7話
第7話 公爵邸
翌朝。
ラインハルト公爵邸は、なぜか祝賀ムードに包まれていた。
普段は規律正しく静かな朝の廊下が、今日はどこか浮き足立っている。
メイドたちがそわそわと行き交い、ひそひそ声があちこちで飛び交っていた。
まるで誰かの婚礼でも始まるかのような、妙に華やいだ空気が漂っている。
(嫌な予感しかしない)
レティシアは、洗濯室の扉を開けた瞬間、予感が確信に変わった。
「レティ! おめでとう!」
ドロシーが勢いよく抱きついてきた。
その勢いは、まるで戦場から帰還した英雄を迎えるかのようだ。
レティシアは思わず一歩よろめき、抱きつかれたまま固まった。
「何がですか?」
問い返すと、ドロシーの後ろでは、メイドたちが花びらを撒きながら、妙に祝福めいた笑顔を浮かべている。
その光景は、完全に結婚式の前撮りである。
「閣下の運命の人が、ついに上書きされたって噂よ」
「誰がそんなデマを!」
「ウォーレス様が言ってたわよ。ヴィクトールがついに動いたって」
(あの貴公子、余計なことを!)
レティシアは頭を抱えた。
ウォーレスの一言は、屋敷の噂網にとって最高の燃料だ。
彼が軽く呟いただけで、翌朝には屋敷全体が祝賀ムードになるのだから恐ろしい。
その時、廊下の向こうから、やけに爽やかな声が響いた。
「レティ! おはよう」
振り返ると、ヴィクトールが、なぜか花束を抱えて立っていた。
銀髪に朝日が差し込み、妙に絵になる姿だが、抱えているのは場違いなほど鮮やかな花束だ。
その姿は、まるで恋愛劇の主人公がヒロインを迎えに来たかのようで、レティシアは思わず目を瞬いた。
「閣下。それは?」
「今日の決定的状況作戦・第二段階だ」
胸を張って宣言する公爵。
その姿は、戦場に赴く騎士のように堂々としているが、手にしているのは花束である。
「やめてください」
「なぜだい」
「雑用係に花束を渡す主がどこにいますか」
「ここにいる」
「胸を張らないでください!」
廊下の角から、メイドたちがキャーキャーと悲鳴を上げている。
完全に恋愛ドラマの主人公を見る目だ。
(この屋敷、もうダメかもしれない)
レティシアがため息をついたその時。
「やあ、朝から賑やかだね」
まるで散歩の途中のような軽さで、ウォーレスが現れた。
彼の歩みは優雅で、どこか舞台俳優のような存在感がある。
その笑みは、すでに状況を面白がっているのが丸わかりだった。
レティシアは反射的に一歩下がった。
この男は、余計なことしかしない。
「レティシア嬢、おはよう。今日も可愛いね」
「おはようございます」
無難に返すが、内心では距離を取りたい気持ちでいっぱいだ。
ウォーレスの視線は、まるで珍しい宝石を観察するように好奇心に満ちている。
「閣下、花束なんて珍しいじゃないか。誰に?」
「レティだ」
「へえ。やっぱりね」
「違う! これは作戦だ!」
「作戦で花束を渡す公爵、初めて見たよ」
「黙れ!」
ヴィクトールの耳が真っ赤になり、ウォーレスは楽しそうに笑った。
その様子は、友人の恋路を面白がる悪友そのものだ。
その日の昼。
食堂では、メイドたちが円陣を組んでいた。
まるで戦略会議のような真剣さで、恋愛について語り合っている。
「レティと閣下、絶対に両想いよ!」
「いや、閣下が一方的に暴走してるだけでは?」
「でも、レティがマカロンごちそうさまでしたって言った時の閣下の顔、見たでしょ。あれはもう恋よ!」
「恋というか溺れてる?」
「溺死寸前ね」
レティシアは、スープを飲みながら静かにため息をついた。
スープの湯気が、彼女のため息と一緒にふわりと揺れる。
(どうしてこうなったのかしら)
午後。
レティシアが廊下を歩いていると、ウォーレスが声をかけてきた。
彼は壁にもたれ、まるで待ち伏せしていたかのようだ。
「レティシア嬢、少し散歩でも」
「ダメだ!」
突然、ヴィクトールが割り込んできた。
その動きは、まるで敵から姫を守る騎士のように素早い。
「レティは排水溝の掃除がある」
「え、でも今日は」
「ある!」
「閣下、排水溝は昨日」
「あると言ったらある!」
ウォーレスは肩を揺らして笑った。
「ヴィクトール、君さ、嫉妬してる?」
「していない!」
「じゃあ、なんで剣に手をかけてるの?」
「癖だ」
「癖で抜刀しないでください」
レティシアは慌てて公爵の腕を掴んだ。
その手は温かく、力強い。だが、方向性が間違っている。
その後。
レティシアは排水溝の掃除をしながら、ふと気づいた。
水の流れる音が、妙に静かに感じられる。
(なんだか、みんな私を中心に動いてない?)
公爵は暴走し、ウォーレスは面白がる。
メイドたちは恋愛会議を開き、 ハンスは胃薬を飲み、屋敷全体が妙な方向に盛り上がっている。
(雑用係って、こんなに影響力あったかしら?)
その時、背後から声がした。
「レティシア嬢」
「ウォーレス様?」
振り返ると、ウォーレスが真剣な顔をしていた。
いつもの軽薄さが消え、瞳に静かな光が宿っている。
「君に、伝えておきたいことがある」
「なんでしょう?」
「ギルバート・ラングレイ伯爵家が、君の行方を探している」
レティシアの手が止まった。
排水溝の水音が、やけに遠く聞こえる。
「どうして、今さら」
「理由はわからない。でも、動きがある。気をつけて」
ウォーレスの声は、いつもの軽さがなかった。
その真剣さが、逆に不安を煽る。
(ギルバート)
胸の奥が、少しだけ冷たくなる。
忘れたはずの痛みが、微かに疼いた。
「レティ。排水溝は終わったか」
突然の大声に、レティシアは肩を跳ねさせた。
「閣下、静かにしてください!」
「なぜだ」
「今、重要な話をしていたんです」
「誰と!」
「ウォーレス様と」
「……」
ヴィクトールの表情が、氷点下まで落ちた。
その視線は、ウォーレスに向けられた刃のように鋭い。
「ウォーレス。レティから離れろ」
「やだ」
「やだ、じゃない!」
「だって、君が嫉妬するの面白いし」
「ウォーレス!!」
廊下に公爵の怒号が響き渡り、屋敷中のメイドが悲鳴を上げた。
その騒ぎは、まるで戦場のようだ。
(本当に、変な屋敷)
でも。
(ここなら、私もう一度やり直せるかもしれない)
レティシアは、そっと微笑んだ。
その笑みは、ほんの少しだけ、昨日より温かかった。




