵邸の応接室には、張り詰めた静寂が満ちていた。室内の暖炉では薪がパチパチと心地よい音を立てて燃え、部屋の隅々まで暖めている。しかし、そこに漂う空気はどこか重苦しく、冬の凍てつく気配を完全に拭い去ることはできていなかった。

エルザ・フォン・アストレイは、応接室の豪奢な長椅子に腰掛け、給仕が淹れたばかりの珈琲に口を運んでいた。今迷っているのは、深みのある濃紺の仕立ての良いウールドレスだ。襟元と袖口に施された上質な白いレースが、彼女の抜けるような白い肌と、澄み切った青い瞳をいっそう引き立てている。

テーブルの上には、アストレイ家の料理人が焼き上げた、甘酸っぱい林檎のタルトが並んでいた。香ばしいパイ生地の香りと、シナモンの豊かな風味が部屋の中に広がっている。エルザがフォークでタルトを上品に一口運んだ、そのときだった。


応接室の扉が重々しく開かれ、一人の老紳士が姿を現した。

レナードの父であり、バルドール伯爵家の現当主である。かつては社交界でも威厳を放っていたその姿は、今や見る影もなくやつれ、肩を落としていた。

伯爵はエルザの前に進み出ると、椅子の勧めに従うこともなく、その場に深く頭を下げた。


「エルザ嬢……。この度は、我が愚息レナードが、夜会の席で取り返しのつかない暴挙を働き、あなたとアストレイ商会に多大なご迷惑をおかけした。本当に、本当に申し訳なかった……!」


老伯爵の声は、恥辱と絶望でひどく掠れていた。彼の手には、エルザが送付したあの天文学的な額の損害賠償請求書が握りしめられており、その指先は小さく震えている。


「お顔を上げてください、バルドール伯爵」


エルザは珈琲カップをソーサーに戻し、静かに応じた。その声には、怒りも嘲りもない。ただ冷徹なビジネスの場における平熱のトーンだけがあった。


「私は公認監査官として、発生した損害と事実に基づき、正当な法的手続きを進めたに過ぎません。レナード様が下された事業停止命令により、我が商会が被る実害は、あの請求書の数字通りでございますわ」


「分かっている、全てはあやつの身勝手な職権乱用が招いたことだ……。だが、エルザ嬢、どうか、どうかあの請求を取り下げてはいただけまいか。あれほどの額を一時に支払えば、我が伯爵家は文字通り破産し、領民たちも路頭に迷うことになる。騎士団本部からも厳重な調査が入っており、我が家はもう崖っぷちなのだ……!」


老伯爵の目から、ついに堪えきれず涙が溢れ落ち、絨毯に黒い染みを作った。一国の貴族の当主が、若き令嬢の前で涙ながらに命乞いをする。その光景はひどく惨めだったが、エルザの理性が揺らぐことはなかった。

彼女は冷めた目で老伯爵を見つめ、卓上の林檎タルトにそっとフォークを添えた。


「バルドール伯爵。私は悪魔ではありませんから、バルドール家を完全に破滅させたいわけではありませんの。ええ、あの損害賠償請求を取り下げる用意はございますわ」


「おお、本当か……! では……!」


「ただし、条件がございます」


エルザが冷たく言い放つと、伯爵はハッと息を呑んで言葉を詰まらせた。エルザは懐から、一枚のあらかじめ用意されていた契約書を取り出し、テーブルの上にしなやかな動作で滑らせた。


「これより、私とレナード様の婚約を正式に解消いたします。もちろん、円満な形での解消ですわ」


「婚約、解消……」


「ええ。ただし、婚約破棄の『有責者』は、大勢の面前で根拠のない誹謗中傷を行い、業務妨害を働いたレナード様、ただお一人です。この契約書には、レナード様の一方的な過失による有責婚約解消である旨、そして我が家から受け取っていた結納金の三倍返し、およびバルドール家が所有する東部鉱山の採掘権の完全譲渡が違約金として明記されております」


伯爵は差し出された書類に目を落とし、その凄まじい条件に再び顔を白くさせた。結納金の三倍返しだけでも巨額である上に、家の主たる財源である鉱山の採掘権まで手放すとなれば、伯爵家にとっては手痛い出血となる。


「これ、は……。あまりにも、我が家にとっては厳しい条件だ……。これでは、請求書を取り下げてもらったとしても……」


「これでも、あの損害賠償請求書の額面に比べれば、十分に温情ある数字ですわ。一度、頭の中で感情を引いて、計算し直してみてください。破産して爵位を剥奪されるのと、鉱山の権利を譲渡して家を存続させるのと、どちらがバルドール家にとって利益が大きいか、考えるまでもありませんでしょう?」


エルザの青い瞳が、容赦のない光を放ちながら老伯爵を射抜く。その圧倒的な正論の前に、伯爵は反論の言葉を完全に失った。エルザの言う通り、これは「破滅」か「痛みを伴う存続」かの二択であり、選択の余地など最初から残されていないのだ。


「……分かった。全て、あなたの言う通りだ、エルザ嬢。我が家の無能な息子が仕でかした罪の代償としては、これでも安いのかもしれんな……」


老伯爵は力なくそう呟くと、懐から当主の職印を取り出し、震える手で契約書に真っ赤な印を捺した。インクの独特な酸っぱい匂いが、応接室の中に微かに広がる。


「確かに、承諾いたしました。……これで、あやつも少しは身の程を知るだろう」


「賢明なご判断、感謝いたしますわ、バルドール伯爵。これで私とレナード様は、法的にも歴史的にも『円満に』関係を終わらせることができましたわね」


エルザは完璧な淑女の微笑みを浮かべ、職印の捺された契約書を丁寧に回収した。

有責による婚約解消と、莫大な違約金の確保。すべては彼女の緻密な計算通りに決着した。老伯爵が疲れ果てた足取りで応接室を去っていく後ろ姿を見送りながら、エルザは残った珈琲を優雅に飲み干した。苦味の奥にある微かな甘みが、彼女の勝利を静かに祝福しているようだった。



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