エピローグ 愛を育む
エピローグ 愛を育む
盛夏の眩い太陽が、王宮の最上階にある王太子妃のプライベートテラスを黄金色に染め上げていた。白い大理石の欄干には、大輪の Casablancaの百合がこれでもかと咲き誇り、むせるほどに甘く清らかな香りを運んできている。その百合の蜜を求めて小さな蜜蜂が羽音を響かせ、遥か眼下に見える王都の喧騒を和らげるように穏やかな風が吹き抜けていた。
エルザ・フォン・ルセリアは、涼やかなアイスブルーの上質な麻のサマードレスに身を包んでいた。胸元には、派手な装飾を排した、一点の曇りもない透明な水晶のブローチが光っている。
テーブルの上には、アストレイ商会の特製圧力鍋でじっくりと時間をかけて煮込まれた、鶏肉と夏野菜の massamanカレーが並んでいた。ココナッツミルクの濃厚な甘みと、何種類ものスパイスが混ざり合った奥深い香りが、夏の熱い空気の中に食欲をそそるように立ち上っている。エルザはスプーンで柔らかく解れる鶏肉を一口運び、その完璧な調和を静かに味わっていた。
そこへ、公務を終えたばかりのユリウスが、上着のボタンを少し緩めながらテラスへと姿を現した。彼のプラチナブロンドの髪が夏の光を浴びてきらきらと輝いている。
「やはりここだったか、エルザ。君の淹れるハーブティーの香りが、廊下まで漂っていたよ」
「お疲れ様です、ユリウス殿下。ちょうど、新しく届いたスパイスを使ったお料理が出来上がったところですわ。どうぞ、こちらへ」
エルザは微笑み、ユリウスのために冷たいレモン入りの麦茶をグラスに注いだ。カラン、と氷が涼しげな音を立てて響く。ユリウスはそのグラスを受け取り、喉を鳴らして飲み干すと、ふう、と深く息を吐いて長椅子に腰掛けた。
「実に見事な味わいだ。だが、君とこうして向き合っていると、ふと思うことがある。私と君は、王国を揺るがす数字の不正を次々と暴き、完璧な論理でこの国を導いてきた。言葉の魔術師のように人々を動かし、山をも動かすほどの確固たる信頼を築き上げてきたつもりだ。……だが、エルザ。もしも私たちの間に、ただの『契約』しかないのだとしたら、それはどれほど虚しいことだろうな」
「唐突に、深い哲学的な問いを投げかけますのね、殿下」
エルザはエメラルドのような青い瞳をわずかに細め、マサマンカレーのジャガイモをフォークで小さく崩しながらユリウスを見つめた。
「たとえ私が、人間や天使のさまざまな美しい言語を完璧に操り、誰もがひれ伏すような雄弁さを持っていたとしても。そこに互いを思いやる『愛』がなければ、それはただ、うるさく鳴り響く銅鑼や、やかましく響くシンバルのような、耳障りな雑音と変わりありませんわ。かつてのレナード様たちが叫んでいた中身のない感情論も、あるいは冷酷すぎるただの数字の羅列も、愛がなければどちらも等しく無価値です」
「その通りだ。どれほど未来を見通す知識があっても、どれほどの富を他人に差し出して施しをしたとしても、そこに真の愛がなければ、私たちは何も得ていないのと同じなのかもしれん。……エルザ、君にとって、その『愛』とは一体どんな数式で表されるものなんだい?」
ユリウスは悪戯っぽく微笑みながら、エルザの細い指先に自身の大きな手をそっと重ねた。その肌の温もりが、夏の陽気とは異なる心地よさでエルザの胸の奥へと染み込んでいく。
「そうですね……。愛とは、決して嫉妬せず、自慢せず、思い上がらないものですわ。下品な振る舞いをせず、自分の利益ばかりを追求せず、理不尽にいら立つこともない。何より、相手に傷つけられたとしても、それを決して根に持たない。不正を喜ばずに、ただ真実だけを喜ぶもの。……全てのことに耐え、全てを信じ、全てを希望し、全てを忍耐するもの。それが、私がこの数ヶ月で、あなたと共に導き出した答えです」
エルザの声は、いつもの冷徹な監査官のものとは違い、テラスに咲くカサブランカのように柔らかく、そして温かかった。
「私たちはこれまで、部分的な知識しか持っていませんでした。まるで、古い金属の鏡でぼんやりとした輪郭を覗き込んでいるかのように、世界を、そしてお互いのことを不完全にしか捉えていなかったのです。子供の時は、子供のような話し方をし、子供のような狭い捉え方をしていました。ですが、レナード様たちの自滅を見届け、私たちは大人として、その未熟な特徴を捨て去りましたわ」
「ああ。これからは、顔と顔を合わせるかのようにはっきりと、互いの真実を見つめ合うことができる。私が君を正確に知っているように、君も私を正確に知ってくれている。数字という完璧な証明の上に、私たちはようやく、その先にある最も優れたものを見つけたんだな」
ユリウスは重ねた手に少しだけ力を込め、エルザの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。窓の外では、夏の乾いた土の匂いと、瑞々しい緑の香りが混ざり合い、二人のいる空間を優しく包み込んでいる。
「信仰、希望、愛。この国を統治していく上で、残るべき大切なものはたくさんあります。ですが、その中で最も優れているのは、やはり『愛』ですわ、ユリウス殿下」
「殿下、ではなく、ユリウス、と呼んでほしいな。二人の時は。……これからは、数字を足し算するだけでなく、この胸の中にある愛を、一歩ずつ大切に育んでいこう。エルザ」
「ええ、喜んで。……ユリウス」
エルザはほんのりと頬を桜色に染め、完璧な、そして最も美しい幸福の微笑みを浮かべた。
かつて感情を徹底的に引き算し、数字だけで世界を裁いてきた令嬢は、今、かけがえのない伴侶と共に、決して絶えることのない真実の愛という名の、新しい物語を紡ぎ始めようとしていた。夏の花々の甘い香りに祝福されながら、二人の絆は、これからの王国の未来をどこまでも明るく照らしていく。




