第1話 婚約破棄の証拠
第1話 婚約破棄の証拠
王都ルセリアの冬は、肌を刺すような冷気とともにやってくる。しかし今夜のバルドール伯爵邸は、そんな寒さを微塵も感じさせないほどの熱気に満ちあふれていた。天井の巨大なクリスタルシャンデリアからは、気が遠くなるほどの黄金色の光が降り注ぎ、きれいに磨き上げられた大理石の床に反射している。楽団が奏でる優雅なワルツの旋律にのせて、着飾った貴族たちの話し声が心地よいざわめきとなって響いていた。
給仕が運ぶトレイからは、甘く芳醇な葡萄酒の香りと、じっくりと焼き上げられた仔牛のローストの香ばしい匂いが漂い、人々の食欲をそそっている。今夜は社交界の有力者たちが一堂に会する年末夜会だった。
エルザ・フォン・アストレイは、そんな華やかな喧騒から少し離れた壁際のテーブルに立ち、温かい紅茶を口に運んでいた。彼女が身にまとっているのは、冬の夜空を思わせる淡い銀色のドレスだ。レースや宝石の装飾こそ控えめだが、仕立ての良い上質な絹が彼女の引き締まった輪郭と凛とした美しさを際立たせている。腰まで届く見事な金髪は乱れなく一つにまとめられ、知性を湛えた青い瞳は、周囲の熱気に流されることなく常に冷静そのものだった。
目の前のテーブルには、エルザが取り分けた小さなサーモンのパイと、新鮮な海老のカクテルが乗った皿が置かれている。サクサクとしたパイ生地の歯触りや、ピリッと辛みの効いたソースは絶品だったが、エルザの意識は料理よりも手元の小さな革手帳に注がれていた。
今月の監査スケジュール、来期の決算報告書の確認、大口取引先との契約更新の文面。彼女の頭の中には、処理すべき数字と条項が山ほど詰まっていた。
「相変わらずですね、お姉様」
ふいに、鈴を転がすような甘い声が届いた。エルザが視線を上げると、そこには義理の妹であるミリアが立っていた。
ミリアは可憐な桃色のドレスをなびかせ、栗色の髪をふわふわと美しく巻いている。守ってあげたくなるような愛らしさを全身から醸し出す、いかにも殿方好みの令嬢だった。
「せっかくの華やかな夜会ですよ? 少しくらい難しいお仕事を忘れて、楽しめばよろしいのに」
ミリアは小首を傾げ、困ったように笑ってみせる。エルザは紅茶のカップをソーサーに戻し、真顔で答えた。
「私はこれを楽しんでいるのよ、ミリア」
「手帳の数字を眺めながら、ですか?」
「ええ。美しく整った帳簿を見るのは、どんな絵画を鑑賞するよりも心が洗われるわ」
「やっぱりお姉様は変わっていらっしゃいますね。私にはどうしても理解できませんわ」
ミリアはクスリと笑う。その瞳の奥に、仄暗い嘲りの色が浮かんだのをエルザは見逃さなかった。
そのときだった。楽しげに響いていた楽団の演奏が、不自然な音を立ててぴたりと止まった。
突然の静寂に、広間の空気が張り詰める。人々の視線が、一斉にある一点へと向けられた。
人混みを割って進み出てきたのは、近衛騎士のきらびやかな正装を身にまとった青年だった。燃えるような赤髪に、自信に満ちあふれた体躯。レナード・フォン・バルドール――バルドール伯爵家の嫡男であり、エルザの婚約者その人であった。
レナードの端整な顔は怒りで歪み、その足取りは真っ直ぐにエルザへと向かってくる。
「エルザ・フォン・アストレイ!」
広間の高い天井に、彼の怒声が容赦なく響き渡った。周囲の貴族たちがざわめき、一歩後ろへと退く。
「何かご用でしょうか、レナード様」
エルザは声を荒らげることもなく、静かに応じた。その態度が気に入らないのか、レナードはさらに声を張り上げた。
「私は今この場において、君との婚約を破棄させてもらう!」
その宣言が放たれた瞬間、会場は今度こそ激しい蜂の巣をつついたような騒然とした空気に包まれた。高貴な貴婦人たちは驚きのあまり扇で口元を隠し、紳士たちは互いに顔を見合わせてひそひそと囁き合う。大勢の賓客の面前での婚約破棄。それはアストレイ侯爵家にとっても、バルドール伯爵家にとっても、決定的なスキャンダルを意味していた。
しかし、当事者であるエルザの心臓は、驚くほど規則正しいビートを刻んだままだった。彼女は一つ呼吸を置き、冷徹な青い瞳で婚約者を見つめた。
「突然の申し出ですね。その判断に至った客観的な理由を、詳しく伺っても?」
「まだそんな白々しい態度を取るつもりか!」
レナードは激昂し、傍らにいたミリアの肩を強く抱き寄せた。ミリアは待っていましたとばかりに長い睫毛を揺らし、大きな瞳から大粒の涙をポロポロとこぼし始める。
「君は、この可哀想なミリアを執拗に虐げた! それが理由だ!」
「お姉様……私は、私は大丈夫ですから……レナード様を責めないでください……」
ミリアは声を震わせ、レナードの胸元に顔を埋めた。その弱々しい姿を見て、レナードの正義感は完全に暴走を始める。
「黙らなくていいんだ、ミリア。僕が君を守る。エルザ、ミリアは全てを打ち明けてくれたぞ! 君はアストレイ商会の仕事において彼女を徹底的に孤立させ、重要な役職から干し、皆の前で無能だと罵って恥をかかせた。実の妹に対して、よくもそんな残忍な真似ができたものだな!」
レナードの言葉に、周囲の観衆からはミリアへの同情と、エルザへの非難の眼差しが集まり始めた。
「まあ、なんてひどいお姉様かしら」
「やはり数字ばかり追っている女は、血も涙もないのだな」
口々に囁かれる根拠のない噂話。しかし、エルザの頭脳はすでに冷徹な計算を開始していた。泣き崩れる美少女と、彼女を庇って憤る正義の騎士。視覚的な情報だけで言えば、観客の感情がどちらに傾くかは明白だ。
「何か弁解があるなら聞いてやろう。もっとも、ミリアの涙以上の証拠など存在しないがね!」
レナードは勝ち誇ったように胸を張った。彼の中では、すでにエルザを有罪と断定し、悲劇のヒロインを救い出した英雄の気分に浸っているのだろう。
エルザはゆっくりと手元に引き寄せていた自身の革製の鞄を開けた。
「弁解ではなく、事実の提示をいたします」
「何だと?」
「証拠です。レナード様がそこまでおっしゃるのですから、当然、言葉の裏付けとなるデータはお持ちなのでしょう?」
エルザは鞄の中から、ずっしりとした重みを持つ分厚い書類の束を取り出した。それを大理石のテーブルの上に置いた瞬間、ドスンという鈍い衝撃音とともに、近くにあった銀のフォークがかすかに震えた。
その厚みは、およそ辞書数冊分。上質な革表紙には、厳格な金文字でタイトルが刻まれていた。
「これは……なんだ?」
レナードが不審そうに眉をひそめる。
「『ミリア・フォン・アストレイ業務監査報告書』です。全三百四十ページ、彼女が当商会に所属していた期間の、すべての勤務実態および財務データを網羅しております」
「そんなもの、君がいくらでも捏造できるだろう!」
「いいえ。こちらの報告書の末尾には、王立監査院の公認監査士三名の直筆署名と、国家魔導印が押されております。原本はすでに今夕、監査院の総裁室へ正式に提出し、受理されました」
エルザが淡々と告げると、レナードの顔つきがわずかにこわばった。王立監査院の名を出されては、一貴族の感情論で捏造だと突っぱねることは不可能だからだ。エルザは容赦なく、最初の一ページをめくった。紙の擦れる乾いた音が、静まり返った広間に響く。
「では、確認を始めましょう。レナード様のおっしゃる『虐げた』という事象についてです。報告書十二ページ。ミリア様が担当された直近三ヶ月の業務において、明確な発注ミスが計十二件。これにより生じた金銭的損失は、アストレイ商会全体の月間利益の約一割に相当します」
「な……っ、それは……」
ミリアの涙がぴたりと止まり、顔から血の気が引いていく。
「さらに、取引先への納期遅延が五件。うち二件は王室御用達の商会であり、我が家の信用を著しく失墜させました。極めつけは、先月発生した重要契約書の紛失二件です。これらはすべて、担当者であるミリア様の管理不届きによるもの。合計損失額は百二十万ルセルにのぼります。これほどの損害を出した人物に対し、これ以上の業務継続を認めず、就業規則に基づいて職務停止処分とした。これを『いじめ』と表現されるのは、いささか語彙が不足していると言わざるを得ませんわ」
エルザの声は、どこまでも澄んでいて、そして冷たかった。周囲の貴族たち、特に領地経営や商会に関わる紳士たちの目が、一瞬にして変わる。百二十万ルセルという数字の重みを、彼らは嫌というほど理解していたからだ。
「う、嘘です……私は、一生懸命やっていたのに、お姉様が難しい仕事を押し付けたから……」
ミリアが必死にレナードの腕にすがりつく。しかし、エルザはすかさず次の資料を突きつけた。
「押し付けた仕事ではなく、あなたが自ら志願された花形部署の業務です。ちなみに、ミリア様が『体調不良による激務の心労』を訴えて欠勤されていた期間、王都の高級サロンや劇場で頻繁に目撃されている知人の証言、およびその際の滞在費をすべて商会の経費として不正請求しようとした領収書の控えも、こちらの百五十ページ以降に添付してございます」
「エルザ! いい加減にしないか!」
レナードが耐えかねたように怒鳴り声を上げた。額にはじっとりと嫌な汗が浮かんでいる。
「数字や書類ばかり並べて、人を罪人扱いするな! ミリアが傷つき、苦しんでいたのは事実だ! 君には人の心というものがないのか!?」
「人の心、ですか。レナード様、私は感情論をすべて否定するつもりはありませんわ」
エルザは一歩、レナードへと歩み寄った。彼女のまとう圧倒的な理性のプレッシャーに、近衛騎士であるはずのレナードが、本能的な恐怖からわずかに身を引く。
「ですが、公の場で他者を断罪し、婚姻という法的な契約を一方的に破棄されるのであれば、そこに必要なのは涙ではなく『客観的な事実』です。あなたの発言には、主観以外の根拠が何一つ含まれていません。これでは会話になりませんわ」
エルザは静かに、しかし決定的な拒絶を込めて言い放った。
「まずは事実確認から始めましょう。お互いのために、徹底的に、ね」
冷たく輝く青い瞳に見下ろされ、レナードとミリアは、蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くすしかなかった。華やかな夜会の空気は完全に凍りつき、誰もが理解していた。この完璧なハイスペック令嬢による、容赦のない「論破」の時間が幕を開けたのだと。




