第2話 感情を引いて数字を足してください
第2話 感情を引いて数字を足してください
大理石の床にずっしりと置かれた、全三百四十ページに及ぶ監査報告書。その革表紙が、天井のシャンデリアに照らされて鈍く光を放っている。周囲の貴族たちは息を呑み、まるで爆発物でも見るかのような目つきでエルザの手元を凝視していた。
エルザは淡い銀色のドレスの袖をわずかに整え、指先で静かに最初の手続きへと移る。ページがめくられるたびに、上質な紙が擦れる乾いた音がしんと静まり返った広間に響き渡った。
「さて、レナード様。先ほどあなたは、私がミリア様を商会で孤立させ、仕事を取り上げたとおっしゃいましたね」
エルザの青い瞳には、怒りも、悲しみも、いかなる動揺も浮かんでいない。ただひたすらに、澄み切った冬の湖のような冷徹さだけがあった。
「それは明確な事実誤認、あるいは情報の一方的な歪曲です。正確な表現を用いるならば、度重なる重大な過失により、これ以上の損害拡大を防ぐため、商会就業規則第十四条に基づき職務停止処分とした、となります」
「職務停止だと……! そんな大げさな言葉でミリアを悪者にするな! 彼女はまだ不慣れだっただけだ。少しの失敗くらい、姉である君が裏でうまくフォローしてやれば済む話だろう!」
レナードが顔を真っ赤にして怒鳴る。その大声に、近くのテーブルに置かれたクリスタルグラスがかすかに共鳴してチリンと鳴った。
彼の言葉に、周囲の貴族たちからも不穏な囁きが漏れる。身内なのだから少しは情をかけてやればいいのに、やはり数字ばかり追っている女は冷酷だ、といった無責任な感情論が、ぬるい空気となってエルザの肌を撫でた。
しかし、エルザは微塵も揺らがない。彼女は冷めかけた紅茶のカップに指を添え、その温もりを感じながら淡々と報告書の二十四ページ目を指で叩いた。
「『少しの失敗』。非常に興味深い主観ですね。ではレナード様、あなたのその曖昧な感傷から一度『感情』を引き算し、ここに残された具体的な『数字』を足し算してみましょう。ミリア様、先月十四日のディートリヒ商会との布地仕入れ契約の際、あなたが数量の桁を一つ間違えて処理した事実を覚えていますか?」
エルザの視線が、レナードの背後に隠れるミリアへと移る。桃色のドレスの裾を握りしめ、ミリアは怯えたように肩を震わせた。
「え……あ、それは、その……」
「本来なら百ロールで済むはずだった最高級の絹織物を、あなたは千ロールで発注しました。アストレイ商会の倉庫は瞬く間に溢れかえり、他国からの直輸入品であったために即時のキャンセルも不可能。結果として、我が商会は臨時の外部倉庫を借りる羽目になり、その保管維持費だけで週に二万ルセルを支払うことになりました。この致命的な発注ミスをリカバーするため、私の直属の部下四名が三日三晩、不眠不休で代替の転売先を探し回ったのです。ミリア様、その間、あなたは何をなさっていましたか?」
「わ、私は……あまりの責任の重さに体調を崩して、お部屋で休んでおりましたわ……」
ミリアは長い睫毛を濡らし、消え入りそうな声で訴える。いかにも庇護欲をそそるその姿に、レナードはますます義憤に駆られた表情になった。
だが、エルザの追及は止まらない。
「いいえ、休んではいませんね。王都中央通りにある高級カフェ『リーベ』にて、ご友人方と三日連続で贅沢なアフタヌーンティーを楽しまれていた目撃証言、およびその際の高額な飲食費をアストレイ商会の経費として不正に処理しようとした領収書の控えが、ここにございます。私が個人的にチェックして弾いたものですが、体調不良の令嬢が特製のベリータルトを五人前も注文されるものかしら?」
エルザが手帳から抜き出したのは、ミリアの直筆サインがくっきりと残された領収書の写しだった。
「な……っ!」
レナードの言葉が詰まる。ミリアの顔からは、瞬く間に血の気が引いていった。
「お姉様、ひどいです! そんな昔の、ささやかなお茶会まで持ち出して私を吊し上げるなんて! 私は一生懸命やっていたのに、いつもお姉様は数字ばかりで私を責めて……レナード様、私、もう怖くてたまりませんわ!」
ミリアはついに大粒の涙をボロボロとこぼし、レナードの正装の袖にすがりついた。その涙の温もりと、甘ったるい香水の匂いがレナードの理性を完全に麻痺させたらしい。
彼はエルザに向けて力強く一歩踏み出し、腰に帯びた儀礼用の長剣の柄に手をかけた。金属が擦れ合う不穏な音が広間に響く。
「いい加減にしろ、エルザ! 君には人の心というものがないのか! ミリアがこれほどまでに傷つき、怯えているのが見えないのか! 納期が少し遅れたり、書類を一枚無くしたりしたくらいで、大勢の面前で実の妹を罪人のように糾弾するな! 感情のない化け物め!」
レナードの怒声は地響きのように広間を震わせた。会場の貴族たちの多くが、その劇的な「正義の騎士と悪毒な姉」という構図に呑まれかけ、エルザを白い目で睨みつけている。
しかし、エルザは深く、長く、ため息をついた。それは激昂に対する怒りではなく、あまりの知性の低さに対する、心底からの呆れと憐れみのこもったため息だった。
彼女は手元の紅茶を一口含んだ。渋みの効いたダージリンの味わいが、彼女の脳細胞をさらに明晰にする。
「レナード様、本当に呆れ果てましたわ」
エルザは静かにカップを置いた。その動作一つをとっても、完璧な気品が満ちている。
「先ほどから、あなたの反論には『傷ついている』『苦しんでいる』『可哀想だ』という、主観的な感情論しか含まれていません。私が提示した客観的なデータ、すなわち発注ミス十二件、納期遅延五件、そして重要帳簿の紛失二件という厳然たるファクトに対して、それを覆すに足る反証を、あなたはただの一つも提示できていない」
「何だと……! 屁理屈を言うな!」
「屁理屈ではなく論理です。ビジネスにおいても、あるいは婚姻という重大な契約の場においても、会話とは互いの前提条件を擦り合わせる行為です。ですが、あなたは感情という不確定な変数を乱暴に振り回すばかりで、そもそも議論の土台にすら立っていらっしゃらない」
エルザはゆっくりと、レナードに向かって歩を進めた。淡い銀色のドレスが床を滑る音が、妙に厳かに響く。彼女の全身から放たれる圧倒的な理性のプレッシャーに、近衛騎士であるはずのレナードが、本能的な恐怖からわずかに身を引いた。
「一度、ご自身の貧弱な頭脳から『感情』を引き算してみてください。そして、そこに残された『純然たる事実』だけを足し算してください。ミリア様が我が商会に与えた実害、総額百二十万ルセル。これがどれほどの重みを持つ数字か、バルドール伯爵家の次期当主として、本当に理解していらっしゃるの?」
「それ、は……」
「一般の平民家庭が、汗水垂らして働いても一生かかって稼げるかどうかの巨額です。あなたが『可哀想だから』という安価な感傷で彼女を甘やかすたび、その裏でどれだけの従業員が不利益を被り、どれだけの人間が泥をすすってその赤字を埋めているか、想像したことがおありですか? あなたの言う『傷ついた』という心の痛みは、金貨百二十万枚分の価値があるとおっしゃるの?」
広間は、今度こそ完全に凍りついた。
先ほどまでレナードの熱に流されていた貴族たちも、領地経営や金銭のやり取りに携わる者から順に、ハッと我に返ったように表情をこわばらせていく。エルザの言葉には、感情の爆発など一切ない。だからこそ、逃げ場のない正論が、鋭利な剃刀となってレナードの浅薄なプライドを切り刻んでいくのだ。
「お前の感情に、私は一ルセルの価値も認めません。会話を続けたいのであれば、感情論ではなく、監査データで会話していただけますか?」
レナードの顔からみるみる血の気が引き、その唇が小刻みに震え始める。ミリアの涙も、いつの間にか恐怖によってぴたりと止まっていた。
エルザはそんな二人を冷ややかに見据えながら、報告書の次のページ、すなわちミリアによるアストレイ商会名義の私的流用金が記録された章へと、静かに指を掛けた。




