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第5話 損害賠償請求書

第5話 損害賠償請求書


ミリアの不祥事が白日の下に晒され、広間の熱気は急速に引いていった。冷え切った大理石の床からは、冬の王都特有の底冷えする冷気がドレスの裾を抜けて這い上がってくる。テーブルの上の仔牛のローストはすっかり冷め、表面の脂が白く固まり始めていた。

レナードは、恥辱と怒りで顔を小刻みに震わせ、自暴自棄になった獣のような目でエルザを睨みつけた。


「ふ、ふざけるな! よくも僕の婚約者としての面目を丸潰れにしてくれたな! どれだけ小賢しい書類を並べようとも、僕はバルドール伯爵家の次期当主であり、近衛騎士団の分隊長だ! 公認監査官ごときが、この僕に勝てると思っているのか!」


レナードは腰の長剣の鞘を激しく鳴らし、声を荒らげた。


「エルザ! 君がそこまで身勝手な監査を続けるというなら、僕にも考えがある。君が統括している、我がバルドール伯爵家との共同事業『東部街道魔導インフラ開発プロジェクト』の予算執行を、私の職権をもって即刻停止する! 騎士団の治安維持権限に基づき、商会の関連資産もすべて一時差し押さえだ! 事業が破綻して泣き面を見るのは君のほうだぞ!」


レナードの口から飛び出した、明らかな職権乱用による事業停止宣言。会場の貴族たちは、その横暴さに息を呑んだ。国家的な大プロジェクトを個人の逆恨みで止めるなど、本来あってはならない暴挙だった。ミリアは床にへたり込んだまま、レナードのその言葉に「勝てるかもしれない」と浅ましい期待の目を輝かせた。


しかし、エルザは驚くほどに平然としていた。彼女は淡い銀色のドレスの裾を揺らしながら、手元の冷めきった紅茶を未練なくソーサーに戻した。その顔には、困惑どころか、まるで待ち望んでいた獲物が罠にかかったかのような、深く昏い悦びすら浮かんでいた。


「あら、ご自身の職印を用いて、正式に『東部街道魔導インフラ開発プロジェクト』の執行停止命令を下されるのですね? レナード様」


「そうだ! 今さら命乞いをしたって遅い!」


「命乞い? とんでもありません。私がお聞きしたいのは、その命令が『バルドール伯爵家の総意』であり、あなたにすべての責任があるという点だけですわ」


エルザは即座に手元の手帳を開き、素早い手つきで万年筆を走らせた。カリカリと小気味よい音が、レナードの罵声を遮るように広間に響く。彼女の脳内にある超高度な数理計算スキルが、瞬時に発動していた。


「プロジェクトの即日停止に伴う損失。まず、明日予定されていた魔導建築石材の調達キャンセルに伴う違約金が金貨三百枚。現場の職人二百名の待機補償費が一日あたり金貨五十枚。さらに、来期に予定されていた東部領の魔導通信利権から得られるはずだった逸失利益。これを現在の市場価格から現在価値に割り引いて算出すると……」


エルザの口から、澱みなく冷徹な数字が弾き出されていく。


「合計で、金貨四万八千ルセル。これが、あなたがたった今下された気まぐれな命令によって発生する『確定損害額』ですわ」


「な……何を馬鹿な数字を並べている!」


「馬鹿な数字ではありません。すべて契約書に明記された正当な違約金条項に基づいた計算です。さらに、騎士団の権限を私的に悪用したことによるアストレイ商会の信用失墜、それに伴う明日の株価下落予想値を加味した『有形無形の業務妨害損害金』を上乗せいたします」


エルザは手帳のページをピッと破り、その場で懐から取り出した別の公的な書類――王立監査院の刻印が入った正式な「損害賠償請求書」の台紙に、その恐るべき総額を書き込んだ。


「はい、お見積もりが完了いたしましたわ。レナード様」


エルザは、インクの乾ききっていないその紙片を、レナードの目の前に突きつけた。そこには、バルドール伯爵家の年間領地収入の実に三年分に相当する、天文学的な金額が記されていた。


「これ……は……何だ、この桁違いの額は……! 嫌がらせのつもりか!」


請求書を受け取ったレナードの指先が、ガタガタと激しく震え始めた。彼の顔から、再び怒気という名の血の気が引き、紙のように真っ白になっていく。


「嫌がらせではなく、正当な法的手続きですわ。本日、大勢の面前であなたが口にされた事業停止命令は、アストレイ商会に対する明白な業務妨害罪に当たります。私はアストレイ商会の統括責任者として、この請求書を明日一番でバルドール伯爵家、および騎士団本部に正式に送付いたします。もちろん、あなたの署名と職印が押された命令書が発行され次第、即座に裁判所へ差し押さえの申し立てを行いますわ」


「そんな、そんなことが許されるわけがない! 僕は伯爵家の……!」


「家格など、法律と数字の前には無力です。レナード様、あなたが『感情』のままに振りかざしたその権力が、ご自身の生家を文字通り破滅させる引き金になったという事実に、ようやくお気づきになりましたか?」


エルザの青い瞳が、容赦のない光を放ちながらレナードを射抜く。広間の照明の黄金色の光が、まるで裁判官の灯す不気味な炎のように見えた。

レナードは請求書を握りしめたまま、その場に力なく膝をついた。彼が誇っていた近衛騎士の正装が、今はひどく惨めで滑稽な衣装に見える。


「さあ、レナード様。円満に婚約を解消する前に、まずはこの業務妨害の損害賠償について、一ルセルの狂いもなくお支払いいただく準備をしておいてくださいね」


エルザは淡い銀色のドレスを翻し、完璧な淑女の礼を取った。その背後では、冷めきった夜会の料理の横で、崩れ落ちた騎士と詐欺師の令嬢が、ただ絶望の冷気に身を震わせるばかりだった。



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