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第4話 監査開始

第4話 監査開始


バルドール伯爵邸の広間には、焼きたての仔牛のローストから立ち上る香ばしい肉汁の匂いや、甘く熟した葡萄酒の香りが未だに漂っていた。しかし、そこに集う人々の心を満たしていた華やかな夜会の余韻は、エルザが放った一連の事実によって完全に消し飛ばされていた。

レナードの手はミリアの肩から完全に離れ、所在なげに宙を彷徨っている。ミリアは桃色のドレスの裾を固く握りしめ、まるで足元の大理石が底なしの沼にでも変わってしまったかのように怯えた目でエルザを見上げていた。

エルザは淡い銀色のドレスの裾を優雅に揺らしながら、手元のグラスに残った冷たい水を一口含んだ。喉を潤す澄んだ感覚が、彼女の明晰な頭脳をさらに研ぎ澄ませていく。


「さて、レナード様。これまではあくまで、アストレイ商会および侯爵家内部のデータに基づく『事実確認』に過ぎません。ですが、私の独自調査――すなわち、本格的な個別監査は、すでに一週間前から開始されておりますの」


「独、自調査だと……? 君は一体、裏で何を企んでいたんだ!」


レナードが掠れた声を絞り出す。その瞳には、先ほどまでの傲慢な正義感は影を潜め、底知れない怪物と対峙しているかのような動揺が色濃く滲んでいた。


「企むなどと、人聞きの悪いことはおやめください。私はただ、公認監査官としての職務に忠実に、不審な数字の足跡を追いかけただけですわ」


エルザは鞄から、今度はやや薄手だが、きっちりと紐で綴じられた一冊の調書を取り出した。その表紙には『ミリア・フォン・アストレイに関する外部虚偽申告調査報告書』という文字が踊っている。


「ミリア様はこれまで、社交界において『貧しい平民や孤児たちに手を差し伸べる、慈悲深きアストレイ家の聖女』として、その名声を欲しいままにされてきましたわね。そちらにいらっしゃる貴婦人方からも、多額の慈善寄付金を募っていらっしゃったはずです」


エルザが視線を向けると、周囲の壁際で成り行きを見守っていた有力貴族の夫人たちが、ハッとしたように顔を見合わせた。

「ええ、確かに……。ミリア様が主宰される『聖十字の会』を通じて、我が家からも先月、金貨五十枚を寄付いたしましたわ」

「私も、孤児院の冬服代として、かなりの額を預けましたけれど……」


夫人たちの間に、じわりと不安の波紋が広がっていく。ミリアはその囁き声を耳にした瞬間、ヒッ、と小さく短い悲鳴を上げて一歩後退りした。


「皆様、ご安心ください。その寄付金が、本来の目的に正しく使われてさえいれば、何の問題もございません。――そう、『正しく使われていれば』、ですが」


エルザは調書をめくり、一枚の領収書の写しを広間の明かりに透かしてみせた。


「調査の結果、ミリア様が過去二年間にわたり、王立慈善院や各地方の孤児院に対して提出していた『寄付実績報告書』が、そのすべてにおいて虚偽申告であったことが証明されました。こちらに、実際の孤児院の院長たちから集めた、直筆の受領拒否証明書および実際の寄付金台帳の写しがございます」


「き、虚偽申告……!? そんな馬鹿なことが……!」


レナードが驚愕のあまり、自身の額に浮かんだ冷や汗を拭うことも忘れて叫んだ。


「事実ですわ。例えば、昨年秋にミリア様が『東部領の震災孤児のために金貨二百枚を届けた』と申告された件。実際の孤児院に届けられたのは、わずか金貨二枚と、カビの生えた古い小麦粉三袋のみ。残りの金貨百九十八枚は、一体どこへ消えたのかしら?」


「お姉様! もうやめて、お願いだから意地悪な嘘を言わないで!」


ミリアが狂ったように首を振り、耳を塞ごうとする。しかしエルザの冷徹な声は、遮る隙を与えずに広間へ響き渡った。


「嘘ではありません。消えた金貨百九十八枚は、すべてあなた個人の裏口座を経由し、王都の最高級服飾店『マダム・ルノー』でのプライベートな特注ドレスの購入費用、および宝飾品専門店での宝石代金として精算されています。皆様から集めた神聖な寄付金は、聖女様の華やかな私生活を支えるための『お財布』と化していたのですわ」


広間の空気が、一瞬にして沸点へと達した。先ほどまでミリアを「可哀想な被害者」として同情の目で見ていた貴婦人たちの顔が、怒りと裏切りの情念によって一変する。

「まあ! 我が家の寄付金が、あの女の贅沢品に化けていたというの!?」

「なんて恥知らずな詐欺師かしら! 聖女だなんて、よくもまあそんな嘘が吐けたものね!」


容赦のない罵声が、容赦なくミリアの頭上に降り注ぐ。社交界で築き上げてきた彼女の「聖女」としての人気が、ガラス細工のように音を立てて粉々に砕け散っていく瞬間だった。


「レナード様」


エルザは調書を閉じると、もはや立つことすらままならず、その場にへたり込みそうな婚約者を冷ややかに見下ろした。


「これで、私が開始した監査の意味がご理解いただけましたか? あなたが『傷ついている』と庇った妹君は、アストレイ家の財産を貪るだけでなく、社交界の善意を踏みにじり、虚偽の数字で周囲を騙し続けてきた大罪人です。公認監査官として、この不正を看過することは絶対に不可能ですわ」


「エルザ……君は、最初からすべてを知っていて、僕がこの罠に飛び込むのを待っていたのか……?」


レナードはがたがたと膝を震わせながら、絶望に満ちた目でエルザを見つめた。エルザは淡い銀色のドレスの袖をそっと撫で、本日一番の、冷たくも美しい微笑みを浮かべた。


「罠だなんてとんでもない。私はただ、数字が示す通りの現実を、しかるべきタイミングで開示したに過ぎません。さあ、レナード様。これでもまだ、感情論で私を罪人扱いなさいますか?」


レナードは言葉を失い、ただ浅い呼吸を繰り返すことしかできなかった。彼が守ろうとした「正義」のメッキは完全に剥がれ落ち、広間にはただ、エルザがもたらした圧倒的な「現実」の重さだけが厳然と横たわっていた。



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