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第10話 新しい契約

第10話 新しい契約


あの大規模な投資詐欺事件と法廷での審判から、数ヶ月の月日が流れた。

王都ルセリアを覆っていた厳冬の雪はすっかりと溶け去り、アストレイ商会本部の最上階にある執務室の窓からは、初夏の瑞々しい青空と、庭園に咲き誇るカサブランカの白く大輪の花々が見下ろせた。窓から吹き込む風は心地よく暖かで、気品ある百合の甘い香りを室内にそっと運んできてくれる。

レナードとミリアという「感情」の澱みを取り除いたアストレイ商会は、エルザの完璧な数理経営によって驚異的な大躍進を遂げていた。東部街道の魔導インフラを完全掌握し、今や王国内でその名を知らぬ者はいないほどの大商会へと成長していた。


エルザ・フォン・アストレイは、仕立ての素晴らしい最高級の絹で作られた、深いエメラルドグリーンの仕立てドレスに身を包んでいた。袖口と胸元には細やかな金糸の刺繍が施され、彼女の艶やかな金髪と、知性の光を宿した青い瞳をいっそう際立たせている。

彼女は机に向かい、執務の合間のささやかな休息として、特製のマサラチャイを優雅に味わっていた。温かいミルクの中に、高貴な茶葉の渋みと、カルダモンやジンジャーのピリッとした刺激的な香りが溶け込んでいる。皿に添えられた、サクサクとしたアーモンドのビスコッティをチャイに浸して口に運ぶと、香ばしい甘みが豊かに広がった。


そのとき、執務室の重厚な扉が静かに開かれた。

事前の連絡通りに現れたその人物を見て、エルザはビスコッティを置き、椅子の背からスッと身を起こした。

プラチナブロンドの髪を気品高く整え、細身ながらも鍛え上げられた体躯に、王家の夜会用を模した仕立ての良い白い高官服をまとった美青年。王国の第一王子であり、国家財政の最高責任者でもあるユリウスが、護衛も連れずに一人で室内に歩を進めてきた。


「突然の訪問を許してほしい、エルザ。だが、君とどうしても直接交わしたい、重要な『契約』があってね」


ユリウスは、低く心地よく響く声でそう言うと、エルザの対面の長椅子に優雅に腰掛けた。エルザは完璧な淑女の礼を取り、自ら新しいカップに温かいチャイを注いで彼の前に差し出した。


「ユリウス殿下、王宮での執務でお忙しい中、我が商会へ足をお運びいただき光栄ですわ。して、国家の最高財政責任者たる殿下が、一商会の代表である私にどのようなお話でしょうか?」


エルザが澄み切った瞳で問いかけると、ユリウスは悪戯っぽく微笑み、懐から一冊の、極上の革で装丁された美しい書類を取り出した。その表紙には、王家の国章とアストレイ家の家紋が、並んで金箔で押されている。

ユリウスはその書類を、大理石のテーブルを滑らせてエルザの前へと提示した。


「単刀直入に言おう。私と、この国の『共同経営者』になってくれないか?」


エルザはわずかに眉を動かした。書類を開くと、その最上段には『王位継承権第一位ユリウス・フォン・ルセリアと、エルザ・フォン・アストレイにおける、国家財政および統治に関する特約付き婚姻契約書』という文字がくっきりと並んでいた。

それは、ただの情愛による結婚申し込みなどではなかった。この国の富を、権力を、そして未来を二人で等分し、共に管理運用しようという、最高峰のビジネス提携の提案だった。


「婚姻、ですか。殿下、私の耳にはそれが、極めて高度な経済投資、あるいは利権の包括的譲渡契約のように聞こえますけれど?」


「その通りだよ、エルザ。私は君のその、一切の感情を排して数字と事実だけで世界を見据える、冷徹で圧倒的な知性に惚れ込んでいる。今の王宮は、前時代的な感情論や、身内の情実で腐敗しかけている。国家という巨大な組織を正しく運営するには、君のような完璧な監査官が必要なのだ。私と君が手を組めば、この国の総資産を次の十年間で倍増させることができる。どうだ、計算は合うかい?」


ユリウスの瞳には、かつてエルザを感情論で罵ったレナードのような浅薄さは微塵もなかった。そこにあるのは、エルザと同じ、物事を論理と数字で冷徹に見極める者の深い光だった。


エルザはエメラルドグリーンのドレスの袖をわずかに整え、万年筆を手に取ると、契約書の項目を一つずつ冷徹にチェックし始めた。カリカリと、上質な紙を滑るペン先の手応えが、静かな室内に響く。


「……王家が保有する中央銀行の監査権の完全委譲。さらに、東方貿易における関税自主権の半分をアストレイ商会へ帰属させる。婚姻後の私的財産は完全に分離し、万が一の解消時の違約金条項も……ふむ、王家の年間予算の二割相当、ですか」


エルザの脳内の数理計算スキルが、瞬時にそのすべての条件を現在価値へと換算していく。引き算されるべきリスク、足し算されるべき莫大な国益。算出された答えは、アストレイ商会にとっても、そしてエルザという一人の人間にとっても、これ以上ない巨利を示していた。


チェックを終えたエルザは、万年筆を置き、手元のチャイを一口含んだ。スパイスの心地よい刺激が、彼女の脳細胞に最終的な決断を促す。彼女はユリウスを見つめ、本日一番の、美しくも酷薄な勝利の微笑みを浮かべた。


「お見事なプレゼンテーションですわ、ユリウス殿下。感情という不確定な変数が一切含まれていない、実に洗練された素晴らしい契約書です。――ええ、悪くない条件ですわ。この新しい契約、謹んでお受けいたします」


「素晴らしい。君ならそう言ってくれると信じていたよ、エルザ」


ユリウスは満足げに目を細め、エルザが差し出したペンを受け取ると、自らの署名の隣に、エルザが「エルザ・フォン・アストレイ」と流麗な筆致でサインを刻むのを見届けた。


かつて、感情論に流されて自滅していった愚か者たちは、今や奈落の底で泥をすする日々を送っている。しかし、数字と事実だけを信じて歩み続けたエルザは、ついにこの国の最高権力者の隣という、誰も到達できない絶対的な頂点へと昇り詰めたのだ。


「さあ、共同経営者殿。まずは明日の朝一番で、王宮の過去三十年分の裏帳簿の徹底監査から始めましょうか。どれほどの数字の膿が出てくるか、今から本当に楽しみですわ」


「ああ、手加減は無用だ、我が最愛の公認監査官。この国の歪んだ数字を、君のその手で、完璧に正してくれ」


初夏の輝かしい光が、新しい契約を結んだ二人の姿を眩しく照らし出す。こうして、王国史上最も冷徹で、最も強大にして無敵の「最強の夫婦」が、ここに誕生したのだった。



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